歴史ニュースウォーカー

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新島襄が教え子の徳富蘇峰へ送った手紙見つかる。自分や妻八重(大河フラグ)への誹謗に対して怒り爆発

>>未公刊の手紙が、神奈川県二宮町の徳富蘇峰記念館で見つかった

 へぇ〜すごいなあ、しんはっけんかあ(棒読み)

 「未刊行」ではあっても「新発見」じゃなさそうですね、実は。


新島襄同志社大HP)

新島襄:教え子・徳富蘇峰への手紙発見 怒りや悩み率直に
毎日新聞 2012年10月21日 11時21分(最終更新 10月21日 12時06分)

 同志社大の創立者・新島襄(1843〜90)が、同大学の前身・同志社英学校で教え子だったジャーナリスト、徳富猪一郎(蘇峰、1863〜1957)にあてた未公刊の手紙が、神奈川県二宮町徳富蘇峰記念館で見つかった。同大学設立に奔走した晩年、新島や妻八重に対する批判や中傷への怒りや悩みが率直につづられ、新島の人間臭さを垣間見ることができる。

 蘇峰を研究する石倉和佳・兵庫県立大教授(英文学)が、同館収蔵の手紙の折り帖(じょう)=蛇腹に折った製本=の中から、新島の書簡集に収録していない手紙を見つけた。東京で雑誌「国民之友」を発行していた蘇峰が1888(明治21)年11月〜翌年7月に受け取ったもので、5〜6通分あった。

 新島は当時、蘇峰の協力で「同志社大学設立の旨意」を発表し、義援金を呼びかけていた。手紙の内容の多くは設立運動に関する情報交換だが、当時、キリスト教系大学の設立を警戒する風潮もあり、神経をとがらせていることをうかがわせる部分があった。

 旧会津藩出身で、大阪毎日新聞毎日新聞の前身)主筆だった柴四朗(東海散士)は、「会津出身の同志社英学校の学生が戊辰戦争で犠牲になった旧会津藩士の法要に参列しなかった」ことを引き合いに、新島の運動への批判めいた記事を書いた。

 これに対し、89年1月13日付の手紙で新島は「法外ナル虚誕(きょたん=うそ)を吐キ会津生(会津出身の同校学生)を罵言」と批判。さらに、「何ニモ関係ノナキ小生ノ名迄(まで)モ引会ヒニ出し不足(不満)ダラゝゝの事を申立ラレ候」と記した。

 新島は翌90年、大学設立を見ることなく死去した。石倉教授は「新島がひそかに愚痴をこぼしたのではないか。設立運動の実務者の蘇峰に、恩師と教え子という関係を超えた信頼感を持っていたことがうかがえる貴重な史料だ」と話している。
(略)

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