歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

書評・西俣総生『杉山城の時代』(角川選書)

 歴史好きから戦国時代を好きになり、そして城を巡るようになる。

はじめは石垣や天守が残っている松本城・姫路城・犬山城などを訪れますが、さらに、はまりだして、土づくりの城の魅力にとりつかれる人たちが増えています。

そうしたお城ファンの道を進んで行くと、必ず耳にするのが「杉山城問題」。

杉山城は埼玉県比企郡嵐山町にある国指定史跡であり、2017年の4月に発表された続・日本100名城にも選ばれたお城です。

典型的な土の城で、広大な城内を歩いてみると、横堀や土橋、屈曲した曲輪など、敵に「横矢をかける」ためのとても技巧的な工夫がこらされており、城ファンにとっては全国の城跡のなかでも、訪問したい一つでしょう。

その杉山城がなぜ「問題」と呼ばれるのか。「杉山城問題」という言葉を作った一人である城郭研究者の西俣総生さんの著書『杉山城の時代』(角川選書)が2017年10月、刊行されました。

 

 

埼玉の無名の山城がなぜ「問題」なのか

かつて、杉山城はその城作りの技術の高さから「小田原北条氏(後北条氏)」の16世紀中頃に作られた城とされてきました。

ところが、国の史跡指定に伴う、広範囲の発掘調査の結果、遺物や遺構などから、それより50年さかのぼる15世紀末~16世紀初頭の、関東で騒乱が起きていた扇谷・山内両上杉氏の時代のものと判明し、その後、発見された文書により、それが裏付けられたのです。

さらに言えば、城郭というよりも短期的な「砦」だったとみられているのです。

写真は杉山城の横堀(恵美撮影)

 

専門家VS在野の研究者の合戦の場 

杉山城問題というのは一言で言うと杉山城というお城が、いつ誰か築いたかという論争です。

その差はわずか50年。

それが、なぜ「杉山城論争」でなく、「問題」と呼ばれるようになったかというと、 お城の研究の担い手が、ガラッと変わることを決定付けた、研究史上の画期となったからです。

中世・戦国の城郭は、1980年代まで、大学などでの学術研究の対象とは、ほとんど考えられていませんでした。

それまで、お城を研究していたのは、在野の研究者たちで、自分たちで城跡を歩いて、「縄張り図」というものを描いてきました。 ご本人たちはもちろん「研究」と考えていましたが、端から見ると、「郷土歴史家」のような趣味の範疇と思われてきたのが現実でした。

それは、縄張り研究者である西脇氏ご本人が

 もともと縄張り研究は、民間学として発達してきたという経緯がある。日本においては、城郭は歴史学や考古学の研究対象に入ってこなかったからだ。

 歴史学では文献史料に登場する城に言及することはあっても、モノとしての城郭を扱うことはなかった。考古学は先史時代を主たる研究対象として発展してきたし、近世城郭は建築史の研究対象であったから中世・戦国期城郭はそれら分野の隙間に埋没して、学術研究の対象にはなってこなかったという実態がある。

 そうした中、各地の城跡を踏査してせっせと縄張り図を描いてきたのは、公的研究機関に属さない城マニアのような人達だった。 (35P)

 

と指摘するとおりです。

研究内容を、所属する組織によって優劣をつけることは権威主義だと批判することは簡単です。

しかし、現実問題として、学説が説得力を持つには、これまで学術の分野で長い研鑽の歴史を持つ文献史学や考古学のトレーニングを受けてきた大学など専門機関の研究者の関与が必要なことも、れっきとした事実です。

例えば、郷土歴史家が自分の家の蔵から重要な古文書を発見し、その内容について独自解釈の持論をあげたとしても、大学に所属する専門の研究者が、理論に基づいてそれと異なる説を展開したら、後者のほうが定説として受け入れられるでしょう。

平安時代の仏像を持っているお寺の住職が勝手に「うちは飛鳥時代に建立した寺なので、これも飛鳥時代の仏像です」と認定しなおすことは、たとえ1000年間守り抜いてきたからといって、みとめられません。

ところが、専門の研究者がいなかった城郭研究においては、縄張り研究者が「史料」(城跡)の「発見者」でもあり、「説を証明する人」でもあったのです。

もちろん、絶対に忘れてはいけないのは「歴史学の対象」でないと見捨てられていた各地の大切な歴史が込められた城跡を大小かかわらず記録を残し、評価した最大の殊勲者は彼ら縄張り研究者たちであることです。

こうした城研究の担い手と守り手を自負してきた縄張り研究者たちが、「関東一円に勢力を広げた戦国大名・小田原北条氏が技巧の粋を集めた究極の城」と、自信を持ってお墨付きを与えてきた杉山城の時代区分を、根底からひっくり返されたわけで、当事者である縄張り研究者たちは、学術成果を頑として認めない、という気持ちもわかります。

このままでは、学術と縄張り研究者の一部との間の溝がどんどん深くなると、懸念されたこともあるのでしょう。

縄張り研究者の視点から

本書は、発掘調査員の経験もある著者が「縄張り研究者」であるとの立ち位置を明確にした上で、とくに前半は杉山城問題の経緯について、非常に客観的に説明をしています。

縄張り研究者にみられがちな「オレが見たんだから間違いない」的な我田引水を控えており、著者がなんとか縄張り研究も「学術」へと昇華したいという思いが垣間見られ、たいへんに好感がもてます。

後半の「それでも杉山城は後北条氏時代」との主張についてはどうでしょうか。 周辺(比企地方)の城の縄張りから城のパーツ(横堀りや土橋など城を構成するもの)をデータベースにして、比較するという縄張り研究ならではの手法が非常に面白く、縄張り研究が学術の世界と並べる有効な切り口ではないかと、興味を持ちました。

これに基づく著者の指摘には驚きました。

 杉山城と比企地方の諸城とをあらためて比較してみよう。試みに、それぞれの城がどのパーツを使い、どのパーツを使っていないのか一覧にしてみた。

この比較は、パーツのバラエティをポイント制で表示したものなので、高得点の城が縄張りとして優れているという評価にはならない。

築城年代が下るほど高得点になるわけではないこともわかる。と同時に杉山城は比企地方の他の城に比べて特別に多彩なパーツを駆使しているとは言えないことも読み取れる。

築城にあたって、どのパーツとどのパーツを採用するかはケースバイケースが基本であったようだ。つまり築城者は前提となっている条件や与えられた任務、実際に城を築く地形などを考慮して最適なパーツの組み合わせをその都度選択するのである。

 杉山城は比企地方の他の城と比べた場合に格段に技巧を駆使した縄張りであるとは必ずしも言えない。筆者もこの城が「最高傑作」だとか「教科書的」だとは思わない。(249ー252ページから一部抜粋して引用)

実は高い築城技術はいらなかった杉山城

 

杉山城は、非常に規模が大きくて、城内を歩いてみるとその広さや技巧に圧倒されますが、それはあくまで「見た目」と「主観」。

因数分解すると、必ずしも高い技術が築城に必要だったとは限らないのです。

また、新しい城ほど、技巧やパーツが増えるとも限らない。城を造る人は、ニーズによってその城の形を決めた、という言われてみれば当たり前だけど、時代区分やパーツの進化ばかりを考えていると、見逃してしまう重要な指摘です。

筆者の核心的な指摘は続きます。

 このような縄張りを施した理由として、筆者が思い当たる合理的な説明は一つしかない。守備兵力の制約である。城域を広げると守備に必要な兵力が当然ふくらむ。したがって、守備兵力がかぎられているのなら城域もまたコンパクトにまとめなくてはならない。(257ページ)  

もしあなたが城の守将だとして、守備隊の弓・鉄炮装備率が1割か2割だったとする。つまり300人の守備隊を預かっているとしたら弓・鉄炮を合わせて40~50丁ぐらいしかないわけだ。土塁の上にずらりと並べて敵を迎え撃つなど、できるわけがない。どうするか。弓・鉄炮をできるだけ”効きの良い”場所に配置するのが、最も合理的効果的な使用法なのではあるまいか。(253ページ)

 杉山城の場合、全ての曲輪が横堀によって囲まれているから、攻城軍側は必然的に虎口の突破を狙ってくる。そこで侵入者が方向転換や堀を越えるような動作を余儀なくされる「足止めポイント」を設けておき、そこを狙撃すれば、敵の侵入を阻止できることになる。 (255ページ)

筆者は上記の指摘を杉山城の一部の構造について、「守備兵力の制約」との理由を説明しています

が、これこそ、杉山城がなぜあれだけ巨大で、あれほど複雑な細い道と曲がり角を作って、そして、曲輪内に門や櫓などの建物をつくらない・整地もしない短期的な砦的な城であった理由ではないかと、思いました。

「練りに練られた設計図に基づく究極の城」ではなく逆に「兵力に見合った城の選地に失敗した、もしくは選地が先にありきで、地形の制約でコンパクトにできず大きく作りすぎてしまい、そのため細かい技法を組み合わせて、少ない兵力で守りきれる城にした」ということになるのではないでしょうか。

山内上杉氏に見捨てられた前線司令官の城?

ここからは私見です。 史料で「椙山(杉山)の陣」と書かれるように、突如、両上杉氏の争奪戦になった杉山城周辺。

この標高40メートルほどの丘は重要な場所で、取り合いになったことでしょう(両上杉氏のどちらの城だったのかは両説ありますが、有力な山内上杉家としておきます)。

なによりも、この丘を押さえることが大切なので、先に丘に入った山内上杉家の家臣のAさんは、急ぎ陣城の構築をはじめます。

そこに何百人、何千人、もしくは何十人の兵が配備されるかはこの時点ではわかりませんが、とりあえず、丘を守れるように、その地形に合わせて、城の外側のラインを決めます。

地形を調べてみたところ、丘は三方向に尾根が伸びていて、それぞれの尾根にも城域を広げる必要がありました。南側の尾根はだらだらと中途半端になだらかで、かなりの面積を城域にしなくてはいけませんでした。 Aさんは、とりあえず外側の防御ラインを決めて、砦を造り始めます。

「ここでの滞在は、長くなりそうだな。曲輪も整地して、雨風をしのげる建物が欲しいな」と考え、大将の山内上杉氏(扇谷上杉氏なら重臣太田道灌とかかな?)のもとへ、下のような書状を送ります。

「扇谷のやつらに先駆けて杉山の丘をおさえました! 超重要な最前線になると思うので、砦にしようと思うのですが、けっこうこの丘が大きくて、 600人の兵を駐屯させる必要があります。 うちらの部隊は100人しかいないので、あと500人送ってください。 あと、ここらへんに木が全然生えていないので、わたしたちが寝るための建物をつくるため、 材木もたくさん送ってくださいね。 殿さまへ かしこ」 返信が来ました。

上杉の殿さまや太田氏ではなく、もっと下っ端のBさんからです。 Aさんは嫌な予感がしました。

「Aくん、おつかれ~ 殿さまも太田さんも、めっちゃ褒めてたよ!

さすがAくんはやるときはやるって でね、殿さまが『Aはやる男だし、一騎当千の部下がいる。こちらからも一騎当千の兵を200人を追加で送れば余裕じゃね?』って。

重臣のみなさんも『いやぁ、Aは殿からそれほど期待されていてうらやましいですな』だって、みんなAくんのことべた褒めだったよ。というわけで300人でなんとかして。

あとね、材木のことだけど。殿さまの愛人いるじゃん?彼女のためにお寺つくるらしくて、ないんだって。

かわりに殿さま直属の軍配者(参謀)がAくんのためにわざわざ天気を占ってくれて、『杉山付近はしばらく暖かく、雨もあまり降らないでしょう』とのこと。

だから建物なくても大丈夫だよ。

殿さまがくれた最高級の瀬戸焼(大釜1期)の壺にお酒入れて贈るから、みんなでそれを飲んで温まって。

ということで、がんばってね!

Bより、返信不要だよ。」

「うお~!」

とAさんは怒りくるい書状を破り捨てましたが、急いで建物を建てるための曲輪の整地工事をストップさせて、300人で守りきれるように、設計図を練り直しだしました。

以上、想像でした。

山内上杉氏も扇谷上杉氏も担ぎ上げられた人たちなので、自前の兵力をあまりもっていませんでした。

50年後の戦国武将北条氏となると、複数の国を直接支配して、動員力も財力も格段にアップしています。強敵・上杉(長尾)謙信と対峙する重要地点にある杉山城を使うとしたら、少人数で守れる工夫をこらすよりも大人数を入れるでしょうし、効果的な反撃ができる櫓などの建物をつくらないということはありえないのではないでしょうか。

筆者の結論とは、異なりますが、

あなたがもっとも理にかなっていると思う答えを選べば良いのではないか。われわれには杉山城を歩きながら人の営みについて思いを巡らす自由があるのだ。(274ページ)

と書いているように、杉山城についての思いが広がった読書体験でした。

(ただ、せっかく縄張り研究を学術に引き上げようとしているのに、最後の最後で「研究上の価値観などというものも、所詮は個人の経験によって形作られるものではなかろうか」(あとがき)や「城郭研究においてこの先、どのような進展があろうとも、杉山城についての公式見解が覆ることはないものと考えた方がよさそうだ」(272ページ)と議論による学問の向上を否定しているのは残念でした)

 

山城巡りをしている、しようと思っている人は、一読をオススメします。