【現代語訳】八重の桜従軍記@戊辰戦争・会津の決戦【連載スタート・1回目】
今晩(2013年1月13日)はNHK大河「八重の桜」の2回目ですが、恵美嘉樹は大河ドラマに対抗して(笑)、山本八重の連載(たぶん全3回)を始めます。
歴史ニュースサイトとして初の試みです。
その名も、「現代語訳 八重の桜従軍記」!!
過去記事【大河ドラマ】WEB上、最良まとめ「山本八重と戊辰戦争」【10分動画付き】でも書いていますが、晩年の八重はインタビュー形式で、自分の戊辰戦争での経験について「自伝」を残しています。
明治42年(1909年)11月の「婦人世界」という雑紙にある
「男装して會津城に入りたる当時の苦心」です。
新島八重、64歳のときのお話です。
明治ですので、読みにくい旧漢字などをつかっているので、現代語訳ところにより超訳していきます。
さっそくスタートしましょう。
- 男装して弟のかたきを取る覚悟
私の実家は会津藩の砲術師範役でした。
ご存じのとおり、慶応4年(1868年)8月23日、新政府軍が会津盆地に入ってきたので、いよいよ城に立てこもることになりました。
その時、私は、着物も袴もすべて男のものを使い男装しました。
麻の草履をはいて、長短2本の刀をさし、元込め式の最新式の7連発銃を肩にかついで、城へと参りました。
ほかの女性たちはというと、なぎなたを持っていました。
私の家は砲術師範ですから、わたしもそっちのほう(鉄砲)に少々経験がありましたので、鉄砲を選んだというわけです。
それに、、、、
わたしには三郎という弟がおりました。彼がその年の春の鳥羽伏見の戦いで戦死してしまいました。
彼の形見として着物と袴が届いたのです。
ですから私は、
弟のかたきをとらねばならぬ!
私は三郎なのだ!
という気持ちで、形見の衣裳を着たわけです。
一つは、主君の会津藩主のために、もう一つは弟のために、という思いを心に秘めて、命の限り戦う決心で、城に入ったのです。
- 白無垢が赤い血潮に染まって
お城の入り口の橋まで行くと、入城しようとする人たちがたくさん集まっていました。
そこには抜刀した武士がいて
「たとえ女といえども卑怯なまねは許さないぞ(逃げるな)」と叫んでいて、殺気立っていました。
近くにいた女性は、白無垢を着ていたのですが、その白地が真っ赤な生々しい血潮に染まっていたのです。
おそらく、彼女の家族のなかに、「戦うのはいやだ、逃げよう」という卑怯者がいて、そのものを殺したときに返り血を浴びて、そのまま城にやってきたのです。
そのほか、小さい子どもを背負ったり、老人の手をひいてくる女性など、さまざまでした。
城に入って、本丸御殿(天守閣ではなく藩主らの住む居住空間)に行きますと、おおぜいの女性たちが照姫さま(藩主の松平容保の義姉)を取り囲んで警護していました。
みな短剣(懐剣)を持って、いざとなれば城を枕に殉死する覚悟だったのです。
(続きます)
【八重の桜エントリー集】
- 【大河ドラマ】WEB上、最良まとめ「山本八重と戊辰戦争」【10分動画付き】
- 【初回21%越え】NHK大河ドラマ「八重の桜」離陸!先行機(平清盛)の初回から浮上せずは避けられるそう?【口コミ・評判・感想】
- 「戊辰戦争で、官軍が会津盆地へなだれ込む直前の状況を記した記録が「発見」された。」
- 「新島襄が教え子の徳富蘇峰へ送った手紙見つかる。自分や妻八重(大河フラグ)への誹謗に対して怒り爆発」
- 【大河ドラマ】暴走する「八重の桜」【出版界は柳の下にどじょう1000匹、ただし共食いの模様】
- 参考 同志社大特設ページ「新島八重と同志社」