【現代語訳】八重の桜従軍記【ディレクターズカット】
=写真は同志社大特設HP
NHK大河「八重の桜」が行われていますが、当サイト編集人の恵美嘉樹は大河ドラマに対抗して(笑)、山本八重の「肉声」を
歴史ニュースサイトとして初めて、現代語訳しました!
(過去3回に分けて連載したものを最初から通しで再掲載します)
その名も、「現代語訳 八重の桜従軍記」!!
過去記事【大河ドラマ】WEB上、最良まとめ「山本八重と戊辰戦争」【10分動画付き】でも書いていますが、晩年の八重はインタビュー形式で、自分の戊辰戦争での経験について「自伝」を残しています。
明治42年(1909年)11月の「婦人世界」という雑紙にある
「男装して會津城に入りたる当時の苦心」です。
新島八重、64歳のときのお話です。
八重は、この記事に合わせて、冒頭の有名な男装したおばあちゃんの写真を撮影したのです。
明治ですので、読みにくい旧漢字などを読みやすく現代語にしました。さっそくスタートしましょう。
- 男装して弟のかたきを取る覚悟
私の実家は会津藩の砲術師範役でした。
ご存じのとおり、慶応4年(1868年)8月23日、新政府軍が会津盆地に入ってきたので、いよいよ城に立てこもることになりました。
その時、私は、着物も袴もすべて男のものを使い男装しました。
麻の草履をはいて、長短2本の刀をさし、元込め式の最新式の7連発銃を肩にかついで、城へと参りました。
ほかの女性たちはというと、なぎなたを持っていました。
私の家は砲術師範ですから、わたしもそっちのほう(鉄砲)に少々経験がありましたので、鉄砲を選んだというわけです。
それに、、、、
わたしには三郎という弟がおりました。彼がその年の春の鳥羽伏見の戦いで戦死してしまいました。
彼の形見として着物と袴が届いたのです。
ですから私は、
弟のかたきをとらねばならぬ!
私は三郎なのだ!
という気持ちで、形見の衣裳を着たわけです。
一つは、主君の会津藩主のために、もう一つは弟のために、という思いを心に秘めて、命の限り戦う決心で、城に入ったのです。
- 白無垢が赤い血潮に染まって
お城の入り口の橋まで行くと、入城しようとする人たちがたくさん集まっていました。
そこには抜刀した武士がいて
「たとえ女といえども卑怯なまねは許さないぞ(逃げるな)」と叫んでいて、殺気立っていました。
近くにいた女性は、白無垢を着ていたのですが、その白地が真っ赤な生々しい血潮に染まっていたのです。
おそらく、彼女の家族のなかに、「戦うのはいやだ、逃げよう」という卑怯者がいて、そのものを殺したときに返り血を浴びて、そのまま城にやってきたのです。
そのほか、小さい子どもを背負ったり、老人の手をひいてくる女性など、さまざまでした。
城に入って、本丸御殿(天守閣ではなく藩主らの住む居住空間)に行きますと、おおぜいの女性たちが照姫さま(藩主の松平容保の義姉)を取り囲んで警護していました。
みな短剣(懐剣)を持って、いざとなれば城を枕に殉死する覚悟だったのです。
- 火傷しながらおむすびを握る
若松城に入城した女たちの役目は、兵士たちの食料を作ること、鉄砲の弾(鉛からつくる)を作ること、負傷者の看護をするの3つでした。
大きなお釜をいくつも並べて、順番に炊けるそばから、おにぎりを握りますが、炊きたてのご飯ですから、熱くて熱くて手の皮がむけそうになります。
一つむすんでは、水に手をつけ、また一つむすんでは水に手をつけて、
しかし、それではなかなか追いつかないのです。
この水にご飯つぶが落ちますが、捨てることはしません。あとでお粥にして負傷者に食べさせました。
黒く焦げたところや、地面に落ちてしまったところは、私たち女たちがいただきましたが、汚いとか気持ち悪いなんてことは、この時はまったく考える暇もありませんでした。
- 一番心配だったのはトイレでの「戦死」
ただ、こうして働いているので一番心配だったのは、トイレ(厠)に入っている時でした。
武家の女として、敵に一矢も報いずに犬死にするようなことがあって殿様に対しても、家名に対しても、誠に恥ずかしいわけです。
たとえ、流れ弾に当たって死んでも、戦えるだけ戦って立派な最期を遂げたい一心でした。
そういうことですから、もしトイレに入っているときに大砲でも破裂してそのまま最後となったときに、女として最も恥ずかしい醜態をさらすことになるからです。
弾丸をつくる話は、山川操子さん(東京帝大総長の山川健次郎の妹)のお話にあるとおりですが(=番外編でまた載せます)のお話のとおりですが、百発ぐらいずつちゃんと箱に入れて、それぞれ分配しました。
それがなかなか重いので、普通のときなら一箱でもとても持てそうにないのですが、気が立っている時ですので、2箱も3箱も肩にかついで、弾丸担当に渡しました。
男装をしていただけでなく、まったく男と同じ働きをしたのです。
負傷者はどんどん増えていきましたが、なにぶん籠城中のことで、医薬品が十分ではありませんでしたから、助けられる惜しい命をなくした人もたくさんいました。
ある晩、私が廊下を通りますと、長い廊下に武士たちが一面に寝ていました。
「ああ、長い激しい戦いで疲れて寝ているのだろう。気の毒だ」と思い、
しかし、「大切な身を風邪でもひいてしまったら大変だ」とあかりを付けてみますと、どうでしょう。
寝ていると思ったのは、死んでいる戦死者だったのです。
死体の置き場がないのですから、とりあえず廊下に置いたのでした。
- 切腹した7歳のサムライ
私は、入城した当時は側女中(そばめじょちゅう)見習いでしたが
8月25日に「側女中格」に昇格しました。
たしかその日だったと思います。
太鼓門のほうへ出ようと玄関から降りますと、12、3歳の男の子が13、4人、
かわいらしい武装をして訓練をしておりました。
わたしの姿をみるとみんなが駆け寄ってきて
「八重さま、戦うなら連れて行ってください」
とすがりつきました。
私は
「ああ、こんな子どもまでも殿様のために命を捨てようとしているのか」
と思わず涙がこぼれました。
そこで
「いいえ、私は戦争に行くのではありません。戦争のときは知らせてあげるから、それまではおとなしくしていなさい」
と言いました。
子供たちは素直に納得して、また訓練を始めました。
その後、開城(降伏)する少し前になって、太田小兵衛という人の三男の三郎という
7歳の子どもが、城の火薬庫が爆発したときに、
「ああ落城した」と思って、一緒にいた母親とともに切腹しましたが、
まことに立派な死に様でした。
またある婦人は、母と娘と3人で入城していましたが、
「いざという時には、母と娘の介錯は自分がするが、もしも自分が死に損ねたら介錯してもらいたい」と頼まれました。
- 1日1200発の大砲を浴びる
官軍の砲撃はすさまじい激しさです。
時には城の本丸御殿のなかでも破裂し、屋根を破り、床板を吹き飛ばし、地中にめり込む
という有り様でした。
吹き飛ばされた床板は、五寸くぎで打ち付けてあったほどのものでしたから、
いったんそうなってしまうと、そこは足踏みもできないほどの被害でした。
9月12日に、ある人が月見櫓で官軍の砲丸を数えていたら、その日1日に
1208発もあったということでした。
1度音が聞こえる度に、黒い点を付けた数えたそうです。
ちょうどこの戦いが激しい最中、私はある晩、中老の瀬山様と夜回りをしておりますと
むこうから腕に負傷した一人の武士がやってきました。
「誰か」と尋ねると、
「今、酒を飲んで同僚とけんかをしてケガをしました。治療所はどこですか」
と言いました。
瀬山様は女とはいえ、さすがに中老です。
「今大変なときに、殿様にささげた身体を軽々しく酒に酔って傷つけるような人に
治療所は教えられません」
とキッパリはねつけました。
私もそばにいて「なるほど」と感心しました。
開城になったのが9月23日、その夜、三の丸を出ます時に
あすの夜はいづくの誰かながむらむ
なれしみそらにのこす月かげ
という歌を一首詠みました。
そして今、人から薦められたこともあって、入城当時を思い出して、男装して写真をとりました。
2本の刀と鉄砲と草履は、当時の形見でございます。
(完)