歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

日本初の神様「天御中主大神」(アメノミナカヌシ)は地球創生の物語?【日本最強神様選手権エントリーNo3】

日本最強の神は誰か?
つづきましては、

id:hesocha さん「現れるなり隠れる超絶照れ屋「天御中主神」は名前だけは強そう」

とのコメントにお答えしたところですが、コメントにあるように天御中主神(アメノミナカヌシ)はほとんどエピソードなし。

しかし、古事記ではもっとも早く登場する神様なのです。

三浦佑之さんの「口語訳古事記」から引用させていただきますと

天と地がはじめて姿を見せた。その時にの、高天の原に成り出た神の御名(みな)は、アメノミナカヌシじゃ。次にタカミムスヒ、つぎにカムムスヒが成り出たのじゃ。この三柱のお方はみな独り神での、いつのまにやら、その身を隠してしまわれた。

漢字にするとこのようになります。

天御中主神(1)

高御産巣日神(2)

神産巣日神(3)

独り神というのは、このあとのイザナギ・イザナミのように男女にわかれる前の状態の神様です。結婚相手がいないので、うまれてもただ消えていくのみです。

その後も名前だけの神様がわいてでます。「湧いて」というのは失礼ですが、そうした登場と消滅を繰り返すのです。

泥から生まれたウマシアシカビヒコヂ(4)

天で生まれたアメニトコタチ(5)

ここまでの5柱を「別天つ神(ことあまつがみ)」と古事記は呼びます。

続いて、

クニノトコタチ(6)、トヨクモノ(7)

ここまでが独り神です。

そしてとうとう男女の神が登場します。

ウヒヂニ・スヒヂニ(8)は、兄と妹です。

ツノグヒ・イクグヒ(9)、これも兄と妹(以下同文)

オホトノヂ・オホトノベ(10)

オモダル・アヤカシコネ(11)

そしてそしてついに生まれますのが我らがカップル!

イザナギ・イザナミ(12)です。

兄と妹をひとまとめにするのか!と、シスコンサイドからはおしかりを受けそうですが、古事記がそうカウントしているのでお許しください。

古事記では、さきの5柱を「別天つ神」そして、クニノトコタチ(6)からイザナギ・イザナミ(12)までを、カップルは一つとして数えて「神世七代」(かみよななよ)と呼んでいるのです。

古事記の世界観のすごさは、人間的な物語がはじまる以前のこの部分かもしれません。

ビッグバン前を思わせるようななにもない世界からビッグバン、太陽系、地球が生まれる様子を表現する、別天つ神。

地球が冷えて海や地面が生まれていく様子を表現するクニノトコタチ(国之常立神)や豊雲野神。

そして性別のない単細胞生物がうまれ、性別のある恐竜(ウヒヂニ兄妹あたり?)や哺乳類(オホトノヂ兄妹あたり?)へと進化していき、イザナギ・イザナミという人間(もしかしたら類人猿くらいの年代?)が登場するという、科学的な生物の進化を表現している(ようにもみえる)のです。

 

 

 

口語訳 古事記―神代篇 (文春文庫)

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日本の神様と神社-神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

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坂本龍馬が「新国家」と言ったという新出史料は怪しいと思う

坂本龍馬の新しい書状が見つかったそうです。

この手の来歴のわからないものについては、とりあえず「怪しい」と思うのが、歴史にたずさわるものの流儀だと思うので言っておきます。(というか、偽物の話が大好き)

大政奉還から150年という年に合わせて、見つかるというタイミングもさることながら、

高知県がなぜ龍馬についての資料の悉皆調査を研究者でなく、企画会社に頼むのか。

そして企画会社はなぜ見つけた資料を自分が購入してしまうのか。

意味がわかりません。

過去の人の文字に似せて毛筆で書くことは、ある程度の技量の持ち主ならば可能です。

それを見破るのは、歴史家ではなく、本来は書道家です。

歴史家は書の専門家ではないので、過去のその人の真筆といわれるものとを見比べて大きな矛盾がなければ「真」とするしかないと思います。

でも、書の世界では違います。

書の世界は、先人の筆跡を真似して書くのがスタンダードな技術だから、似ていて当たり前、似ているから真筆とはしません。

「国家(こっか)」って幕末にもう流通していたの?

ここから先は全くのフィクションです。

下のニュースを見て、もしもこの書状を最近書いちゃった人がいたとしたら

「あちゃー」と思っているかもしれません。

「新国家」って単語はもしかして幕末にはない「オーパーツだった?」とドキドキ。

「国家」という単語は、幕末においては「日本国」とか「アメリカ国」とかいう意味ではなく「くにけ」と読んで「地方から江戸に出てきた武家。国衆。国武士」(日本国語大辞典より)という使い方をしていたんだと思うんですよね。

もっとも、未来が見えるスーパー維新の戦士坂本龍馬さまですから、福沢諭吉がどんどん英語の概念を日本語化するより早く、考えついていたってことも当然ありますね、うん。いやむしろ英語を独学で学んだ福沢諭吉は坂本龍馬さまから英語を教えてもらった可能性だってありますわね(棒読み)

3年前に見つかった書状の続編です!って映画かっ!

また、なによりひっかかるのが、今回の書状では、3年前にNHKのバラエティ番組で偶然みつかった新出の龍馬の書状に出てくる登場人物が「主役級」となっているからです。

それまで、龍馬と福井藩士の三岡八郎の関係はあまり脚光を浴びていなかったのが、今回は突如、クローズアップされていて、前回見つかった書状の「続編」とでもいうべき内容です。

この3年間に見つかった2通の手紙が、1通目の続きである、と。

そんな都合のよい展開を、歴史に関わっている人間は容易には認めないというだけのことです。

なんたるへそ曲がりでしょう。

 

「◯◯の変は△△の陰謀だった」とかの本でベストセラーを書きたいんです、本当は!(笑)

紙が新しいって?地中に埋めてなかったからだYo?

 

 ふつうは著名人の手紙は遺族が持っているとでもない限り、封書の中に入ったままなんてことはないです。

 では、今回の書状がなぜ不自然にも封書に入っているかというと、理由は簡単です。紙がピカピカで新しいからです。

 贋作作りのプロは、何年も地中になにも書いていない和紙を埋めてタイムマシーン状態にして「ふるっぽい」紙をたくさん用意しておくものです。

 「新国家」というナウでヤングな響きの言葉の使い方やきれいな真っ白な紙に書いていることなど、わたしのようなものにでも突っ込まれるのは、本当のプロフェッショナルの仕事ではないかもしれません。

 つまり本物ということですね、うん!(←日和ってみた)

西郷隆盛についての書状は来年発見されます

 

ただですね、古書店では、都合のよいタイミングで売り出されることはよくあります。それは、古書店がワインのように寝かせているからです。

来年の大河ドラマは西郷ドンですか。そうですか。

 

えっ?あれも偽物なのかも?
って驚きたい人はこちらの本がオススメです。

 

金印偽造事件?「漢委奴國王」のまぼろし

金印偽造事件?「漢委奴國王」のまぼろし

 

 内容については過去記事をご参照ください。

emiyosiki.hatenablog.com

 

www3.nhk.or.jp

この書状は、高知県から調査を依頼された企画会社が明治維新関連の資料について精査をする中で、コレクターから購入したということです。

大政奉還からことしで150年になることなどに合わせて、高知県内では3月から「志国高知 幕末維新博」が開かれる予定で、県は会場に展示する新資料を探していました。

コレクタ-が書状を入手したいきさつについて、企画会社は「個人情報や入手経路を一切言わないという条件で購入した」として明らかにしていません。

(略)

書状は折り畳まれ、封紙に包まれた状態で残されていました。封紙には、龍馬の変名である才谷楳太郎という名前が書かれているほか、「坂本先生の遭難直前の書状で、他見をはばかる」という内容の朱書きのある付箋がついていたということです。

 

【日本最強神様選手権エントリーNo2】存在を否定された日本女性史上最強のオトコ神功皇后オキナガタラシ姫

ヤマトタケルにつづいては、

id:kangiren さんオススメ2人目の神功皇后です。

男の娘なヤマトタケルか戦闘美熟女神功皇后の2トップだと思う。

 

影の薄い夫の天皇から主役を奪った皇后

 ヤマトタケルは日本列島のかなりの部分を従わせましたが、遣り残した仕事は次の世代に託されました。それはヤマトの威光を海外にまで広げることでした。
 天皇になれずに客死したヤマトタケルだが、遺児は即位して第14代の仲哀天皇となります。しかし、この仲哀天皇時代の事実上の主人公は、妻の神功皇后(オキナガタラシ姫)です。西暦400年頃の人物とされています。

 父のヤマトタケルによって一度は服従させた南九州のクマソ(熊襲)が再び反乱したため、仲哀天皇は自ら赴き、陣頭に立ちました。遠征中に、妻の神功皇后が神懸かり、「西方にある新羅国(朝鮮半島東部)を征討せよ」という神のお告げを受けました。しかし、仲哀はこの神託を無視しました。


 朝鮮半島との間では、人や文化が絶えず往来していましたが、神話でも歴史上でも日本から半島へと軍勢で攻め入った例はそれ以前にはありません。仲哀が「荒唐無稽(むけい)」と判断したのも理解できます。


 だが、仲哀には神罰が下りました。真っ暗の部屋で仲哀が響かせていた琴の音が突然すっとやむという異変に、あわてて明かりがつけられましたが、仲哀はすでに息絶えていました。父のヤマトタケルがそうだったように、子の仲哀もまた神の怒りを買ってしまった、ということです。

 表舞台からあっけなく退場した仲哀の後を引き継いだのは、神功皇后です。神のお告げに従い、おなかに子を宿しながらも朝鮮半島にわたるという過激な行動にうつします。

政教分離だった古代の日本の「まつりごと」


 古代の政治は男女ペアが基本でした。倭国の女王・卑弥呼と男弟、ヤマトトトヒモモソ姫と崇神天皇など。祭祀を女性が、政治は男性といった分権体制だったとみられます。
 今でも日本語で「まつりごと」は、「祀り」でもあり、「政(まつりごと)」でもあるように、両者は表裏一体。神功皇后は即位こそしませんでしたが、裏方で祭祀を支えた経験ある皇后が、夫の亡き後に天皇となったケースは、飛鳥時代から奈良時代にかけて頻発しています。

住吉神社は朝鮮進出の足跡

 神功皇后の朝鮮出兵の様子を物語るのが『日本書紀』にも登場する住吉の神です。
 神功皇后は、朝鮮へ向かう途中の関門海峡の中国地方側(山口県)で、「住吉の神の魂が御身と船を守るだろう」というお告げを受けました。そのとおりに、海上を平穏に渡ることができたお礼の気持ちを込めて、「この場所に住友の神の荒魂(あらたま)をまつりなさい」と長門国一の宮の住吉神社を建てたと伝わります。

Sumiyoshi-jinja (Shimonoseki) Honden.JPG
By ChiefHira - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

 

 神は平和をもたらす和魂と、勇猛果敢に活動する荒魂の二つの魂(性質)をもつと考えられていました。長門の住吉神社に、荒魂が鎮められたのは、普段の航海の神としてではなく、戦争にかかわる御利益を期待した結果からでしょう。

 1370年に建てられた現在の社殿(国宝)は、一般的な神社同様に南を向いているにもかかわらず、かつては入り江が西から入り込んでいた地形から古代には西に面していたのではないか、という説があります。

 西は出兵先の朝鮮半島があります。まさしく神功皇后が見据えた方向というわけです。
 境内には「船楠(ふねくす)」という巨樹があります。古代の船の材料はクスノキ(楠)や杉でしたから、神功皇后の水軍がこの地の木材で船を造ったと想像したくなります。

 住吉の神とは海を守るウワツツノオ(表)、ナカツツノオ(中)、ソコツツノオ(底)の三柱の兄弟神です。「ツツノオ」という名の由来は、諸説あるが、「津ツ之男」つまり津(港)を守る男という説が魅力的です。

現れた神功皇后の侵攻ルート

 この住吉三神や神功皇后をまつる住吉信仰の神社は全国に2000社あるといわれ、海辺に鎮座することが多いのです。
 数ある住吉神社のなかから、平安時代の法律書『延喜式(えんぎしき)』に載る住吉神社の所在地を手がかりに、神功皇后の通り道を復元してみましょう。

 『延喜式』には「神名帳」という神社名簿がある。いわば「神社ランキング表」で、このランクに応じて国家からの手当が配当されます。

 神名帳に載る住吉神社六社(大阪府、兵庫県、山口県、福岡県、長崎県・壱岐、同県・対馬)を地図上に点でおとし、それを線で結んでみるとどうなるでしょうか。

 ヤマトの主要港だった大阪の住吉から瀬戸内海、壱岐、対馬を経由して朝鮮半島に向かう神功皇后のたどった「海の道」が現れるのです。兵庫県の一社をのぞいて、すべてが最高ランクの「名神大社」に指定されているのも、神功皇后の足跡がいかに重要とされてきたのかがわかります。

存在を否定された神功皇后

 ところが、実は歴史学においては、神功皇后は実在せず、日本による朝鮮出兵(三韓征伐)は歴史的事実ではないとする考えが、むしろ定説に近いのです。
 これは戦後に定着した説で、明治時代以降の日本が朝鮮半島を植民地にした反省から生まれています。
 「近代日本が朝鮮を支配したのは悪いこと」と、「古代の日本が朝鮮へ出兵した」ことは無関係なはずですが、この「神功皇后はなかった」説を覆すのは学問的にはなかなか難しいのです。「ない」ことを証明することは不可能だからです。

 しかし、日本側の資料ではなく、朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)に残る石碑「好太王碑文」では、はっきりと391年にヤマトが半島へ進出して高句麗と戦ったと記しています。

 当時の日本人は行ったと言い、朝鮮の人たちも来たと言っている。神功皇后の伝承は、歴史的な事実が背景にあったと考えるのが自然でしょう。

神功皇后を祀る主な神社

住吉神社 住所:山口県下関市一の宮住吉 電話:083・256・2656

海の神といえば住吉三兄弟と宗像三姉妹。平安末期の源平合戦では、海の神も参戦したようです。平清盛が厳島神社(祭神は宗像神)を造営したのに対して、源氏には住吉系神社がついたらしく、山口の住吉神社にほど近い壇ノ浦で決着がつきました。

 

 

日本の神様と神社-神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

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【日本最強神様選手権エントリーNo1】刀剣で乱舞する男の娘ヤマトタケル

数年ぶりにはてなに戻ってきて、はてなダイアリーからはてなブログへ移りました。

そこで書かせていただいた下の記事にはてブいただきました!
ありがとうございます。

emiyosiki.hatenablog.com

しかも、はてブで面白いコメントがもらえるのが、やっぱりブログの中でも「はてな」のすごいところだと思いますね。村や!!!

それではせっかくいただいたコメントを最強の日本の神様選手権への出馬と(勝手に)みなさせていただいて、リストにのっている神様をコメント順に、拙著(の更生前の第1稿)を使って紹介していきたいと思います。

よろしくおつきあいくださいませ。

 

日本の神様と神社 神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

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まずはエントリーNo1

id:kangiren さんのコメント

男の娘なヤマトタケルか戦闘美熟女神功皇后の2トップだと思う。

おっといきなり2人ではないですか!笑

エントリーNo1 ヤマトタケル(日本武)

 

http://www.diamondblog.jp/contents/official/sites/743/2015/09/20150930182201296_side_prof.jpg

大島薫ブログより

「空白の4世紀」に何があったのか?

 日本の古代史において、3世紀の邪馬台国の時代には『魏志倭人伝』という手がかりがあり、5世紀にも断片的ながら中国に使節を送った天皇(大王)の記録が残っています。ところが、その間にすっぽりと空いた4世紀の100年間は確かな文献史料がなく謎に包まれています。そのため、この100年は「空白の4世紀」と呼ばれています。

 4世紀にいったい何があったのか。この問いに対する答えを、『古事記』のヤマトタケル伝承から探ってみましょう。そこにあるのは見捨てられてもなお父の命令に従う悲劇の英雄物語です。

 第12代・景行天皇の第3子だったヤマトタケルは、名前「タケル」が勇猛な性格であることを示すように、猛々しい人物でした。ちなみに子供の頃の名は「オウス」です。

 あるとき、食事に同席しなくなった兄を連れてくるようにと父に言われた彼は、なんと兄の手足をもいで殺してから「連れてきた」のです。

 その残酷なまでの勇猛さをおそれた父は、九州のクマソ(熊襲)を討つよう命じました。まさかやっかい払いされたとは気づかずに、当の本人は忠実に命令にしたがいます。

目的のためなら女装もする それとも女装が目的だったのか

 結果のためには手段を選ばない男です。女性と見間違えるほどの美貌を備えていたのでしょう、女装してクマソタケルに近づき、暗殺。このとき、敗れたクマソタケルから「ヤマトタケル」の名を与えられたのでした。

 次の出雲征伐でも真っ向勝負は挑まず、策略に頼ります。対戦相手のイズモタケルと仲良くなり、隙を見て相手の刀を木刀とすり替えて、討ち取ったのです。ぶっちゃけあからさまなだまし討ちです。

 ヤマトタケルは武力で真っ向勝負するタイプではなく、権謀術数を張り巡らす知力の将だった像が浮かび上がります。卑怯と言えば卑怯だが、犠牲を最小限にしたとすれば名将とも評価できるでしょう。

 熊襲と出雲を倒したヤマトタケルは意気揚々と都に戻りますが、天皇は休む間もなく東方の蝦夷征伐へと送り込みます。ここにきて、ヤマトタケルは自分がやっかい者扱いされていることにようやく気がついたのです。

 「帰ってすぐに出陣しろとは、私に死ねと言っているのだろう」

 おばのヤマト姫に、こんな愚痴が出てしまう始末。

リア充すぎて父親に嫉妬されたのかも

 それでも根はまじめだったのでしょう。命じられた東方平定を着実にこなしていきます。ただ、成功の影には、ヤマト姫が名刀・草薙剣を授けてくれたり、妻のオトタチバナ姫が荒れた海に飛び込み人身御供となったりと、身内の女性からの手厚い援助がありました。父以外の家族からは愛されたのは救いだったことでしょう。

 無敵を誇ったヤマトタケルにも、最後のときがやってきます。実力を過信し、神を侮ってしまったのです。

「伊吹山(岐阜県と滋賀県の県境)の神を素手で倒してやる」

 つけあがるヤマトタケルに神は怒の鉄拳ならぬ雹(ひょう)を降らせました。大けがをしたヤマトタケルは、杖で身体を支えながらなんとか都に帰ろうとしますが、途中の伊勢国の能褒野(のぼの、三重県亀山市付近)で力尽きてしまったのです。

 漂泊の旅に幕を閉じたヤマトタケルは、白鳥となって都のある大和を通り越して河内の志幾(大阪府)に降り立ちます。そこに墓「白鳥陵」が建てられました。

白鳥伝説と太陽の道

 白鳥伝説には興味深い説があります。ヤマトタケルの魂である白鳥が飛んだと『日本書紀』が記録する3地点を線で結ぶと、北緯34度32分の直線となるのです。このラインは「太陽の道」でもありました。太陽の道とは、昼と夜の長さが同じになる春分(秋分)の日に太陽がのぼる場所と沈む場所を結ぶものです。

 オカルト的と思う人もいるかもしれませんが、現代人と比べても古代人の天体知識は非常に豊富でした。むろん季節を知ることが目的で、UFOを呼ぶためではありません。

 なにしろ、古墳時代のヤマトタケルどころか、約4000年前の縄文人でさえも、太陽の道(こちらは昼が一番長い夏至の太陽の軌道)をストーンサークルで描いていたことが、秋田県の大湯環状列石遺跡から判明しているくらいです。

 

古事記、日本書紀、風土記で描かれ方が異なるヤマトタケルは複数いた?

 一方、『古事記』とは別に、ヤマトタケルの伝承が各地に残っています。ところが、悲劇の英雄とは違う姿で描かれているのです。どういうことでしょうか。

 『古事記』では「親子の愛情のずれ」が主題ですが、『日本書紀』では天皇の命令をひたすら忠実にまもる一組織人であり、しかも父から愛される息子として描かれています。都に戻れないことは同じだが、親孝行の鏡としての美しい死なのです。

 もっと違ったイメージなのは、常陸国(茨城県)の伝承をのせる『常陸国風土記』です。そこでは、はるばる常陸までやってきたヤマトタケルが治水事業や視察などをしてくれたとあります。そこには、どう猛さ、荒々しさがほとんど見られません。

 それだけでなく、風土記は皇子のまま生涯を終えたはずのヤマトタケルを「倭武天皇」と表記しているのです。なぜヤマトタケルは東国で天皇とされたのでしょうか。

 

bushoojapan.com

 

 さまざまな解釈が考えられます。たとえば、『古事記』でも天皇に準じる扱いをされているから「ほとんど天皇」と考えられていたという説。あるいは、権威付けのために「天皇」という称号をあえて名乗って地方を巡ったという説、などです。

 「天皇は万世一系」というタブーを破るという点で注目される学説もあります。神武天皇を初代とする天皇の系譜は、さも一種類しか存在してこなかったように思われがちですが、歴史的に見ると実はそうではありません。

 ほぼ奈良時代にまとめられた記紀では、天皇の家系は一つにまとめられています。しかし、それより前の飛鳥時代には、ヤマトタケルのように天皇になれなかった人物が天皇になっている、もしくはその逆の系譜も複数あったと考えられているのです。

 風土記をさらに詳しく読むと、単純にヤマトタケルの名前の後ろに「天皇」と付けたのではなく、本当の天皇にしか使われない語法がみられます。記紀が隠した実在する誰かの情報を、風土記がくみ取った可能性は十分にあるでしょう。

 ヤマトタケルは実在したのか。難しい問題ですが、ヤマト王権が拡大を始めた4世紀、大王(天皇)の名代として各地を巡り歩いた皇族や臣下がいたことはまず間違いありません。それぞれの苦難の道程がヤマトタケル伝承として一つの壮大な物語になったのでしょう。

結論 ヤマトタケルは全国にヤマトイズム(前方後円墳)普及のために散った複数の皇族らの苦難の旅路の集合体

 古墳時代には、ヤマト王権が広がります。いまに残らないいろいろな「ヤマトイズム」があったでしょうが、なかでも大きかったのは前方後円墳です。前方後円墳はお墓ですから、造ればOKという代物ではありません。そこに魂をいれるために「祭祀」が必要です。その祭祀をやる人間はそれなりの人物であったはずで、多くの若い皇族らが全国に派遣されたことでしょう。かれらは、すんなり受け入れられるところもあれば、近畿から離れれば離れるほど強い抵抗にあったことでしょう。なかには目的を果たせず命を散らした男たちがたくさんいたはずです。そうした故郷にかえれなかったたくさんの魂がヤマトタケルという一人の人物になり、そして白鳥として昇天していったのではないでしょうか。複数の皇族たちの苦難の旅路の集合体が「ヤマトタケル」という悲劇の英雄を作り上げていったのです。

【祀られている主な神社】

大鳥大社 大阪府堺市西区鳳北町 電話:072・262・0040

 

 古代の大鳥大社の周辺は、死と生産の地だった。仁徳陵古墳をはじめ、日本五大古墳がこのエリアに集中する。また、三千基もの須恵器(陶器)窯跡が見つかり、陶器の一大生産拠点だったこともわかっている。

 

*あしたは、神功皇后(オキナガタラシ姫)を紹介します。

 

日本の神様と神社 神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

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日本の神様の中で誰が最強なのか!? 36柱にキャッチフレーズをつけてみて 専門家の意見を待つことにした

日本の神様で最強って誰だろう?
オモコロの「結局「神話の神々」の中で誰が最強なの!? 専門家に聞いた 」

omocoro.jp

を読んで笑わせてもらいながら、ふと思いました。

というわけで、古事記や日本書紀など日本神話に出る主な神様をほぼ網羅して、36柱(ペアやグループは1柱にカウント)それぞれキャッチフレーズをつけて、さらにまつられている主な神社を載せてリストにしてみました。

だいたい時代順に3つにわけました。

「創世記の神々」(記紀の神話時代の前半)
「国譲りと天孫降臨の神々」(神話時代の後半)
「ヤマト建国、戦場を駆ける神々」(歴史時代)

よかったらはてブなどで、「この神様が最強」というコメントを寄せていただけると幸いです。

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【創世記の神々】

1 日本列島を創った健介北斗夫妻   イザナギ・イザナミ

主な神社(以下同) 伊弉諾神宮・兵庫(淡路)

コラッ!健之介

 

emiyosiki.hatenablog.com

 

2  皆既日食と卑弥呼から生まれた太陽神  アマテラス


伊勢神宮・三重

http://im33a.estar.mbga.jp/0/727/421575727.jpg

 

小説投稿サイト「エブリスタ」のおおかさんの作品「邪馬台国の女王様」より

3 天上界で大暴れの勇者、地上で改心したピュアボーイ 須佐之男


須我神社・島根

GTO(1) (週刊少年マガジンコミックス)

4  語られない月の秘密を抱いた男の娘? ツクヨミ

出羽三山神社・山形

ツクヨミ 秘された神 (河出文庫)

5 祭りのプロ!神様界の北島三郎 アメノコヤネ

枚岡神社・大阪

風雪ながれ旅/北の漁場/まつり

6 臥薪嘗胆で地上初の支配者となった苦労人 オオクニヌシ

出雲大社・島根

オオクニヌシ 青雲編 (マンガで親しむ出雲神話 2)

emiyosiki.hatenablog.com

7 国際港の職人だった白ウサギ 因幡の白兎

白兎神社・鳥取

ガブリエラ戦記I 白兎騎士団の窮地<ガブリエラ戦記> (ファミ通文庫)

8 オオクニヌシの名参謀 スクナヒコ

古事記巻之一  完全版 ナムジ   大國主 弐 (カドカワコミックス・エース)

 

生石神社・兵庫

【国譲りと天孫降臨の神々】

9 倭大王になりそこねたチキン神 オシホミミ


西寒多神社・大分

SHOUTING CHICKEN

 

 

10 出雲の軍門に下った優しき天つ神 アメノホヒ


出雲大社・島根

日本の神様に出会う旅?出雲・島根編? (コミックエッセイの森)

 

11 国譲りの最後の切り札 タケミカヅチ


鹿島神宮・茨城

コトブキヤ マブラヴ オルタネイティヴ 武御雷 Type-00R ノンスケール プラスチックキット

12 天孫系のニホンをつくった最大功労神 フツヌシ


香取神宮・千葉

[異界見聞録7]地震と神社、フツヌシ神からの啓示 ――阿蘇から香取・鹿島への龍脈と要石の秘密

 

13  日本海を往還する海の民 タケミナカタ


諏訪大社・長野

ピーエムオフィスエー 1/150スケール プラモデル 信濃國一宮 諏訪大社 下社秋宮

14 全知全能にはなりきれなかった知恵の神 オモイカネ


秩父神社・埼玉

あの『忘れえぬ日々』

15 The天孫とはこのお方 ニニギ


新田神社・鹿児島

神楽酒造 天孫降臨 芋 25度 瓶 300ml

16 天皇に寿命を与えた厳父 オオヤマツミ


大山祇神社・愛媛

SRシリーズ ファイティングコレクション 巨人の星編 Part3 星一徹 単品 フィギュア ガシャポン ガチャガチャ ユージン Yujin

17  可憐さと激情を併せ持つ美少女 コノハナノサクヤ姫


富士山本宮浅間大社・静岡

富士山噴火

18 海を味方に兄を倒すジャパニーズポセイドン ホホデミ(山幸彦)


青島神社・宮崎

聖闘士聖衣皇級 海皇ポセイドン

19 兄だって辛いよ ホデリ(海幸彦)


潮嶽神社・宮崎

【Amazon.co.jp限定】おそ松さん かくれエピソードドラマCD「松野家のなんでもない感じ」 第1巻(メーカー特典:「描き下ろし全3巻収納BOX」引換シリアルコード付)(ジャケット絵柄 缶バッジ75mm付)

 

20  海をいく男たちに指針を示す シオツチ


塩竈神社・宮城

塩竈みなと桟橋から/いつもこころに

 

21 サメに変化する海の女神 トヨタマ姫


和多都美神社・長崎

小顔にみえマスク ふつうサイズ 7枚入

22 育ての母親と結婚しちゃう肉食系 ウガヤフキアエズ

鵜戸神宮・宮崎

インドのお義母さん(マー)



【ヤマト建国、戦場を駆ける神々】

 

 

23 逃げながら東征した カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)


橿原神宮・奈良

神武―古事記巻之二 (1) (中公文庫―コミック版)

24 本当は天皇だったかもしれない物部氏の神 ニギハヤヒ


磐船神社・大阪

孔雀王 第3巻

 

25 天皇もおびえる三輪山の祟り神 オオモノヌシ


大神神社・奈良

もののけ姫 [DVD]

26 戦艦大和の守護神だぜ! ヤマトオオクニタマ


大和神社・奈良

タミヤ 1/350 艦船シリーズ No.25 日本海軍 戦艦 大和 プラモデル 78025

27 列島を縦断して旅する演説の神 オオヒコ


伊佐須美神社・福島

ドナルド・トランプ演説集 (The Speeches of Donald Trump)

28 魂になっても太陽の道を飛ぶ英雄 ヤマトタケル


大鳥大社・大阪

 

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大島薫ブログより

emiyosiki.hatenablog.com

 

 

29 妊娠中に海を渡って戦った女傑 オキナガタラシ姫(神功皇后)


住吉神社・山口

emiyosiki.hatenablog.com

 

 

 

30 長い瀬戸内海航路のターミナルを守る3姉妹 住吉三神


住吉大社・大阪

三姉妹

31 女神に助けられた中興の祖 八幡神(応神天皇)


宇佐神宮・大分

少年(ショタ)の描き方 (KOSAIDOマンガ工房)

32 朝鮮から渡来した神 アメノヒボコ


出雲大社・島根

Try IT(トライイット) 観てわかる 中学歴史

33 専制君主に奪われた幻の天皇 ヒトコトヌシ


葛城一言主神社・奈良

たった一言で人生が変わるほめ言葉の魔法

34 日本を牛耳った藤原氏の氏神 春日大社四神


春日大社・奈良

藤原さんちの大人気ごはん (別冊すてきな奥さん)

35 古代官僚の手抜きテクニックが作った神 オオクニタマ


大国魂神社・東京

官僚たちの夏 (新潮文庫)

36 蝦夷の怒りを噴火で表した神の山 オオモノイミ


鳥海山大物忌神社・山形

 

 

 

ゴールデンカムイ 2 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 

日本の神様と神社 神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

日本の神様と神社 神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

 

 

古代史ファン急げ!1万円で吉備の鬼ノ城を保存できた上にお米20キロの「ふるさと納税」

「ふるさと納税」ではだいたい寄付金の50%をこえれば、「即寄付」となります。

12月末までは駆け込み寄付で、それほどたいした返礼品でなくてもみんな寄付してくれますが、1月になるととたんに熱が覚めるので、賢い自治体は1月にいいものを出してきます。

日本では換金率(?)が高いものは、江戸時代から「米」と決まっています!

いま、お米はだいたい10キロ、3000~4000円。

あいだをとって3500円としましょう。

つまり、1万円の寄付なら、15キロ以上なら優良な返礼品となります。

まして20キロとなれば7000円相当なら、70%はトップクラスの石高です。

定番の「ふるさとチョイス」でみたところ、

岡山県備前市

岡山県総社市

秋田県五城目町

茨城県城里町

などが1万円で20キロを、たいてい1月末まで数量限定でやっています。

なかでも、歴史ファンなら1択なのが

「岡山県総社市」

www.furusato-tax.jp

ほぼ1年先の11月に届くのですが。それはそうとして、

使いみちがすばらしいのです。

 

総社市は、その中央部に高梁川が流れ、豊かな自然環境が残る、水とみどりあふれるまちです。また、鬼ノ城をはじめ備中国分寺などの歴史遺産も数多く残っています。現在、総社市では「子育て王国そうじゃ」として子育て支援に取り組んでいます。
総社市に対し、「ふるさと総社を応援したい」「ふるさと総社をよくしたい」という皆さんの思いを寄附金という形で実現していただければと考えています。
応援メニューは下の表のとおり、4種類あります。

 

 総社市といえば、なんといっても謎の古代山城「鬼ノ城」(きのじょう)!

わたしも最新著作(いつのだよw)『日本古代史紀行 アキツシマの夢』(ウェッジ刊)でこんな記事を書いていました。

これほど大規模な城を造った理由は何だったのか。これまでは、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本が唐と新羅の連合軍に敗北したのをきっかけに、連合軍が日本へ侵攻してくることに備えた、とする見方が一般的だった。ところが、建築時に使われた古代の物差しを復元した結果、鬼ノ城の南門が白村江の戦い以前のものであるとする説が出された。この解釈によれば、斉明天皇が築城したとする説に軍配があがる。

斉明天皇が、これほど手間のかかる鬼ノ城を作り上げた目的は、2万の兵たちの練兵にあったのだろう。日本軍が海を渡るのは、500年代前半の継体天皇以来、150年近く途絶えていた。

 

bushoojapan.com

 

日本古代史紀行 アキツシマの夢

日本古代史紀行 アキツシマの夢

 

 

youtu.be

謎の古代山城・鬼ノ城や備中国分寺など数多くある文化財の活用と保存をはじめ、継承されてきた文化を守り、新たに創造された文化を育てます。

 

この史跡保存整備にふるさと納税を活用してもらうことができるのです。

ふだんから「もっと文化財保護に税金使ってほしいな」と思っていましたが、こんなにビンゴなふるさと納税はありません。

f:id:emiyosiki:20170110003503p:plain

 

ほかにも文化財保護とお得な返戻品では、

ふるさと納税サイト [ふるさとチョイス] | 三重県度会郡玉城町 - H28年産 玉城産新米「伊勢ごころ」15kg

田丸城趾の整備、有効活用、文化財、伝統文化・伝統行事の保護、表現・創作活動の支援などです。

 田丸城跡の整備に使ってもらうことができます。

 

 

www.yomiuri.co.jp

katsuie.com

というように、今信長の息子の織田信雄の城として戦国ファンから注目されだしているお城です。

 

ふたたびですが、恵美嘉樹の最新著作!(*2014年刊)で鬼ノ城のはなしものっている↓の本もチョイスしてくださいませ!

 

 

きっかけは「神風」でも 1日でなく7日ほどで撤退した元寇・蒙古襲来の実態

1274年(文永11)、モンゴル皇帝フビライは国号を元と改めて日本に朝貢を求めてきました。

しかし、鎌倉幕府はこれを拒否。2度にわたる元寇(蒙古襲来)が起きます。

一般的には

1回目の文永の役は博多湾に上陸した元軍が神風で撤退

2回目の弘安の役(弘安4年=1281年)では佐賀県の伊万里湾に集結した元軍が2度目の神風で壊滅

とされています。

ところが、この常識が、近年の水中考古学や文献史学でも服部英雄氏の研究により覆されています。

おそらくこうした研究成果をもとに、朝日新聞の「文化の扉」というインフォグラフィックのコーナーで、考古学者でもある宮代栄一記者が「勝因は神風ではなかった?」として書いています。

 

www.asahi.com

「おそらく」というのは、無料会員だと1日1記事しか読めないため、現時点で中身を知らないからです。。。

しかし、恵美嘉樹もちょうど2016年10月号の「ひととき」(ウェッジ)での連載「パノラマ日本史26回」にて、「蒙古襲来の実態」として書いていますので、そこから紹介させていただきます。

初戦 文永の役に神風は来たのか?なぜ1日で撤退したのか?

文永の役での元軍は、征服したばかりの朝鮮半島の高麗軍との連合軍でした。

約120隻の艦船で総数約1万人と言われています。

1274年10月3日に朝鮮半島南部の合浦(ハッポ)を出港した軍勢は対馬と壱岐を攻略。山の多い対馬では住民は逃げることができましたが、隠れるところのない壱岐の島の住民はほとんど殺されるか捕まり、手のひらに穴をあけて数珠つなぎで連行されたそうです(ギャ~)

10月20日 元軍は博多湾に上陸しました。日本側も警戒しており、九州の御家人を中心に防御線をはっていました。

両軍は海岸で激突。

武士は「やーやーわれこそはなんちゃらかんちゃら。一騎打ちを所望する」とか馬に乗って、やるのですが

離れたところの元軍は、「kusukusu naniare バッカジャナイノ」といって、射程距離220メートルという弓矢を一斉に放ち、さらに「てっぱう」という手榴弾のような爆弾を投げつけます。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/19/M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba.jpg/800px-M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba.jpg

(Wikipediaの蒙古襲来絵詞より)

一騎打ち対長距離兵器集団戦では、話になりません。

当然、日本軍は大敗します。

武士たちは海岸から大宰府へと撤退。大宰府をまもる「万里の長城」的な「水城」(みずき)で敵を待ち構えます。

ところが、、、

元軍は翌日にはなぜか姿を消してしまったのです。(通説)

そのため、次の弘安の役で台風によって元軍が壊滅したことを後付にして、

「あれ?もしかして神風が吹いて元寇を蹴散らしたの?」

という神風説がうまれました。

後付けの理由を排除して当時の史料だけを調べてみたら

800年にわたり「神風SUGEEEE」と思考停止していましたが、九州の歴史学者の服部英雄氏が後世の記録を排除して、同時代の記録だけで読み解いたところ、

実は1日で撤退したのではなく、合戦は7日ほど続き、寒冷前線によるとみられる嵐をきっかけにして元軍は撤退したというのが真相と判明したのです。

またこの「神風」は10月なので台風と考えられてきましたが、新暦に直すと11月中旬なので、おそらく通常の冬の寒冷前線だとみられます。

11月の玄界灘なんて、1週間も停泊していたら、必ず寒冷前線がきて大荒れになりますよね。

youtu.be

結論 海が荒れる冬に来たのでしばらくして帰っていった

第二戦 弘安の役

さて、元軍は日本征服をあきらめません。

今度の弘安の役では、朝鮮軍だけでなく新たに支配下においた中国南部の南宋軍も動員します。

前回が1万人でしたが、今回は3万人です。こうした数はかなり盛っているのが常ですが、実数よりも3倍に増やしたというあたりはだいだい真実とみていいのではないでしょうか。

元は中華帝国になっているので当時の日本のように野蛮ではありません。

1275年(建治元年)いちおう、また外交使節を送ります。

ところが、鎌倉幕府の執権・北条時宗はなんとこの使節を切り捨ててしまうのです。

めちゃめちゃですね。

当然、元軍は攻めてきます。

日本も前回の元寇で、集団戦法に痛い目にあったので、海岸線に上陸を防ぐための新たな「万里の長城」である元寇防塁を20キロにわたってつくります。

前回にたよった水城は飛鳥時代に朝鮮(新羅)と中国(唐)の襲来に備えたもので、はっきりいって古すぎでした。

この元寇防塁は、今も福岡市今津地区に保存されて、みることができます。

ここは鹿児島(大隅)と宮崎(日向)の御家人がつくったもので、高さ2メートル、延長約3キロあります。

http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/getImage.php?src=files/property/101060/101060_0002.jpg&width=340

元寇防塁(今津地区) | 文化財情報検索 | 福岡市の文化財より

1275年に外交官を切り捨てるという宣戦布告をした日本でしたが、しばらく元軍はきません。「へいへい、モンゴルびびってる」って感じだった鎌倉幕府ですが、そのころ元は中国統一の最終段階で、前述の南宋を攻撃し、1279年(弘安2年)についに南宋を滅ぼします。

さあ、次は日本です。

その2年後の弘安4年に二回目の日本遠征がはじります。

今回は、兵を二手にわけました。

・博多湾を目指す東路軍(高麗軍主体)

・佐賀方面から回り込む江南軍(南宋軍主体)

それぞれ150隻1万5000人くらいとみられています。

冬の玄界灘にこりたので、今度は5月に作戦を開始します。新暦なら6月くらいですね

5月26日に元の東路軍は福岡湾の島・志賀島に上陸。さらに博多湾の上陸を目指しますが、防塁を整備した日本軍は水際作戦に成功して、元軍の上陸を阻止します。

「やーやーわれこそわぁ」とはやらずにちゃんと学んでいます。

youtu.be

博多湾ではにらみ合いや小競り合いが続きます。

東路軍の司令官は「江南軍はまだか!」とイライラしていたことでしょう。

前回、最新兵器と戦術をもってしても倒せなかった日本軍ですから、今回はさらに備えていたとなると、前回の兵力に少し加えた東路軍だけではとても勝負にならなかったのでしょう。

肝となるのが、南宋の投降兵たちだったのですが、それは南宋の人たちも、どうせムダに突撃させられて消耗することはわかっていたので、なかなか来ません。

ようやく到着したのは1ヶ月遅れの7月15日頃。新暦なら8月(フラグたちました)

佐賀県の鷹島付近に船団が到着します。

博多湾上陸を諦めた、東路軍も主力を鷹島のある伊万里湾へ移動させ、7月30日に停泊しました。新暦なら9月14日です(フラグそそりたちました)。

この夜、暦どおりに台風が襲来しました。強風にあおられた元軍の艦船は損傷し、そこに日本軍が襲いかかり、日本は勝利したのです。

2011年(平成23年)にはこの鷹島沖の海底から元の軍船の残骸が発見され、大きなニュースとなりました。

鷹島はこの発見により、日本で初めて海底遺跡として国の史跡に指定されました。

さらに佐賀県松浦市は、この鷹島に水中考古学の研究施設を整備するそうです。日本は海に囲まれていながら水中考古学では世界に比べて遅れているので、すばらしいことですね。

www.sankei.com

結論 南宋軍が遅参したために台風直撃

元寇から日本を守ったのは神風?それとも

さて、2度にわたる元寇は、いずれも天候の悪化という要素はありましたが、はたして神風といえるような奇跡だった、かというと疑問があります。

冬に玄界灘に長くいれば、荒れる日はあります。

9月に九州にいれば台風は来ます。

近年の研究で判明したことは「元寇1日目に神風到来」という奇跡はなかったということです。

つまり、日本の武士たちががんばって長い日時、元軍と戦い続けたために、天候が悪くなったということになります。

結論 偶然ではなく武士ががんばった

 

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参考文献

長崎県松浦市教育委員会『鷹島』