歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

【日本最強神様選手権エントリーNo1】刀剣で乱舞する男の娘ヤマトタケル

数年ぶりにはてなに戻ってきて、はてなダイアリーからはてなブログへ移りました。

そこで書かせていただいた下の記事にはてブいただきました!
ありがとうございます。

emiyosiki.hatenablog.com

しかも、はてブで面白いコメントがもらえるのが、やっぱりブログの中でも「はてな」のすごいところだと思いますね。村や!!!

それではせっかくいただいたコメントを最強の日本の神様選手権への出馬と(勝手に)みなさせていただいて、リストにのっている神様をコメント順に、拙著(の更生前の第1稿)を使って紹介していきたいと思います。

よろしくおつきあいくださいませ。

 

日本の神様と神社 神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

日本の神様と神社 神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

 

 

まずはエントリーNo1

id:kangiren さんのコメント

男の娘なヤマトタケルか戦闘美熟女神功皇后の2トップだと思う。

おっといきなり2人ではないですか!笑

エントリーNo1 ヤマトタケル(日本武)

 

http://www.diamondblog.jp/contents/official/sites/743/2015/09/20150930182201296_side_prof.jpg

大島薫ブログより

「空白の4世紀」に何があったのか?

 日本の古代史において、3世紀の邪馬台国の時代には『魏志倭人伝』という手がかりがあり、5世紀にも断片的ながら中国に使節を送った天皇(大王)の記録が残っています。ところが、その間にすっぽりと空いた4世紀の100年間は確かな文献史料がなく謎に包まれています。そのため、この100年は「空白の4世紀」と呼ばれています。

 4世紀にいったい何があったのか。この問いに対する答えを、『古事記』のヤマトタケル伝承から探ってみましょう。そこにあるのは見捨てられてもなお父の命令に従う悲劇の英雄物語です。

 第12代・景行天皇の第3子だったヤマトタケルは、名前「タケル」が勇猛な性格であることを示すように、猛々しい人物でした。ちなみに子供の頃の名は「オウス」です。

 あるとき、食事に同席しなくなった兄を連れてくるようにと父に言われた彼は、なんと兄の手足をもいで殺してから「連れてきた」のです。

 その残酷なまでの勇猛さをおそれた父は、九州のクマソ(熊襲)を討つよう命じました。まさかやっかい払いされたとは気づかずに、当の本人は忠実に命令にしたがいます。

目的のためなら女装もする それとも女装が目的だったのか

 結果のためには手段を選ばない男です。女性と見間違えるほどの美貌を備えていたのでしょう、女装してクマソタケルに近づき、暗殺。このとき、敗れたクマソタケルから「ヤマトタケル」の名を与えられたのでした。

 次の出雲征伐でも真っ向勝負は挑まず、策略に頼ります。対戦相手のイズモタケルと仲良くなり、隙を見て相手の刀を木刀とすり替えて、討ち取ったのです。ぶっちゃけあからさまなだまし討ちです。

 ヤマトタケルは武力で真っ向勝負するタイプではなく、権謀術数を張り巡らす知力の将だった像が浮かび上がります。卑怯と言えば卑怯だが、犠牲を最小限にしたとすれば名将とも評価できるでしょう。

 熊襲と出雲を倒したヤマトタケルは意気揚々と都に戻りますが、天皇は休む間もなく東方の蝦夷征伐へと送り込みます。ここにきて、ヤマトタケルは自分がやっかい者扱いされていることにようやく気がついたのです。

 「帰ってすぐに出陣しろとは、私に死ねと言っているのだろう」

 おばのヤマト姫に、こんな愚痴が出てしまう始末。

リア充すぎて父親に嫉妬されたのかも

 それでも根はまじめだったのでしょう。命じられた東方平定を着実にこなしていきます。ただ、成功の影には、ヤマト姫が名刀・草薙剣を授けてくれたり、妻のオトタチバナ姫が荒れた海に飛び込み人身御供となったりと、身内の女性からの手厚い援助がありました。父以外の家族からは愛されたのは救いだったことでしょう。

 無敵を誇ったヤマトタケルにも、最後のときがやってきます。実力を過信し、神を侮ってしまったのです。

「伊吹山(岐阜県と滋賀県の県境)の神を素手で倒してやる」

 つけあがるヤマトタケルに神は怒の鉄拳ならぬ雹(ひょう)を降らせました。大けがをしたヤマトタケルは、杖で身体を支えながらなんとか都に帰ろうとしますが、途中の伊勢国の能褒野(のぼの、三重県亀山市付近)で力尽きてしまったのです。

 漂泊の旅に幕を閉じたヤマトタケルは、白鳥となって都のある大和を通り越して河内の志幾(大阪府)に降り立ちます。そこに墓「白鳥陵」が建てられました。

白鳥伝説と太陽の道

 白鳥伝説には興味深い説があります。ヤマトタケルの魂である白鳥が飛んだと『日本書紀』が記録する3地点を線で結ぶと、北緯34度32分の直線となるのです。このラインは「太陽の道」でもありました。太陽の道とは、昼と夜の長さが同じになる春分(秋分)の日に太陽がのぼる場所と沈む場所を結ぶものです。

 オカルト的と思う人もいるかもしれませんが、現代人と比べても古代人の天体知識は非常に豊富でした。むろん季節を知ることが目的で、UFOを呼ぶためではありません。

 なにしろ、古墳時代のヤマトタケルどころか、約4000年前の縄文人でさえも、太陽の道(こちらは昼が一番長い夏至の太陽の軌道)をストーンサークルで描いていたことが、秋田県の大湯環状列石遺跡から判明しているくらいです。

 

古事記、日本書紀、風土記で描かれ方が異なるヤマトタケルは複数いた?

 一方、『古事記』とは別に、ヤマトタケルの伝承が各地に残っています。ところが、悲劇の英雄とは違う姿で描かれているのです。どういうことでしょうか。

 『古事記』では「親子の愛情のずれ」が主題ですが、『日本書紀』では天皇の命令をひたすら忠実にまもる一組織人であり、しかも父から愛される息子として描かれています。都に戻れないことは同じだが、親孝行の鏡としての美しい死なのです。

 もっと違ったイメージなのは、常陸国(茨城県)の伝承をのせる『常陸国風土記』です。そこでは、はるばる常陸までやってきたヤマトタケルが治水事業や視察などをしてくれたとあります。そこには、どう猛さ、荒々しさがほとんど見られません。

 それだけでなく、風土記は皇子のまま生涯を終えたはずのヤマトタケルを「倭武天皇」と表記しているのです。なぜヤマトタケルは東国で天皇とされたのでしょうか。

 

bushoojapan.com

 

 さまざまな解釈が考えられます。たとえば、『古事記』でも天皇に準じる扱いをされているから「ほとんど天皇」と考えられていたという説。あるいは、権威付けのために「天皇」という称号をあえて名乗って地方を巡ったという説、などです。

 「天皇は万世一系」というタブーを破るという点で注目される学説もあります。神武天皇を初代とする天皇の系譜は、さも一種類しか存在してこなかったように思われがちですが、歴史的に見ると実はそうではありません。

 ほぼ奈良時代にまとめられた記紀では、天皇の家系は一つにまとめられています。しかし、それより前の飛鳥時代には、ヤマトタケルのように天皇になれなかった人物が天皇になっている、もしくはその逆の系譜も複数あったと考えられているのです。

 風土記をさらに詳しく読むと、単純にヤマトタケルの名前の後ろに「天皇」と付けたのではなく、本当の天皇にしか使われない語法がみられます。記紀が隠した実在する誰かの情報を、風土記がくみ取った可能性は十分にあるでしょう。

 ヤマトタケルは実在したのか。難しい問題ですが、ヤマト王権が拡大を始めた4世紀、大王(天皇)の名代として各地を巡り歩いた皇族や臣下がいたことはまず間違いありません。それぞれの苦難の道程がヤマトタケル伝承として一つの壮大な物語になったのでしょう。

結論 ヤマトタケルは全国にヤマトイズム(前方後円墳)普及のために散った複数の皇族らの苦難の旅路の集合体

 古墳時代には、ヤマト王権が広がります。いまに残らないいろいろな「ヤマトイズム」があったでしょうが、なかでも大きかったのは前方後円墳です。前方後円墳はお墓ですから、造ればOKという代物ではありません。そこに魂をいれるために「祭祀」が必要です。その祭祀をやる人間はそれなりの人物であったはずで、多くの若い皇族らが全国に派遣されたことでしょう。かれらは、すんなり受け入れられるところもあれば、近畿から離れれば離れるほど強い抵抗にあったことでしょう。なかには目的を果たせず命を散らした男たちがたくさんいたはずです。そうした故郷にかえれなかったたくさんの魂がヤマトタケルという一人の人物になり、そして白鳥として昇天していったのではないでしょうか。複数の皇族たちの苦難の旅路の集合体が「ヤマトタケル」という悲劇の英雄を作り上げていったのです。

【祀られている主な神社】

大鳥大社 大阪府堺市西区鳳北町 電話:072・262・0040

 

 古代の大鳥大社の周辺は、死と生産の地だった。仁徳陵古墳をはじめ、日本五大古墳がこのエリアに集中する。また、三千基もの須恵器(陶器)窯跡が見つかり、陶器の一大生産拠点だったこともわかっている。

 

*あしたは、神功皇后(オキナガタラシ姫)を紹介します。

 

日本の神様と神社 神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

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