歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

きっかけは「神風」でも 1日でなく7日ほどで撤退した元寇・蒙古襲来の実態

1274年(文永11)、モンゴル皇帝フビライは国号を元と改めて日本に朝貢を求めてきました。

しかし、鎌倉幕府はこれを拒否。2度にわたる元寇(蒙古襲来)が起きます。

一般的には

1回目の文永の役は博多湾に上陸した元軍が神風で撤退

2回目の弘安の役(弘安4年=1281年)では佐賀県の伊万里湾に集結した元軍が2度目の神風で壊滅

とされています。

ところが、この常識が、近年の水中考古学や文献史学でも服部英雄氏の研究により覆されています。

おそらくこうした研究成果をもとに、朝日新聞の「文化の扉」というインフォグラフィックのコーナーで、考古学者でもある宮代栄一記者が「勝因は神風ではなかった?」として書いています。

 

www.asahi.com

「おそらく」というのは、無料会員だと1日1記事しか読めないため、現時点で中身を知らないからです。。。

しかし、恵美嘉樹もちょうど2016年10月号の「ひととき」(ウェッジ)での連載「パノラマ日本史26回」にて、「蒙古襲来の実態」として書いていますので、そこから紹介させていただきます。

初戦 文永の役に神風は来たのか?なぜ1日で撤退したのか?

文永の役での元軍は、征服したばかりの朝鮮半島の高麗軍との連合軍でした。

約120隻の艦船で総数約1万人と言われています。

1274年10月3日に朝鮮半島南部の合浦(ハッポ)を出港した軍勢は対馬と壱岐を攻略。山の多い対馬では住民は逃げることができましたが、隠れるところのない壱岐の島の住民はほとんど殺されるか捕まり、手のひらに穴をあけて数珠つなぎで連行されたそうです(ギャ~)

10月20日 元軍は博多湾に上陸しました。日本側も警戒しており、九州の御家人を中心に防御線をはっていました。

両軍は海岸で激突。

武士は「やーやーわれこそはなんちゃらかんちゃら。一騎打ちを所望する」とか馬に乗って、やるのですが

離れたところの元軍は、「kusukusu naniare バッカジャナイノ」といって、射程距離220メートルという弓矢を一斉に放ち、さらに「てっぱう」という手榴弾のような爆弾を投げつけます。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/19/M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba.jpg/800px-M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba.jpg

(Wikipediaの蒙古襲来絵詞より)

一騎打ち対長距離兵器集団戦では、話になりません。

当然、日本軍は大敗します。

武士たちは海岸から大宰府へと撤退。大宰府をまもる「万里の長城」的な「水城」(みずき)で敵を待ち構えます。

ところが、、、

元軍は翌日にはなぜか姿を消してしまったのです。(通説)

そのため、次の弘安の役で台風によって元軍が壊滅したことを後付にして、

「あれ?もしかして神風が吹いて元寇を蹴散らしたの?」

という神風説がうまれました。

後付けの理由を排除して当時の史料だけを調べてみたら

800年にわたり「神風SUGEEEE」と思考停止していましたが、九州の歴史学者の服部英雄氏が後世の記録を排除して、同時代の記録だけで読み解いたところ、

実は1日で撤退したのではなく、合戦は7日ほど続き、寒冷前線によるとみられる嵐をきっかけにして元軍は撤退したというのが真相と判明したのです。

またこの「神風」は10月なので台風と考えられてきましたが、新暦に直すと11月中旬なので、おそらく通常の冬の寒冷前線だとみられます。

11月の玄界灘なんて、1週間も停泊していたら、必ず寒冷前線がきて大荒れになりますよね。

youtu.be

結論 海が荒れる冬に来たのでしばらくして帰っていった

第二戦 弘安の役

さて、元軍は日本征服をあきらめません。

今度の弘安の役では、朝鮮軍だけでなく新たに支配下においた中国南部の南宋軍も動員します。

前回が1万人でしたが、今回は3万人です。こうした数はかなり盛っているのが常ですが、実数よりも3倍に増やしたというあたりはだいだい真実とみていいのではないでしょうか。

元は中華帝国になっているので当時の日本のように野蛮ではありません。

1275年(建治元年)いちおう、また外交使節を送ります。

ところが、鎌倉幕府の執権・北条時宗はなんとこの使節を切り捨ててしまうのです。

めちゃめちゃですね。

当然、元軍は攻めてきます。

日本も前回の元寇で、集団戦法に痛い目にあったので、海岸線に上陸を防ぐための新たな「万里の長城」である元寇防塁を20キロにわたってつくります。

前回にたよった水城は飛鳥時代に朝鮮(新羅)と中国(唐)の襲来に備えたもので、はっきりいって古すぎでした。

この元寇防塁は、今も福岡市今津地区に保存されて、みることができます。

ここは鹿児島(大隅)と宮崎(日向)の御家人がつくったもので、高さ2メートル、延長約3キロあります。

http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/getImage.php?src=files/property/101060/101060_0002.jpg&width=340

元寇防塁(今津地区) | 文化財情報検索 | 福岡市の文化財より

1275年に外交官を切り捨てるという宣戦布告をした日本でしたが、しばらく元軍はきません。「へいへい、モンゴルびびってる」って感じだった鎌倉幕府ですが、そのころ元は中国統一の最終段階で、前述の南宋を攻撃し、1279年(弘安2年)についに南宋を滅ぼします。

さあ、次は日本です。

その2年後の弘安4年に二回目の日本遠征がはじります。

今回は、兵を二手にわけました。

・博多湾を目指す東路軍(高麗軍主体)

・佐賀方面から回り込む江南軍(南宋軍主体)

それぞれ150隻1万5000人くらいとみられています。

冬の玄界灘にこりたので、今度は5月に作戦を開始します。新暦なら6月くらいですね

5月26日に元の東路軍は福岡湾の島・志賀島に上陸。さらに博多湾の上陸を目指しますが、防塁を整備した日本軍は水際作戦に成功して、元軍の上陸を阻止します。

「やーやーわれこそわぁ」とはやらずにちゃんと学んでいます。

youtu.be

博多湾ではにらみ合いや小競り合いが続きます。

東路軍の司令官は「江南軍はまだか!」とイライラしていたことでしょう。

前回、最新兵器と戦術をもってしても倒せなかった日本軍ですから、今回はさらに備えていたとなると、前回の兵力に少し加えた東路軍だけではとても勝負にならなかったのでしょう。

肝となるのが、南宋の投降兵たちだったのですが、それは南宋の人たちも、どうせムダに突撃させられて消耗することはわかっていたので、なかなか来ません。

ようやく到着したのは1ヶ月遅れの7月15日頃。新暦なら8月(フラグたちました)

佐賀県の鷹島付近に船団が到着します。

博多湾上陸を諦めた、東路軍も主力を鷹島のある伊万里湾へ移動させ、7月30日に停泊しました。新暦なら9月14日です(フラグそそりたちました)。

この夜、暦どおりに台風が襲来しました。強風にあおられた元軍の艦船は損傷し、そこに日本軍が襲いかかり、日本は勝利したのです。

2011年(平成23年)にはこの鷹島沖の海底から元の軍船の残骸が発見され、大きなニュースとなりました。

鷹島はこの発見により、日本で初めて海底遺跡として国の史跡に指定されました。

さらに佐賀県松浦市は、この鷹島に水中考古学の研究施設を整備するそうです。日本は海に囲まれていながら水中考古学では世界に比べて遅れているので、すばらしいことですね。

www.sankei.com

結論 南宋軍が遅参したために台風直撃

元寇から日本を守ったのは神風?それとも

さて、2度にわたる元寇は、いずれも天候の悪化という要素はありましたが、はたして神風といえるような奇跡だった、かというと疑問があります。

冬に玄界灘に長くいれば、荒れる日はあります。

9月に九州にいれば台風は来ます。

近年の研究で判明したことは「元寇1日目に神風到来」という奇跡はなかったということです。

つまり、日本の武士たちががんばって長い日時、元軍と戦い続けたために、天候が悪くなったということになります。

結論 偶然ではなく武士ががんばった

 

スポンサーリンク

 

 

参考文献

長崎県松浦市教育委員会『鷹島』