歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

【日本最強神様選手権エントリーNo2】存在を否定された日本女性史上最強のオトコ神功皇后オキナガタラシ姫

ヤマトタケルにつづいては、

id:kangiren さんオススメ2人目の神功皇后です。

男の娘なヤマトタケルか戦闘美熟女神功皇后の2トップだと思う。

 

影の薄い夫の天皇から主役を奪った皇后

 ヤマトタケルは日本列島のかなりの部分を従わせましたが、遣り残した仕事は次の世代に託されました。それはヤマトの威光を海外にまで広げることでした。
 天皇になれずに客死したヤマトタケルだが、遺児は即位して第14代の仲哀天皇となります。しかし、この仲哀天皇時代の事実上の主人公は、妻の神功皇后(オキナガタラシ姫)です。西暦400年頃の人物とされています。

 父のヤマトタケルによって一度は服従させた南九州のクマソ(熊襲)が再び反乱したため、仲哀天皇は自ら赴き、陣頭に立ちました。遠征中に、妻の神功皇后が神懸かり、「西方にある新羅国(朝鮮半島東部)を征討せよ」という神のお告げを受けました。しかし、仲哀はこの神託を無視しました。


 朝鮮半島との間では、人や文化が絶えず往来していましたが、神話でも歴史上でも日本から半島へと軍勢で攻め入った例はそれ以前にはありません。仲哀が「荒唐無稽(むけい)」と判断したのも理解できます。


 だが、仲哀には神罰が下りました。真っ暗の部屋で仲哀が響かせていた琴の音が突然すっとやむという異変に、あわてて明かりがつけられましたが、仲哀はすでに息絶えていました。父のヤマトタケルがそうだったように、子の仲哀もまた神の怒りを買ってしまった、ということです。

 表舞台からあっけなく退場した仲哀の後を引き継いだのは、神功皇后です。神のお告げに従い、おなかに子を宿しながらも朝鮮半島にわたるという過激な行動にうつします。

政教分離だった古代の日本の「まつりごと」


 古代の政治は男女ペアが基本でした。倭国の女王・卑弥呼と男弟、ヤマトトトヒモモソ姫と崇神天皇など。祭祀を女性が、政治は男性といった分権体制だったとみられます。
 今でも日本語で「まつりごと」は、「祀り」でもあり、「政(まつりごと)」でもあるように、両者は表裏一体。神功皇后は即位こそしませんでしたが、裏方で祭祀を支えた経験ある皇后が、夫の亡き後に天皇となったケースは、飛鳥時代から奈良時代にかけて頻発しています。

住吉神社は朝鮮進出の足跡

 神功皇后の朝鮮出兵の様子を物語るのが『日本書紀』にも登場する住吉の神です。
 神功皇后は、朝鮮へ向かう途中の関門海峡の中国地方側(山口県)で、「住吉の神の魂が御身と船を守るだろう」というお告げを受けました。そのとおりに、海上を平穏に渡ることができたお礼の気持ちを込めて、「この場所に住友の神の荒魂(あらたま)をまつりなさい」と長門国一の宮の住吉神社を建てたと伝わります。

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By ChiefHira - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

 

 神は平和をもたらす和魂と、勇猛果敢に活動する荒魂の二つの魂(性質)をもつと考えられていました。長門の住吉神社に、荒魂が鎮められたのは、普段の航海の神としてではなく、戦争にかかわる御利益を期待した結果からでしょう。

 1370年に建てられた現在の社殿(国宝)は、一般的な神社同様に南を向いているにもかかわらず、かつては入り江が西から入り込んでいた地形から古代には西に面していたのではないか、という説があります。

 西は出兵先の朝鮮半島があります。まさしく神功皇后が見据えた方向というわけです。
 境内には「船楠(ふねくす)」という巨樹があります。古代の船の材料はクスノキ(楠)や杉でしたから、神功皇后の水軍がこの地の木材で船を造ったと想像したくなります。

 住吉の神とは海を守るウワツツノオ(表)、ナカツツノオ(中)、ソコツツノオ(底)の三柱の兄弟神です。「ツツノオ」という名の由来は、諸説あるが、「津ツ之男」つまり津(港)を守る男という説が魅力的です。

現れた神功皇后の侵攻ルート

 この住吉三神や神功皇后をまつる住吉信仰の神社は全国に2000社あるといわれ、海辺に鎮座することが多いのです。
 数ある住吉神社のなかから、平安時代の法律書『延喜式(えんぎしき)』に載る住吉神社の所在地を手がかりに、神功皇后の通り道を復元してみましょう。

 『延喜式』には「神名帳」という神社名簿がある。いわば「神社ランキング表」で、このランクに応じて国家からの手当が配当されます。

 神名帳に載る住吉神社六社(大阪府、兵庫県、山口県、福岡県、長崎県・壱岐、同県・対馬)を地図上に点でおとし、それを線で結んでみるとどうなるでしょうか。

 ヤマトの主要港だった大阪の住吉から瀬戸内海、壱岐、対馬を経由して朝鮮半島に向かう神功皇后のたどった「海の道」が現れるのです。兵庫県の一社をのぞいて、すべてが最高ランクの「名神大社」に指定されているのも、神功皇后の足跡がいかに重要とされてきたのかがわかります。

存在を否定された神功皇后

 ところが、実は歴史学においては、神功皇后は実在せず、日本による朝鮮出兵(三韓征伐)は歴史的事実ではないとする考えが、むしろ定説に近いのです。
 これは戦後に定着した説で、明治時代以降の日本が朝鮮半島を植民地にした反省から生まれています。
 「近代日本が朝鮮を支配したのは悪いこと」と、「古代の日本が朝鮮へ出兵した」ことは無関係なはずですが、この「神功皇后はなかった」説を覆すのは学問的にはなかなか難しいのです。「ない」ことを証明することは不可能だからです。

 しかし、日本側の資料ではなく、朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)に残る石碑「好太王碑文」では、はっきりと391年にヤマトが半島へ進出して高句麗と戦ったと記しています。

 当時の日本人は行ったと言い、朝鮮の人たちも来たと言っている。神功皇后の伝承は、歴史的な事実が背景にあったと考えるのが自然でしょう。

神功皇后を祀る主な神社

住吉神社 住所:山口県下関市一の宮住吉 電話:083・256・2656

海の神といえば住吉三兄弟と宗像三姉妹。平安末期の源平合戦では、海の神も参戦したようです。平清盛が厳島神社(祭神は宗像神)を造営したのに対して、源氏には住吉系神社がついたらしく、山口の住吉神社にほど近い壇ノ浦で決着がつきました。

 

 

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