古墳時代の天皇ではじめて「宮殿が発見された」ことと、古代日本と中国・朝鮮との関係*追記
古墳時代の天皇ではじめて「宮殿が発見された」と、古代日本と中国・朝鮮との関係
雄略天皇の宮殿跡が発見された。9月24日に、橿考研が発表した。むろん、まだ「可能性が高い」段階ではある。すでにこの遺跡からは大型建物跡が見つかっていたが、ふつう、どれほど大きくても1棟の建物だけでは宮殿などと判断しない。今回、付随物が見つかったことで、宮殿である可能性がぐぐぐっと高まった。相当な大ニュースである。
毎日新聞http://mainichi.jp/feature/news/20120925k0000m040021000c.htmlは以下のように報じた。ほかの新聞もだいたい同じ。(コメントの人選まで・・・)
奈良県立橿原考古学研究所(橿原市)は24日、同県桜井市の脇本遺跡で、古墳時代中期(5世紀後半)に築かれた大規模な堀状の遺構(南北60メートル、東西30メートル)と、その南端に石積みの護岸を発見したと発表した。すぐ北東の台地では、雄略(ゆうりゃく)天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)に関連するとみられる大型掘っ立て柱建物が見つかっており、専門家は遺構が宮の周濠(しゅうごう)や池だった可能性があるとしている。
雄略天皇は古墳時代の5世紀後半に在位した21代天皇で、ヤマト王権の勢力拡大を進めたとされる。脇本遺跡は、宮である泊瀬朝倉宮の推定地。
(中略)
京都教育大の和田萃(あつむ)名誉教授は「周囲を囲む大溝という印象。景観や防御の要素もあるのではないか。東国へ行ける初瀬街道がある三輪山南麓(なんろく)の谷口に堀を巡らせ、威容を誇る王宮だったと想像できる」と話している。
追記*現説の記事(毎日新聞)
2012年09月30日 地方版
5世紀後半に築かれた大規模な堀状遺構(南北60メートル、東西30メートル以上)と、その南端に石積みの護岸が見つかった桜井市の脇本遺跡で29日、現地説明会が開かれた。
兵庫県立考古博物館の石野博信館長は「遺構は池かもしれない。御所市の南郷遺跡群(5世紀)では尾根ごとに機能別に遺跡があった。同様に王宮の各施設が池を挟んで東西約2キロ程の地域に点々と存在したのでは。王宮の様子を知るヒントになる」と話した。【矢追健介】
飛鳥時代より古い、つまり古墳時代の日本の天皇の宮殿は発見されていなかった。
2009年に奈良・纒向遺跡で、卑弥呼の宮殿かもしれない大型建物群が発見されたときは、ほとんどの新聞が1面で報じた。
飛鳥時代の有名な天皇や蘇我氏などに関係する遺跡が飛鳥で見つかると、1面などで大きく掲載される。
ところが、過去にこの脇本遺跡で、大型建物が見つかったときもあまり大きく騒がれなかった。最古の天皇の宮殿跡だというのに。
それはなぜか? 雄略天皇は「朝鮮半島の国を臣従させ、中国から独立した」であり、マスコミは中韓への配慮をし、非常に地味に報じたからである・・・。
なんてことは全くない。陰謀論がブームなようなので作ってみた一文である。。
本当の答えは、雄略の知名度が低いからにほかならない。
だが実は雄略とは史上初の専制君主であり、小泉首相(未来の橋下市長)のように、当時の社会を政治的に破壊した決定的な重要人物である。よく言えば「スクラップ&ビルド」(ビルドした前に死んだが)した偉人だ。
筆者が、数年前に歴史群像の別冊『古代天皇列伝』
に寄稿した文章から雄略の魅力と魔力について紹介したい。
この頃、中国は南宋、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の三国時代である。(そして尖閣諸島と竹島はどの国のものでもなかった。)
第21代の雄略天皇は、あまりに人を殺しすぎて「悪徳天皇」と恐れられた一方で、神に並ぶ存在として「有徳天皇」とも呼ばれた。日本史上初めての専制君主と評される雄略が誕生する経緯を、「倭の五王」の歴史とともに探っていこう。
3世紀の卑弥呼と台与の女王以来、100年以上ぶりに中国側の歴史に登場するのが5世紀の「倭の五王」だ。
421年に使節を派遣して以来、478年に念願の「安東大将軍」の称号をもらうまで、約60年間にわたり5人の王が中国の南朝・宋と通交した。
5人はいずれも男で、中国の史料「宋書倭国伝」では、讃<さん>、珍<ちん>、済<せい>、興<こう>、武<ぶ>という名前で記録されている。この5人はどの天皇にあたるのか。諸説あるが、宋書と、日本側の日本書紀や古事記の兄弟、親子関係の記載を比べると、最初の讃が仁徳天皇の息子の履中天皇、珍と済が同じく仁徳の息子の反正天皇と允恭天皇で、この3人は兄弟となる。残る興と武は允恭の息子たちで、安康天皇、そして雄略天皇だ。
つまり5人いるが、世代としては2世代だけ。兄弟が天皇になるのは、「天皇は長子相続」という現代の感覚では違和感があるかもしれない。だが、奈良時代の直前まで、天皇家は長子相続ではなく、同世代の兄弟たちで皇位を回していったのが大原則だった。
日本書紀や古事記を読んでいくと、天皇のことを兄弟たちが太子となって補佐し、守るという関係にあったことがわかる。履中(讃)、反正(珍)、允恭(済)の3兄弟の場合も、宮殿の所在地や後見人の拠点などを調べていくと、それぞれ三輪山周辺(奈良県・大和盆地東部)、河内(大阪府)、葛城(奈良県・大和盆地西部)を分割して統治していた可能性がある。むろん、父の仁徳天皇が割り振ったのだろう。
だが戦国時代の毛利元就の「三本の矢」を彷彿させる美談が古代の天皇家にもあった、と考えるのは早計だ。仁徳には有力な後継者が5人いたが、天皇になれた3人をのぞくふたりは無残にも殺されたのだ。
それでも同じ世代間での後継争いはまだ穏やかだった。ほかの兄弟よりも長く生き残りさせすれば、いずれ天皇の座が巡ってくるからだ。ところが、世代交代となると話はかわる。天皇となった3人の兄弟にはそれぞれに子供たち(いとこ同士)がいる。兄が天皇ならば、弟は兄が死ぬのを待てばよかったが、いとこが天皇になってしまえば、もう終わりだ。
そのため、「履中・反正・允恭」から「安康・雄略」へと代替わりするときに、すさまじい粛正が起きた。実際、おじを殺した安康は、即位からわずか3年でいとこに暗殺された。安康の弟の雄略は復讐と称して、ほかの兄弟など皇族だけで4人も処断してしまう。
その結果、雄略のまわりにはライバルがいなくなった。伝統的な兄弟による分割統治をしようもなく、権限がひとりに集中した結果、雄略は「古代初の専制君主」と評価されるほど絶大な力を持つようになった。考古学的にも、前方後円墳の分布が、北は岩手県、南は鹿児島県にまで最大規模となるのはこの頃である。古墳時代が5世紀に絶頂を迎えたのは、あまた流れた血の結果でもあった。
これまでの天皇たちが持ったことのない権力を手にした雄略は、5代続けて行ってきた中国への朝貢、すなわち臣従をやめてしまう。中国が与えてくれる「安東大将軍」といった称号などなくとも、十分に権威を保てたからだ。
当時、天皇のことは「大王<おおきみ>」と呼ばれていたが、これは出雲や吉備や葛城氏など有力な王(豪族)の中の代表者という意味にすぎなかった。雄略は単なる大王ではなく、「治天下大王」という天下を統べる大王とワンランク、それどころか中国の皇帝とならぶ名称に変えたのだった。
天下を治める雄略天皇(ワカタケル大王)の名は、埼玉県のさきたま古墳群にある稲荷山古墳で出土した国宝の鉄剣や、熊本県の江田船山古墳の大刀に刻まれており、全国の津々浦々にまでとどろいたことが伺える。雄略はほんの少し前まで、全世界(天下)を治めると称する中国皇帝のもとに頭を下げて、爵位を要望していたのに、突如、みずからが天下を支配すると表明したのだ。
そもそも雄略ら倭の五王は、なんのために中国へ朝貢したのだろうか。
日本書紀や古事記など国内の事情だけを見ていても分からない。答えは海を渡った朝鮮半島にあるからだ。
4世紀後半から朝鮮半島北部に割拠する高句麗が南進し、半島南部の百済や新羅を圧迫しはじめた。高句麗は東アジアのなかでも強力な国家で、百済や新羅はたまらず倭(日本)へと応援も求めた。高句麗の広開土王(好太王)碑には、391年以来、日本が海を渡り、百済や新羅を臣下に置いたが、396年に高句麗が日本勢を追い出し、百済を服属させたとある。
むろん、百済や新羅は自分たちが心から隷属したなどとは考えていなかったが、攻撃のイニシアチブを握る日本と高句麗の両国は互いに半島の支配権を取ったり、取られたりを繰り返していた。
日本にとっては、半島での戦争は非常に実りの大きいものだった。日本は百済などから救援要請を受けると、出兵の見返りに鉄や宝飾品などの宝物のほか、先進の知識を持つ技術者などを手にした。
日本3大古墳は、すべて河内(大阪府、河内から和泉国が分かれるのは後の時代)にある。仁徳天皇陵と呼ばれる大山<だいせん>古墳が486メートルで最大だが、考古学の成果からはこの前方後円墳は仁徳ではなく、反正天皇(珍)のものと見られている。第2位の誉田山古墳(425メートル)も別名「応神天皇陵」だが、実際は倭の五王の1番目の履中天皇(讃)と学問上は考えられている。これらの巨大古墳の築造が倭の五王の時期にあたるのは、半島から物資や人員が対馬海峡を越えて、滝のように流れて込んできたからだ。
日本は朝鮮半島からの物資、文化の流れを継続したい。そのためには、百済や新羅などを「臣従」状態にしておく必要がある。ただ、高句麗軍は非常に強力なので常に勝利することは難しい。
こうした希望を叶える方法が、高句麗より上に立つ中国(宋)に、日本が半島南部を支配する権利を与えてもらうことだった。391年の高句麗との最初の戦いから、30年も経過した421年になって初めて倭王の讃(履中)が使節を派遣したのは、長年にわたる断続的な戦いで、自力で半島を手中にすることの難しさを痛感したからであろう。
倭王2人目の反正(珍)が438年に使節を送った外交文書(上表文)で、日本側の狙いが具体的に分かる。日本、百済、新羅、加羅(任那)、辰韓(百済南方地区)、馬韓(新羅南方地区)の6か国の軍事統制権(使持節都督<しじせつととく>諸国軍事)と、高句麗王に並ぶ序列2位の安東大将軍をもらえるよう要請したのだ。
だが、外交交渉は容易ではなかった。宋には、高句麗だけでなく、百済も通交していたので、日本の言い分だけが通るはずがなかった。中国は軍事統制権をすべて(むろん日本は除く)却下し、序列3位の安東将軍だけを与えた。
それでも日本はあきらめなかった。そして451年、3兄弟の最後の済(允恭天皇)はとうとう、宋に朝貢していた百済だけは認められなかったものの、新羅、加羅、辰韓、馬韓と日本の5か国についての軍事統制権を勝ち取った。
ちなみに、日本が認められたのはあくまで軍事面だけであり、土地の所有などの民政面での支配については、日本側がそもそも要望すらしていなかった。だが、のちには半島南端の加羅(任那)を所有していたことにすり替わっていく。倭の五王は、今も一部で続く「任那日本府」論争の原点でもある。
大義名分となる軍事統制権は手にしたが、もうひとつの目的である高句麗と並ぶ「大将軍」の地位はなかなか授けられなかった。
この懸案をクリアしたのが、五王最後の武、すなわち雄略天皇だった。
478年に雄略が行った中国への申し出は、読み方によっては「独立宣言」とも言えるほど、背水の覚悟が込められたものだった。
「皇帝陛下の威光で、強敵の高句麗を打ち破ることができたならば、私は以前の倭王のように朝貢し、忠節を尽くせるでしょう。そのために希望する爵位を授けていただきたい」(宋書倭国伝)
裏読みすると、希望通りの地位、特に百済の軍事統制権、を得られないならば、もはや以前のように朝貢はしない、と言っている。だが、やはり中国は百済については認めず、かわりに将軍から大将軍へと位を上げることでお茶を濁したが、雄略は満足せず、この年で日本の中国への通交は断絶する。再開するのは600年の遣隋使と100年以上ものちのことだ。
なぜ雄略はここにきて、それほど強気に出られたのか。
ひとつは先に説明したように、倭王家で大規模な粛正が行われ、政治上のライバルがいなくなり、もはや中国からの権威をそれほど必要としなかった点がある。
もうひとつ重要なことは、申し出の直前の475年、百済が高句麗によって事実上滅ぼされていたことがあげられる。
広開土王のあとを継いだ長寿王率いる高句麗軍は、百済の都・漢城(現・ソウル)を陥落させ、百済王を戦死させたのだ。百済の王族や遺臣は南の熊津(現・光州<クァンジュ>)へ逃れる。遷都というが、実態は新・百済の建国といえる。
王と都を失った百済は日本の雄略に助けを求めたことはまず間違いない。日本書紀では、熊津の地を雄略が与えたと書いている。それはさすがに粉飾とはいえ、限りなく臣従という形を百済も受け入れざるをえなかったであろう。ずたずたになった百済の内政を助ける(一方ではコントロールする)ため、物部氏などを百済に送り込んでいる。479年には、百済の王位継承に手を突っ込み、日本の意向を通して幼い王を擁立させた。むろん、製鉄、陶器作り、乗馬など、百済から贈られる文物・情報そして人材は、これまでにない質と量となった。
これら最新の宝物が雄略一人の手中にまず収められるのだから、みずからを中国の皇帝になぞらえ「治天下大王」と名乗るのも分からないではない。
ところが古代天皇の歴史上に花咲いた天皇専制は一代限りで終わったようだ。
当時の日本は、中国のように一人の天皇を実務面で支える官僚機構が整っておらず、豪族たちの合議制だった。天皇の手足となる豪族たちは、次々と肉親をも殺していく冷酷な雄略には仕方なく従っていたもの、天皇(治天下大王)による専制を認めたわけではなかった。雄略が死ぬと、すかさず豪族たちはもとのように豪族たちの合議制による内政に戻そうとした。
また、後継者を減らしたこと、一度滅亡した百済を支援したことが逆バネとなる。後継者不足による仁徳朝の断絶や、百済を優遇した結果、昔からの同盟国の加羅の離反を招いてしまう。古代天皇の中でひときわ輝く英雄がもたらした光から生まれた影は、その死後瞬く間に広がっていく。
(この文章を書くのに使った主な参考文献、森公章『東アジアの動乱と倭国』(吉川弘文館)、熊谷公男『大王から天皇へ』(講談社)
なお脇本遺跡の現地説明会は29日午前10時〜午後3時だそうだ。現説公開サイト現説公開サイトに詳細な報告があがるとおもわれる。