歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

【日本最強神様選手権エントリーNo1】刀剣で乱舞する男の娘ヤマトタケル

数年ぶりにはてなに戻ってきて、はてなダイアリーからはてなブログへ移りました。

そこで書かせていただいた下の記事にはてブいただきました!
ありがとうございます。

emiyosiki.hatenablog.com

しかも、はてブで面白いコメントがもらえるのが、やっぱりブログの中でも「はてな」のすごいところだと思いますね。村や!!!

それではせっかくいただいたコメントを最強の日本の神様選手権への出馬と(勝手に)みなさせていただいて、リストにのっている神様をコメント順に、拙著(の更生前の第1稿)を使って紹介していきたいと思います。

よろしくおつきあいくださいませ。

 

日本の神様と神社 神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

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まずはエントリーNo1

id:kangiren さんのコメント

男の娘なヤマトタケルか戦闘美熟女神功皇后の2トップだと思う。

おっといきなり2人ではないですか!笑

エントリーNo1 ヤマトタケル(日本武)

 

http://www.diamondblog.jp/contents/official/sites/743/2015/09/20150930182201296_side_prof.jpg

大島薫ブログより

「空白の4世紀」に何があったのか?

 日本の古代史において、3世紀の邪馬台国の時代には『魏志倭人伝』という手がかりがあり、5世紀にも断片的ながら中国に使節を送った天皇(大王)の記録が残っています。ところが、その間にすっぽりと空いた4世紀の100年間は確かな文献史料がなく謎に包まれています。そのため、この100年は「空白の4世紀」と呼ばれています。

 4世紀にいったい何があったのか。この問いに対する答えを、『古事記』のヤマトタケル伝承から探ってみましょう。そこにあるのは見捨てられてもなお父の命令に従う悲劇の英雄物語です。

 第12代・景行天皇の第3子だったヤマトタケルは、名前「タケル」が勇猛な性格であることを示すように、猛々しい人物でした。ちなみに子供の頃の名は「オウス」です。

 あるとき、食事に同席しなくなった兄を連れてくるようにと父に言われた彼は、なんと兄の手足をもいで殺してから「連れてきた」のです。

 その残酷なまでの勇猛さをおそれた父は、九州のクマソ(熊襲)を討つよう命じました。まさかやっかい払いされたとは気づかずに、当の本人は忠実に命令にしたがいます。

目的のためなら女装もする それとも女装が目的だったのか

 結果のためには手段を選ばない男です。女性と見間違えるほどの美貌を備えていたのでしょう、女装してクマソタケルに近づき、暗殺。このとき、敗れたクマソタケルから「ヤマトタケル」の名を与えられたのでした。

 次の出雲征伐でも真っ向勝負は挑まず、策略に頼ります。対戦相手のイズモタケルと仲良くなり、隙を見て相手の刀を木刀とすり替えて、討ち取ったのです。ぶっちゃけあからさまなだまし討ちです。

 ヤマトタケルは武力で真っ向勝負するタイプではなく、権謀術数を張り巡らす知力の将だった像が浮かび上がります。卑怯と言えば卑怯だが、犠牲を最小限にしたとすれば名将とも評価できるでしょう。

 熊襲と出雲を倒したヤマトタケルは意気揚々と都に戻りますが、天皇は休む間もなく東方の蝦夷征伐へと送り込みます。ここにきて、ヤマトタケルは自分がやっかい者扱いされていることにようやく気がついたのです。

 「帰ってすぐに出陣しろとは、私に死ねと言っているのだろう」

 おばのヤマト姫に、こんな愚痴が出てしまう始末。

リア充すぎて父親に嫉妬されたのかも

 それでも根はまじめだったのでしょう。命じられた東方平定を着実にこなしていきます。ただ、成功の影には、ヤマト姫が名刀・草薙剣を授けてくれたり、妻のオトタチバナ姫が荒れた海に飛び込み人身御供となったりと、身内の女性からの手厚い援助がありました。父以外の家族からは愛されたのは救いだったことでしょう。

 無敵を誇ったヤマトタケルにも、最後のときがやってきます。実力を過信し、神を侮ってしまったのです。

「伊吹山(岐阜県と滋賀県の県境)の神を素手で倒してやる」

 つけあがるヤマトタケルに神は怒の鉄拳ならぬ雹(ひょう)を降らせました。大けがをしたヤマトタケルは、杖で身体を支えながらなんとか都に帰ろうとしますが、途中の伊勢国の能褒野(のぼの、三重県亀山市付近)で力尽きてしまったのです。

 漂泊の旅に幕を閉じたヤマトタケルは、白鳥となって都のある大和を通り越して河内の志幾(大阪府)に降り立ちます。そこに墓「白鳥陵」が建てられました。

白鳥伝説と太陽の道

 白鳥伝説には興味深い説があります。ヤマトタケルの魂である白鳥が飛んだと『日本書紀』が記録する3地点を線で結ぶと、北緯34度32分の直線となるのです。このラインは「太陽の道」でもありました。太陽の道とは、昼と夜の長さが同じになる春分(秋分)の日に太陽がのぼる場所と沈む場所を結ぶものです。

 オカルト的と思う人もいるかもしれませんが、現代人と比べても古代人の天体知識は非常に豊富でした。むろん季節を知ることが目的で、UFOを呼ぶためではありません。

 なにしろ、古墳時代のヤマトタケルどころか、約4000年前の縄文人でさえも、太陽の道(こちらは昼が一番長い夏至の太陽の軌道)をストーンサークルで描いていたことが、秋田県の大湯環状列石遺跡から判明しているくらいです。

 

古事記、日本書紀、風土記で描かれ方が異なるヤマトタケルは複数いた?

 一方、『古事記』とは別に、ヤマトタケルの伝承が各地に残っています。ところが、悲劇の英雄とは違う姿で描かれているのです。どういうことでしょうか。

 『古事記』では「親子の愛情のずれ」が主題ですが、『日本書紀』では天皇の命令をひたすら忠実にまもる一組織人であり、しかも父から愛される息子として描かれています。都に戻れないことは同じだが、親孝行の鏡としての美しい死なのです。

 もっと違ったイメージなのは、常陸国(茨城県)の伝承をのせる『常陸国風土記』です。そこでは、はるばる常陸までやってきたヤマトタケルが治水事業や視察などをしてくれたとあります。そこには、どう猛さ、荒々しさがほとんど見られません。

 それだけでなく、風土記は皇子のまま生涯を終えたはずのヤマトタケルを「倭武天皇」と表記しているのです。なぜヤマトタケルは東国で天皇とされたのでしょうか。

 

bushoojapan.com

 

 さまざまな解釈が考えられます。たとえば、『古事記』でも天皇に準じる扱いをされているから「ほとんど天皇」と考えられていたという説。あるいは、権威付けのために「天皇」という称号をあえて名乗って地方を巡ったという説、などです。

 「天皇は万世一系」というタブーを破るという点で注目される学説もあります。神武天皇を初代とする天皇の系譜は、さも一種類しか存在してこなかったように思われがちですが、歴史的に見ると実はそうではありません。

 ほぼ奈良時代にまとめられた記紀では、天皇の家系は一つにまとめられています。しかし、それより前の飛鳥時代には、ヤマトタケルのように天皇になれなかった人物が天皇になっている、もしくはその逆の系譜も複数あったと考えられているのです。

 風土記をさらに詳しく読むと、単純にヤマトタケルの名前の後ろに「天皇」と付けたのではなく、本当の天皇にしか使われない語法がみられます。記紀が隠した実在する誰かの情報を、風土記がくみ取った可能性は十分にあるでしょう。

 ヤマトタケルは実在したのか。難しい問題ですが、ヤマト王権が拡大を始めた4世紀、大王(天皇)の名代として各地を巡り歩いた皇族や臣下がいたことはまず間違いありません。それぞれの苦難の道程がヤマトタケル伝承として一つの壮大な物語になったのでしょう。

結論 ヤマトタケルは全国にヤマトイズム(前方後円墳)普及のために散った複数の皇族らの苦難の旅路の集合体

 古墳時代には、ヤマト王権が広がります。いまに残らないいろいろな「ヤマトイズム」があったでしょうが、なかでも大きかったのは前方後円墳です。前方後円墳はお墓ですから、造ればOKという代物ではありません。そこに魂をいれるために「祭祀」が必要です。その祭祀をやる人間はそれなりの人物であったはずで、多くの若い皇族らが全国に派遣されたことでしょう。かれらは、すんなり受け入れられるところもあれば、近畿から離れれば離れるほど強い抵抗にあったことでしょう。なかには目的を果たせず命を散らした男たちがたくさんいたはずです。そうした故郷にかえれなかったたくさんの魂がヤマトタケルという一人の人物になり、そして白鳥として昇天していったのではないでしょうか。複数の皇族たちの苦難の旅路の集合体が「ヤマトタケル」という悲劇の英雄を作り上げていったのです。

【祀られている主な神社】

大鳥大社 大阪府堺市西区鳳北町 電話:072・262・0040

 

 古代の大鳥大社の周辺は、死と生産の地だった。仁徳陵古墳をはじめ、日本五大古墳がこのエリアに集中する。また、三千基もの須恵器(陶器)窯跡が見つかり、陶器の一大生産拠点だったこともわかっている。

 

*あしたは、神功皇后(オキナガタラシ姫)を紹介します。

 

日本の神様と神社 神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

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日本の神様の中で誰が最強なのか!? 36柱にキャッチフレーズをつけてみて 専門家の意見を待つことにした

日本の神様で最強って誰だろう?
オモコロの「結局「神話の神々」の中で誰が最強なの!? 専門家に聞いた 」

omocoro.jp

を読んで笑わせてもらいながら、ふと思いました。

というわけで、古事記や日本書紀など日本神話に出る主な神様をほぼ網羅して、36柱(ペアやグループは1柱にカウント)それぞれキャッチフレーズをつけて、さらにまつられている主な神社を載せてリストにしてみました。

だいたい時代順に3つにわけました。

「創世記の神々」(記紀の神話時代の前半)
「国譲りと天孫降臨の神々」(神話時代の後半)
「ヤマト建国、戦場を駆ける神々」(歴史時代)

よかったらはてブなどで、「この神様が最強」というコメントを寄せていただけると幸いです。

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【創世記の神々】

1 日本列島を創った健介北斗夫妻   イザナギ・イザナミ

主な神社(以下同) 伊弉諾神宮・兵庫(淡路)

コラッ!健之介

 

emiyosiki.hatenablog.com

 

2  皆既日食と卑弥呼から生まれた太陽神  アマテラス


伊勢神宮・三重

http://im33a.estar.mbga.jp/0/727/421575727.jpg

 

小説投稿サイト「エブリスタ」のおおかさんの作品「邪馬台国の女王様」より

3 天上界で大暴れの勇者、地上で改心したピュアボーイ 須佐之男


須我神社・島根

GTO(1) (週刊少年マガジンコミックス)

4  語られない月の秘密を抱いた男の娘? ツクヨミ

出羽三山神社・山形

ツクヨミ 秘された神 (河出文庫)

5 祭りのプロ!神様界の北島三郎 アメノコヤネ

枚岡神社・大阪

風雪ながれ旅/北の漁場/まつり

6 臥薪嘗胆で地上初の支配者となった苦労人 オオクニヌシ

出雲大社・島根

オオクニヌシ 青雲編 (マンガで親しむ出雲神話 2)

emiyosiki.hatenablog.com

7 国際港の職人だった白ウサギ 因幡の白兎

白兎神社・鳥取

ガブリエラ戦記I 白兎騎士団の窮地<ガブリエラ戦記> (ファミ通文庫)

8 オオクニヌシの名参謀 スクナヒコ

古事記巻之一  完全版 ナムジ   大國主 弐 (カドカワコミックス・エース)

 

生石神社・兵庫

【国譲りと天孫降臨の神々】

9 倭大王になりそこねたチキン神 オシホミミ


西寒多神社・大分

SHOUTING CHICKEN

 

 

10 出雲の軍門に下った優しき天つ神 アメノホヒ


出雲大社・島根

日本の神様に出会う旅?出雲・島根編? (コミックエッセイの森)

 

11 国譲りの最後の切り札 タケミカヅチ


鹿島神宮・茨城

コトブキヤ マブラヴ オルタネイティヴ 武御雷 Type-00R ノンスケール プラスチックキット

12 天孫系のニホンをつくった最大功労神 フツヌシ


香取神宮・千葉

[異界見聞録7]地震と神社、フツヌシ神からの啓示 ――阿蘇から香取・鹿島への龍脈と要石の秘密

 

13  日本海を往還する海の民 タケミナカタ


諏訪大社・長野

ピーエムオフィスエー 1/150スケール プラモデル 信濃國一宮 諏訪大社 下社秋宮

14 全知全能にはなりきれなかった知恵の神 オモイカネ


秩父神社・埼玉

あの『忘れえぬ日々』

15 The天孫とはこのお方 ニニギ


新田神社・鹿児島

神楽酒造 天孫降臨 芋 25度 瓶 300ml

16 天皇に寿命を与えた厳父 オオヤマツミ


大山祇神社・愛媛

SRシリーズ ファイティングコレクション 巨人の星編 Part3 星一徹 単品 フィギュア ガシャポン ガチャガチャ ユージン Yujin

17  可憐さと激情を併せ持つ美少女 コノハナノサクヤ姫


富士山本宮浅間大社・静岡

富士山噴火

18 海を味方に兄を倒すジャパニーズポセイドン ホホデミ(山幸彦)


青島神社・宮崎

聖闘士聖衣皇級 海皇ポセイドン

19 兄だって辛いよ ホデリ(海幸彦)


潮嶽神社・宮崎

【Amazon.co.jp限定】おそ松さん かくれエピソードドラマCD「松野家のなんでもない感じ」 第1巻(メーカー特典:「描き下ろし全3巻収納BOX」引換シリアルコード付)(ジャケット絵柄 缶バッジ75mm付)

 

20  海をいく男たちに指針を示す シオツチ


塩竈神社・宮城

塩竈みなと桟橋から/いつもこころに

 

21 サメに変化する海の女神 トヨタマ姫


和多都美神社・長崎

小顔にみえマスク ふつうサイズ 7枚入

22 育ての母親と結婚しちゃう肉食系 ウガヤフキアエズ

鵜戸神宮・宮崎

インドのお義母さん(マー)



【ヤマト建国、戦場を駆ける神々】

 

 

23 逃げながら東征した カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)


橿原神宮・奈良

神武―古事記巻之二 (1) (中公文庫―コミック版)

24 本当は天皇だったかもしれない物部氏の神 ニギハヤヒ


磐船神社・大阪

孔雀王 第3巻

 

25 天皇もおびえる三輪山の祟り神 オオモノヌシ


大神神社・奈良

もののけ姫 [DVD]

26 戦艦大和の守護神だぜ! ヤマトオオクニタマ


大和神社・奈良

タミヤ 1/350 艦船シリーズ No.25 日本海軍 戦艦 大和 プラモデル 78025

27 列島を縦断して旅する演説の神 オオヒコ


伊佐須美神社・福島

ドナルド・トランプ演説集 (The Speeches of Donald Trump)

28 魂になっても太陽の道を飛ぶ英雄 ヤマトタケル


大鳥大社・大阪

 

http://www.diamondblog.jp/contents/official/sites/743/2015/09/20150930182201296_side_prof.jpg

大島薫ブログより

emiyosiki.hatenablog.com

 

 

29 妊娠中に海を渡って戦った女傑 オキナガタラシ姫(神功皇后)


住吉神社・山口

emiyosiki.hatenablog.com

 

 

 

30 長い瀬戸内海航路のターミナルを守る3姉妹 住吉三神


住吉大社・大阪

三姉妹

31 女神に助けられた中興の祖 八幡神(応神天皇)


宇佐神宮・大分

少年(ショタ)の描き方 (KOSAIDOマンガ工房)

32 朝鮮から渡来した神 アメノヒボコ


出雲大社・島根

Try IT(トライイット) 観てわかる 中学歴史

33 専制君主に奪われた幻の天皇 ヒトコトヌシ


葛城一言主神社・奈良

たった一言で人生が変わるほめ言葉の魔法

34 日本を牛耳った藤原氏の氏神 春日大社四神


春日大社・奈良

藤原さんちの大人気ごはん (別冊すてきな奥さん)

35 古代官僚の手抜きテクニックが作った神 オオクニタマ


大国魂神社・東京

官僚たちの夏 (新潮文庫)

36 蝦夷の怒りを噴火で表した神の山 オオモノイミ


鳥海山大物忌神社・山形

 

 

 

ゴールデンカムイ 2 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 

日本の神様と神社 神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

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古代史ファン急げ!1万円で吉備の鬼ノ城を保存できた上にお米20キロの「ふるさと納税」

「ふるさと納税」ではだいたい寄付金の50%をこえれば、「即寄付」となります。

12月末までは駆け込み寄付で、それほどたいした返礼品でなくてもみんな寄付してくれますが、1月になるととたんに熱が覚めるので、賢い自治体は1月にいいものを出してきます。

日本では換金率(?)が高いものは、江戸時代から「米」と決まっています!

いま、お米はだいたい10キロ、3000~4000円。

あいだをとって3500円としましょう。

つまり、1万円の寄付なら、15キロ以上なら優良な返礼品となります。

まして20キロとなれば7000円相当なら、70%はトップクラスの石高です。

定番の「ふるさとチョイス」でみたところ、

岡山県備前市

岡山県総社市

秋田県五城目町

茨城県城里町

などが1万円で20キロを、たいてい1月末まで数量限定でやっています。

なかでも、歴史ファンなら1択なのが

「岡山県総社市」

www.furusato-tax.jp

ほぼ1年先の11月に届くのですが。それはそうとして、

使いみちがすばらしいのです。

 

総社市は、その中央部に高梁川が流れ、豊かな自然環境が残る、水とみどりあふれるまちです。また、鬼ノ城をはじめ備中国分寺などの歴史遺産も数多く残っています。現在、総社市では「子育て王国そうじゃ」として子育て支援に取り組んでいます。
総社市に対し、「ふるさと総社を応援したい」「ふるさと総社をよくしたい」という皆さんの思いを寄附金という形で実現していただければと考えています。
応援メニューは下の表のとおり、4種類あります。

 

 総社市といえば、なんといっても謎の古代山城「鬼ノ城」(きのじょう)!

わたしも最新著作(いつのだよw)『日本古代史紀行 アキツシマの夢』(ウェッジ刊)でこんな記事を書いていました。

これほど大規模な城を造った理由は何だったのか。これまでは、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本が唐と新羅の連合軍に敗北したのをきっかけに、連合軍が日本へ侵攻してくることに備えた、とする見方が一般的だった。ところが、建築時に使われた古代の物差しを復元した結果、鬼ノ城の南門が白村江の戦い以前のものであるとする説が出された。この解釈によれば、斉明天皇が築城したとする説に軍配があがる。

斉明天皇が、これほど手間のかかる鬼ノ城を作り上げた目的は、2万の兵たちの練兵にあったのだろう。日本軍が海を渡るのは、500年代前半の継体天皇以来、150年近く途絶えていた。

 

bushoojapan.com

 

日本古代史紀行 アキツシマの夢

日本古代史紀行 アキツシマの夢

 

 

youtu.be

謎の古代山城・鬼ノ城や備中国分寺など数多くある文化財の活用と保存をはじめ、継承されてきた文化を守り、新たに創造された文化を育てます。

 

この史跡保存整備にふるさと納税を活用してもらうことができるのです。

ふだんから「もっと文化財保護に税金使ってほしいな」と思っていましたが、こんなにビンゴなふるさと納税はありません。

f:id:emiyosiki:20170110003503p:plain

 

ほかにも文化財保護とお得な返戻品では、

ふるさと納税サイト [ふるさとチョイス] | 三重県度会郡玉城町 - H28年産 玉城産新米「伊勢ごころ」15kg

田丸城趾の整備、有効活用、文化財、伝統文化・伝統行事の保護、表現・創作活動の支援などです。

 田丸城跡の整備に使ってもらうことができます。

 

 

www.yomiuri.co.jp

katsuie.com

というように、今信長の息子の織田信雄の城として戦国ファンから注目されだしているお城です。

 

ふたたびですが、恵美嘉樹の最新著作!(*2014年刊)で鬼ノ城のはなしものっている↓の本もチョイスしてくださいませ!

 

 

きっかけは「神風」でも 1日でなく7日ほどで撤退した元寇・蒙古襲来の実態

1274年(文永11)、モンゴル皇帝フビライは国号を元と改めて日本に朝貢を求めてきました。

しかし、鎌倉幕府はこれを拒否。2度にわたる元寇(蒙古襲来)が起きます。

一般的には

1回目の文永の役は博多湾に上陸した元軍が神風で撤退

2回目の弘安の役(弘安4年=1281年)では佐賀県の伊万里湾に集結した元軍が2度目の神風で壊滅

とされています。

ところが、この常識が、近年の水中考古学や文献史学でも服部英雄氏の研究により覆されています。

おそらくこうした研究成果をもとに、朝日新聞の「文化の扉」というインフォグラフィックのコーナーで、考古学者でもある宮代栄一記者が「勝因は神風ではなかった?」として書いています。

 

www.asahi.com

「おそらく」というのは、無料会員だと1日1記事しか読めないため、現時点で中身を知らないからです。。。

しかし、恵美嘉樹もちょうど2016年10月号の「ひととき」(ウェッジ)での連載「パノラマ日本史26回」にて、「蒙古襲来の実態」として書いていますので、そこから紹介させていただきます。

初戦 文永の役に神風は来たのか?なぜ1日で撤退したのか?

文永の役での元軍は、征服したばかりの朝鮮半島の高麗軍との連合軍でした。

約120隻の艦船で総数約1万人と言われています。

1274年10月3日に朝鮮半島南部の合浦(ハッポ)を出港した軍勢は対馬と壱岐を攻略。山の多い対馬では住民は逃げることができましたが、隠れるところのない壱岐の島の住民はほとんど殺されるか捕まり、手のひらに穴をあけて数珠つなぎで連行されたそうです(ギャ~)

10月20日 元軍は博多湾に上陸しました。日本側も警戒しており、九州の御家人を中心に防御線をはっていました。

両軍は海岸で激突。

武士は「やーやーわれこそはなんちゃらかんちゃら。一騎打ちを所望する」とか馬に乗って、やるのですが

離れたところの元軍は、「kusukusu naniare バッカジャナイノ」といって、射程距離220メートルという弓矢を一斉に放ち、さらに「てっぱう」という手榴弾のような爆弾を投げつけます。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/19/M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba.jpg/800px-M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba.jpg

(Wikipediaの蒙古襲来絵詞より)

一騎打ち対長距離兵器集団戦では、話になりません。

当然、日本軍は大敗します。

武士たちは海岸から大宰府へと撤退。大宰府をまもる「万里の長城」的な「水城」(みずき)で敵を待ち構えます。

ところが、、、

元軍は翌日にはなぜか姿を消してしまったのです。(通説)

そのため、次の弘安の役で台風によって元軍が壊滅したことを後付にして、

「あれ?もしかして神風が吹いて元寇を蹴散らしたの?」

という神風説がうまれました。

後付けの理由を排除して当時の史料だけを調べてみたら

800年にわたり「神風SUGEEEE」と思考停止していましたが、九州の歴史学者の服部英雄氏が後世の記録を排除して、同時代の記録だけで読み解いたところ、

実は1日で撤退したのではなく、合戦は7日ほど続き、寒冷前線によるとみられる嵐をきっかけにして元軍は撤退したというのが真相と判明したのです。

またこの「神風」は10月なので台風と考えられてきましたが、新暦に直すと11月中旬なので、おそらく通常の冬の寒冷前線だとみられます。

11月の玄界灘なんて、1週間も停泊していたら、必ず寒冷前線がきて大荒れになりますよね。

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結論 海が荒れる冬に来たのでしばらくして帰っていった

第二戦 弘安の役

さて、元軍は日本征服をあきらめません。

今度の弘安の役では、朝鮮軍だけでなく新たに支配下においた中国南部の南宋軍も動員します。

前回が1万人でしたが、今回は3万人です。こうした数はかなり盛っているのが常ですが、実数よりも3倍に増やしたというあたりはだいだい真実とみていいのではないでしょうか。

元は中華帝国になっているので当時の日本のように野蛮ではありません。

1275年(建治元年)いちおう、また外交使節を送ります。

ところが、鎌倉幕府の執権・北条時宗はなんとこの使節を切り捨ててしまうのです。

めちゃめちゃですね。

当然、元軍は攻めてきます。

日本も前回の元寇で、集団戦法に痛い目にあったので、海岸線に上陸を防ぐための新たな「万里の長城」である元寇防塁を20キロにわたってつくります。

前回にたよった水城は飛鳥時代に朝鮮(新羅)と中国(唐)の襲来に備えたもので、はっきりいって古すぎでした。

この元寇防塁は、今も福岡市今津地区に保存されて、みることができます。

ここは鹿児島(大隅)と宮崎(日向)の御家人がつくったもので、高さ2メートル、延長約3キロあります。

http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/getImage.php?src=files/property/101060/101060_0002.jpg&width=340

元寇防塁(今津地区) | 文化財情報検索 | 福岡市の文化財より

1275年に外交官を切り捨てるという宣戦布告をした日本でしたが、しばらく元軍はきません。「へいへい、モンゴルびびってる」って感じだった鎌倉幕府ですが、そのころ元は中国統一の最終段階で、前述の南宋を攻撃し、1279年(弘安2年)についに南宋を滅ぼします。

さあ、次は日本です。

その2年後の弘安4年に二回目の日本遠征がはじります。

今回は、兵を二手にわけました。

・博多湾を目指す東路軍(高麗軍主体)

・佐賀方面から回り込む江南軍(南宋軍主体)

それぞれ150隻1万5000人くらいとみられています。

冬の玄界灘にこりたので、今度は5月に作戦を開始します。新暦なら6月くらいですね

5月26日に元の東路軍は福岡湾の島・志賀島に上陸。さらに博多湾の上陸を目指しますが、防塁を整備した日本軍は水際作戦に成功して、元軍の上陸を阻止します。

「やーやーわれこそわぁ」とはやらずにちゃんと学んでいます。

youtu.be

博多湾ではにらみ合いや小競り合いが続きます。

東路軍の司令官は「江南軍はまだか!」とイライラしていたことでしょう。

前回、最新兵器と戦術をもってしても倒せなかった日本軍ですから、今回はさらに備えていたとなると、前回の兵力に少し加えた東路軍だけではとても勝負にならなかったのでしょう。

肝となるのが、南宋の投降兵たちだったのですが、それは南宋の人たちも、どうせムダに突撃させられて消耗することはわかっていたので、なかなか来ません。

ようやく到着したのは1ヶ月遅れの7月15日頃。新暦なら8月(フラグたちました)

佐賀県の鷹島付近に船団が到着します。

博多湾上陸を諦めた、東路軍も主力を鷹島のある伊万里湾へ移動させ、7月30日に停泊しました。新暦なら9月14日です(フラグそそりたちました)。

この夜、暦どおりに台風が襲来しました。強風にあおられた元軍の艦船は損傷し、そこに日本軍が襲いかかり、日本は勝利したのです。

2011年(平成23年)にはこの鷹島沖の海底から元の軍船の残骸が発見され、大きなニュースとなりました。

鷹島はこの発見により、日本で初めて海底遺跡として国の史跡に指定されました。

さらに佐賀県松浦市は、この鷹島に水中考古学の研究施設を整備するそうです。日本は海に囲まれていながら水中考古学では世界に比べて遅れているので、すばらしいことですね。

www.sankei.com

結論 南宋軍が遅参したために台風直撃

元寇から日本を守ったのは神風?それとも

さて、2度にわたる元寇は、いずれも天候の悪化という要素はありましたが、はたして神風といえるような奇跡だった、かというと疑問があります。

冬に玄界灘に長くいれば、荒れる日はあります。

9月に九州にいれば台風は来ます。

近年の研究で判明したことは「元寇1日目に神風到来」という奇跡はなかったということです。

つまり、日本の武士たちががんばって長い日時、元軍と戦い続けたために、天候が悪くなったということになります。

結論 偶然ではなく武士ががんばった

 

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参考文献

長崎県松浦市教育委員会『鷹島』

 

 

絵描きさん必読?高橋克彦が北斎のすごい発見をしてしまったという話など歴史本書評まとめ(2017年1月8日)

読売新聞の書評欄「本よみうり堂」(2017年1月8日付)では歴史関係の本が3冊紹介されている。

 

作家で浮世絵研究家でもある高橋克彦氏は『北斎 ポップアップで味わう不思議な世界』(大日本絵画、3500円)を紹介する。絵を切り抜いて立体にする「絵本」的なものだが、高橋さんをして、『とんでもない発見』に結びついたという。なんでも北斎は遠近法の中心点は必ずしも中央ではなく、右下だったり、ナナメ上だったりしていることがこの本の作業をしていく中でわかったそうだ。

北斎の浮世絵は、デフォルメが激しいのに、どこかリアリティがあるというのは、この中心点をずらすことで絵を見ている人がグラグラして落ち着かなくて、それが引き込まれていくという感じですかね。

 

北斎 ポップアップで味わう不思議な世界 (しかけえほん)

北斎 ポップアップで味わう不思議な世界 (しかけえほん)

  • 作者: コートネイ・ワトソン・マッカーシー,葛飾北斎,寺澤比奈子
  • 出版社/メーカー: 大日本絵画
  • 発売日: 2016/10/07
  • メディア: 大型本
  • この商品を含むブログを見る
 

 

 

政治史学者の奈良岡聡智京都大教授は、森山優『日米開戦と情報戦』(講談社現代新書、860円)を書評する。筆者はインテリジェンス研究者だが、常に話題となる真珠湾攻撃陰謀説について、アメリカが日本に最初の一弾を撃たせることを意識していたとしつつ、暗号解読の勝負が日米で、日本だけが劣っていたということはないなどの実態から明快に否定しているのだそうだ。

真珠湾攻撃陰謀説については、下の記事が詳しくて、面白い。

インテリジェンスの戦いが一方的な弱者(日本)ということはなく、でもやっぱり最初に仕掛けるように仕向けていたというのも事実のようだ。なにをもって陰謀とするのか、インテリジェンスがからんでいる時点で、すでに陰謀といえば陰謀のような気もする笑

bushoojapan.com

 

日米開戦と情報戦 (講談社現代新書)

日米開戦と情報戦 (講談社現代新書)

 

 

 

作家の宮部みゆき氏は、イギリスのジャーナリストT・マーシャル著『恐怖の地政学 地図と地形でわかる戦争と紛争の構図』(さくら舎、1800円)を取り上げる。原題の「PRISONERS OF GEOGRAPHY」(地形の囚人たち)がずばり的確という。アメリカとロシアの気候や地形が逆だったらどうなっていたのか、興味深い。

 

恐怖の地政学 ―地図と地形でわかる戦争・紛争の構図

恐怖の地政学 ―地図と地形でわかる戦争・紛争の構図

 

 


ちなみに、新年から読書委員が変更したのだが、そこには、土方正志氏という変わった経歴の人が。この人は仙台を拠点に地方出版をしている出版社「荒蝦夷」の代表なのだ。出版社の人が書評をするとは、どうなることやら、楽しみにしたい。

 

 

震災編集者:東北の小さな出版社・荒蝦夷の5年間

震災編集者:東北の小さな出版社・荒蝦夷の5年間

 

 

京都で見つかった飛鳥時代の半跏思惟像の仏像と徳川家康の「しかみ像」がほぼ同一ポーズな件

 

半跏思惟像(はんかしい像)が今あつい!ごくごく一部にですが。

本日(2017年1月7日)にNHKのニュースで

小さな寺の仏像 実は朝鮮半島伝来の貴重な仏像か | NHKニュース

www3.nhk.or.jp

 

京都市左京区にある「妙傳寺」では、「半跏思惟像」という高さおよそ50センチの青銅製の仏像が本尊として安置されていて、これまでは、寺が建てられたのと同じ江戸時代のものと思われていました。

この仏像について、大阪大学や東京国立博物館の研究者が改めて鑑定したところ、額に刻まれた模様や装飾品の龍のデザインなどが6世紀から7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像や出土品の特徴と一致していました。

 と。

サムネイルをみてもらうとわかりますが、京都の広隆寺の弥勒菩薩で有名なオバマ大統領が足をくんで偉そうにうなずいている像ですね(違うって)

https://kanko.city.kyoto.lg.jp/resource/sight/photo/mimon01C/C030.jpg

(↑京都観光Navi:広隆寺 木造弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)より)


「はんかしい」といわれても、仏像マニア以外にはなんだかわけわからないという人がほとんどだったのですが、2015年以来、じわじわと広まって、とうとう2017年1月大ブレークしたようです(おおげさ)

なにがあったのでしょう?

徳川家康の「しかみ像」といえば、三方が原の戦いで敗北した家康が敗戦のいましめのために浜松城で絵師を呼んで描かせたとされてきました。その絵は、尾張徳川家に伝来し、同家が(財団を通じて)運営する名古屋市東区の「徳川美術館」が所蔵しています。

ところが、2015年10月、この絵が「しかみ像」であるという逸話は昭和になって創作された物語ということが明らかにされたのです。(捏造といったらいけないのかな?なにせ話を作った人が尾張徳川家の当時の当主でありますから)

 

www.yomiuri.co.jp

http://www.yomiuri.co.jp/photo/20151023/20151023-OYTAI50014-L.jpg


読売新聞・岡本公樹記者のスクープでした。この真相を明らかにしたのは、なんと当の徳川美術館の学芸員の原史彦氏でした。

名古屋圏のローカルニュースだったのですが、これを城郭考古学者の千田嘉博教授がツイートしたことで一気に広まりました。

 

そして、原氏の論文は翌年2016年春に出されました。
この論文がネットで公開されたのが2016年末頃のようで、それが年明けにtogetterなどで話題となりました。

togetter.com

 

この記憶が冷めやらぬところで、今度は飛鳥時代にさかのぼる「半跏思惟(はんかしゆい、とも読む)像」が京都の小さなお寺さんにあったことが大阪大の研究などで判明したと、1月7日にNHKがスクープした次第です。


このニュースの画像をみて、しかみ像が頭に思い起かび、「うんうん、これこれ!やっぱりしかみ像というより仏教のモチーフだよね」と納得がいきました。
こういうのなんというんですっけ?
脳神経的には、脳内レセプターが神経伝達物質をキャッチして、「記憶つながった!」というんでしょうけど、「ひらめき?」「アハ体験?」

そうだ、がってん!だ。みなさんもがってんしましたか?

がってん、がってん!

 

岡本記者の本

原氏の本

千田教授の本

天皇陛下とお食事会をした学者さんの話はたぶん明日の朝には消えていますから早く読んでおこう

「陛下に一本取られた話」

http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/skondo/saibokogaku/heika.html

として、大阪大の研究者が天皇皇后陛下と一緒に皇居にまねかれてお話をした深イイ話を書いています。

陛下の人となりがわかってとてもいいお話ですね。

国民にもぜ広く知っていただきたい内容です。

 

とはいかないのが、天皇陛下、というか宮内庁

ふつうの市役所程度ならお正月休みで人がいなくて対応しないかもしれませんが、宮内庁は元日の参賀で年末もオンですからね。

朝一で、そうとうな剣幕で侍従方面から連絡がきて、消えることでしょうね。

早く読んでおきましょう