謀臣として名高い(悪名高い?)本多正信と西国最強の立花宗茂について書きました
春日大社の天井裏から名刀「延寿國吉」鎌倉北条氏が奉納か
奈良の春日大社で昭和14年に宝庫の天井裏から見つかっていた刀が鎌倉時代の北条氏が奉納した太刀である可能性が高いことがわかったそうです。春日大社が12月29日に発表しました。
春日大社は現在、20年に一度の社殿の式年造替(ぞうたい)の最中で、これに伴い人間国宝の本阿弥光洲が刀をみがき、平成28年(2016年)12月には東京国立博物館に鑑定してもらったところ、うち3本が平安時代末から鎌倉時代後期の黒漆でさやが装飾された「黒漆太刀」と判明。
1本(106・8センチ)は、銘から鎌倉後期の延寿國吉(えんじゅくによし)、2本が平安末~鎌倉初期頃の「古備前」でした
さらに歴史を調べてみると、北条氏が「黒漆太刀」を奉納していたことから、両者が同一ではとみられるようになったとのことです。
なぜ、天井裏にあったのか?
鎌倉幕府滅亡に際して、関係を隠すために隠した、なんていうのがドラマチックですが、春日大社ほどの有名寺社になればときの有力者との関係がない、なんてことはありえないですから、わざわざものを隠す意味もない気がします。
信長が奈良東大寺の正倉院で大切な蘭奢待を切り取ろうとした時に、この刀のことを聞きつけて、取られそうになった神社が隠したなんていうのはどうでしょう?
それとも単に盗みに入った泥棒がとりあえず天井裏に隠してあとで取りに来ようとしたけどなんらかの理由でそのままになってしまったとか。
想像はいろいろ膨らみますが、この刀は2017年3月まで、今年10月に開館した春日大社の国宝殿で展示されているとのことです。
奈良の春日大社で発見の刀 北条氏が奉納の太刀か
12月29日 18時09分
奈良市の春日大社で見つかった古い刀が、平安時代から鎌倉時代にかけて作られた「黒漆太刀」と呼ばれる名刀であることがわかり、神社は鎌倉時代に権勢を振るった北条氏が納めたと伝えられる太刀の可能性が高いとしています。
奈良市にある春日大社によりますと、昭和14年に宝庫の天井裏から見つかった3つの太刀について、社殿などを修復する「式年造替」に合わせて磨き、今月東京国立博物館に委託して鑑定を行いました。
その結果、さやなどが黒い漆で装飾された「黒漆太刀」と呼ばれる刀で、刃の部分の模様やそりの特徴から、平安時代の末期から鎌倉時代の後期にかけて作られた名刀とわかったということです。
春日大社によりますと、鎌倉時代に権勢を振るった北条氏が「黒漆太刀」を奉納したという記述が文献にあることから、これらのいずれかである可能性が高いということです。
東京国立博物館の酒井元樹主任研究員は「当時の大刀がこれほどいい状態で残っていることは珍しく、国宝に指定されている太刀と比べても遜色ない。日本の刀剣史を考えるうえで非常に興味深い発見だ」と話しています。
これらの太刀は、春日大社の国宝殿で来年3月まで展示されています。
春日大社の天井裏の太刀3本、「国宝・重文級」
春日大社(奈良市)は29日、約80年前に宝庫の天井裏から見つかった
黒漆太刀 3本を研いだところ、1本が鎌倉時代後期の刀工・延寿国吉 作、2本が平安末~鎌倉初期頃の「古備前」とわかったと発表した。専門家は「3本とも国宝・重文級の名刀だ」と評価している。
黒漆太刀は装飾のない黒漆塗りの
鞘 を持つもので、武士が日常的に使ったため現存例が少ないという。1939年、宝庫の解体修理時に9本が見つかったが、さびていて詳細は不明だった。うち3本を20年に1度の大改修・式年造替 に合わせて人間国宝の本阿弥光洲氏に研ぎを依頼、同大社などの調査で判明した。延寿国吉作の太刀は全長106・8センチで、「國吉」という銘文の書体などからわかった。同作の刀は室町幕府の6代将軍、足利
義教 も愛用したという。
重要文化財にダンプで突っ込むのと無くしたことを20年隠していたことどっちが悪い?
みなさんはいかがですか?
ちょうどここ数日にあった二つのニュースです。
法隆寺のほうが知名度がありますから、この業者のダンプカーのほうが「悪」として知れ渡っていることでしょうが、知っていて隠していた公務員である前橋市のほうがずっと「悪い」のではないかと思うのは私だけでしょうかね。
法隆寺 重要文化財の門にダンプカーぶつかり一部壊れる
12月22日 21時02分22日午後、奈良県斑鳩町の法隆寺で、国の重要文化財に指定されている門にダンプカーの荷台がぶつかり、門の一部が壊れました。
22日午後3時40分ごろ、奈良県斑鳩町の法隆寺で、74歳の男性の運転するダンプカーの荷台が、国の重要文化財に指定されている門「東院四脚門」にぶつかりました。この事故で、門の瓦屋根を支える部材の一部が割れたり、すれて傷がついたりしました。警察の調べによりますと、ダンプカーは東院四脚門の壁に沿って幅4メートルほどの道を走っていたということですが、運転していた男性は「荷台が上がった状態のまま気付かずに走っていた」と話しているということです。
男性は法隆寺の境内で庭木のせんてい作業をしていて、切った木の枝などをダンプカーで運ぶ途中だったということで、警察が詳しい状況を調べています。
重要文化財の棟札紛失、20年間未公表 「見つかるのではないかと望みを…」前橋市
前橋市は26日、群馬県や同市が重要文化財に指定している明治期建築「臨江閣」の棟札3枚を紛失したと明らかにした。築造年月や目的などを記した棟札は平成8年度の展示を最後に所在不明になっていたが、約20年間、公表していなかった。
市は「誤って破棄した可能性が最も高い。申し訳ない」と陳謝。未公表だったことには「簡単になくしたと言うわけにいかない。見つかるのではないかと、かすかな望みを持っていた」と弁明した。
市によると、戦前まで迎賓などに用いられていた臨江閣は本館と茶室が県指定、別館と渡り廊下が前橋市指定の重要文化財。3棟それぞれに棟札が残り、建物の一部として重要文化財指定を受けていた。
棟札は高さ約1・2~1・7メートル、幅約20~30センチ。96年度に展示されていたが、その後行方が分からず、職員が探していた。
公務員の文化財の毀損で最大最悪の隠蔽事件といえば、なんといっても、国宝&特別史跡の高松塚古墳の飛鳥美人の劣化でしょう。
年間にして専従の職員が10人前後はいたとしたらそれだけで毎年1億円以上の費用をかけながら、劣化を見逃し、その状況を隠蔽して、記憶の限りでは少なくとも、その責任者らが刑事や民事の責任を問われたことはなかったように思います。
一方で、この法隆寺の門を傷つけたダンプカーの運転手や会社は、過失であっても、おそらく莫大な損害賠償を請求されることでしょう。
武田信玄の妙技ひかる三増峠の戦いについてφ(..)メモメモ
信玄の戦上手といえば、No1は家康を破った三方ヶ原の戦いでしょう。
しかし、三増峠の戦いもおもしろい。
なにしろ、後ろを見せた武田軍と追撃する北条軍という三方ヶ原の戦いと同じ構図だからです、
と思っていたら、
三増峠の戦い~武田信玄が小田原北条氏を返り討ちにした山岳戦で見せた「侵掠すること火の如く」の機動力 | BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
現地を歩いた人のルポが載っていました。
これを読むと、北条軍の追撃戦だと思ったら、むしろ戦場では北条軍は待ち伏せしていたんですね。
追撃戦かつ有利な高所に布陣した北条軍は圧倒的に優位なのですが、信玄軍のまさに電撃によって、オセロのように一気に有利不利が変わってしまうのです。
鮮やかとしかいいようがありません。
地理の知識の少ない敵地であっても、優位なポジションを確保するというのは三方ヶ原の戦いでも見せた信玄の驚愕のスキル。
マンガ「黒子のバスケ」でも出て来るような鷹の目(俯瞰できる目)を持っていたのでしょうかね。
また、定説ではこの戦いで北条軍は大量の戦死者を出した大敗だったとされていますが、いっぽうでたいした被害はなかったという説もあります。
この戦いの実際の地形での各軍の動きを見る限り、北条氏は「大きな魚を逃したが、負けてはいない」というくらいにも思えました。
門田隆将さんの新刊『汝、ふたつの故国に殉ず』を書評しました
大好きなノンフィクション作家、門田隆将さんの新刊『汝、ふたつの故国に殉ず』を読みました。
けっして戦前の日本がすばらしい、戻るべきだ、と賛美するわけではないのです
ほかのアジア諸国に比べると、当時としては比較的ましだったというだけかもしれません。
「他利と義」
いまも日本人の多くのひとには共有している価値観だと思います。
もちろん、行き過ぎると、電通の女性をはじめとする過労死問題などにもつながっているのですが。
主人公が叫んだ最期の言葉はなぜ日本語だったのか?
あきらかに中国本土が台湾はもちろん、沖縄までも触手を伸ばしている今、
トランプ新大統領が台湾との関係をタブーから現実の問題へ浮かばせた今、
日本人が台湾について振り返る必要がある今、
いろいろ考えさせられる作品です。
簡単な書評を武将ジャパンに寄稿しましたのでよろしければどうぞ。
真珠湾陰謀説の真相に迫る良記事。壮絶な国際スパイ戦争の実態がすごい
安倍首相が12月26、27日、ハワイの真珠湾にオバマ大統領とともに訪れます。
ルーズベルト大統領が日本が攻撃することを知っていたのに、あえて「奇襲」させることで、米国世論を第二次世界大戦への参戦へと誘導したというものです。
陰謀論というと、本能寺の変の黒幕は誰々と限定!や東日本大震災はアメリカの超強力兵器によるものなど、わたしは「陰謀論」と聞くだけで眉唾と基本的に構えます。
歴史というのは、(地震はともかく)複雑な事象が折り重なっておきるので、簡単に「○○の陰謀で歴史が動いた」とはならないからです。
真珠湾陰謀説も、同じように、たいして調べもせずに、頭から疑いを持っていましたが、武将ジャパンでのジャーナリスト南如水氏の2つの記事を読んで、「ここまでやる」という国際スパイ組織の具体的な行動について、知りました。
参戦したいルーズベルトと、アメリカ議会のライバルで参戦反対派(アメリカの場合参戦反対=平和主義ではなく、孤立主義となるんですね。トランプ氏もそうですが)とのリーク合戦。
参戦反対派を追い落とすためにイギリス(イギリスとしてはアメリカに参戦してもらわないと困る)の諜報機関がやった情報収集のすさまじさと、それを使ってなんとヒトラーまで動かしてしまった罠。。。
うーん、こいつらすごい。
日本でも開戦直前に、イギリス大使館の情報担当部長が逮捕されるまでの空白の5日間など、記録に残らないすごいことがあったんだろうと思いました。
などなど、を読んでいくと、陰謀論はあったのか、なかったのかという私の中での結論は、
少なくとも「なかった」と言い切るのは、あまりにも呑気すぎるのではないかということでしょうか。
ただ、単純に「あった」というのもまた憚れて、多数の情報が飛び交う中で、少なくともアメリカのルーズベルトとドイツのヒトラーは「自分で決めた」。
一方で、どうやら日本は同じくらいのレベルの情報を持っていながら、天皇ではもちろんなく、東条英機首相がトップダウンで決めたとはおもえないというところでしょうか。
この記事では、ずばりの答えはまだ出ていないので、それぞれがあらためて「戦争のはじまりかた」を考えるいい機会になるのではないでしょうか。
薬師寺東塔は奈良時代の新築か?それとも藤原京からの移築か
国宝の薬師寺東塔の修理中に、心柱と天井板2枚の木材を調べたところ、伐採年として710年の平城京遷都を遡ることはなく、奈良時代の730年頃に建てられたという報道が12月19日に各紙でありました。
「凍れる音楽」と称される奈良・薬師寺の東塔(国宝、高さ約34メートル)が、奈良時代の730年ごろに建てられたことが分かった。寺と奈良文化財研究所(奈文研)が19日、年輪年代測定の中間結果を発表した。東塔をめぐっては、飛鳥時代の藤原京(694~710年)からの「移築説」と平城京遷都後の現在地での「新築説」があったが、新築説が確定的となる。
東塔では、2009年から約110年ぶりの解体修理が進行中。奈文研は取り外された初層(1階)の天井板2点に対し年輪年代測定を実施し、伐採年が729年と730年と判明。塔中央の心柱についても測定し、最も外側の年輪が719年を示し、720年代に伐採された可能性が高まった。伐採年が710年の平城遷都前の飛鳥時代までさかのぼる結果は、確認されていない。
薬師寺そのものは、女帝の持統天皇(当時は天武天皇の后)がもっとも南にある藤原京(奈良県橿原市)に創建したもので、いまは「本薬師寺」となっています。
藤原京と平城京の西の現・薬師寺はそんなに離れていないので、移築説と新築説が論争となってきましたが、この調査の結果、新築説が優勢になったというわけです。
ただ、彦根城はじめ、薬師寺などに比べれば「新しい」お城を見てもわかるように、木材を建築当初のものをすべてそのまま使っているということはほとんどないわけです。
もしかしたら、心柱は中心なので新しい建材を使おう、でもまわりはもとの柱を使おうってこともあるかもしれませんね。
とにかく昔は、そして今だって巨木は貴重品です。
ましてかんなもない時代ですから材木の加工は大変な作業です。平城京という大きな工事に伴い、材木不足になっていたことは言うまでもありません。
元・薬師寺にあった建材が、そのまま新・薬師寺に移築されたかはわかりませんが、その建材はほとんど平城京周辺のどこかにはリサイクルされたことでしょう。
奈良薬師寺 公式サイト|Yakushiji Temple Official Web Site