歴史ニュースウォーカー

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【大河ドラマ直前】WEB上、最良まとめ「山本八重と戊辰戦争」【10分動画付き】


八重の人生は、みずから自伝(おそらくライターによるインタビュー)『新島八重子刀自古談』が残されており、戊辰戦争のことも含めて数多くの記憶と記録が残っています。


【八重の人生】
(1845〜1932)
幕末のスナイパー、明治時代の教育者。
弘化2年(1845)11月3日生まれ。会津藩の藩校の砲術(銃術)師範をつとめる山本家に生まれる。



=写真は同志社大


綾瀬はるかのような線の細い女性ではなく、後年の写真が物語るように骨太の女性で、13歳で重い米俵を4回も上げ下げするなど、幼少のときから石投げやかけっこが男子なみだった。

現代にたとえれば「重量挙げ女子」であった。


兄の山本覚馬は17歳年上。
兄は、元治元年(1864)に、会津藩松平容保の上洛に伴って京都に行き、藩の砲兵隊の指揮官となる。



このあと、八重は21歳頃に初めての結婚をする。相手は兄が会津に招いた学者(兵庫県出身)の川崎尚之助。つまり、戊辰戦争時は「川崎八重」だったのだ。

明治元年(1868)に戊辰戦争鳥羽・伏見の戦い)が勃発。兄の覚馬は片眼を失明し、薩摩藩邸で捕虜となる。父と弟は戦死した。

その頃の会津では、女子ばかりの山本家でも籠城に向けて準備を進めていた。
八重は近所の白虎隊の隊士(伊東悌次郎)にも鉄砲を教えた。

【八重が使っていた銃は?】
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photo by laurenz
そして、新政府軍が会津城下に入ってくると、八重は、藩主の義理の妹を守るために入城した。
八重は髪を切り、戦死した弟の軍服をまとい、刀を腰に鉄砲を背にかつぎ、「弟の仇を討つ」との決心だった。

会津藩の主力火器は旧式の火縄銃やゲベール銃(火縄から火打ちに発火装置がかわっただけ)。いずれも弾を前から込める形で、射程は200メートル程度、命中精度も低かった。
これらは野戦においては、新政府軍の後ろ込め(元込め式)のライフル(筒のなかに線条を刻むことで射程と精度を大幅にアップした)には、まるで歯が立たなかった。(最前線にいった白虎隊は新式の銃を携帯したと言われている)

ただし籠城戦では多数の旧式銃でも弾幕を張ることが可能なので効果はあった。

一方、鉄砲教授の家の八重は、最新式の元込め式で7連発のスペンサー銃。ただし、弾が100発しかなく、すぐに旧式銃をつかわざるをえなくなった。

鉄砲が使える貴重な戦力となった八重は、籠城戦で主に夜襲に参加し、ゲリラ戦を展開。この活躍でのちに「幕末のジャンヌ・ダルクと呼ばれるようになる。

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【戦後の八重】
八重は夫の川崎らとともに、兄の知り合いの米沢藩主(山形県)のもとに身を寄せる。

一方、兄の覚馬は生きていた。
京都で秀才として薩長側からも認められた覚馬は新政府に登用され、明治2年に早くも京都府顧問となった。
「文明開化」の中でキリスト教の宣教師と出会い、キリスト教徒になった。

=覚馬(同志社大HP)


覚馬は、明治4年に26歳の八重を京都へ呼び寄せる。どうも夫の川崎はこのときに別れたらしい。川崎は「会津藩士」としてほかの藩士が苦労して開墾をする斗南(青森県下北半島)へ移り、4年後にそこで死亡した。(覚馬の妻も離縁して斗南へいった)


京都に行った八重は、「会津藩」「江戸時代」への思いを断ち切ったように、新世代の女性として動き出す。女子の専門学校(機織り)で教員兼女工として働いた。


この時、兄の影響でアメリカ人宣教師のもとに通うようになり、宣教師宅で新島襄と出会う。
襄の八重への評は「決して美人ではないが、美しい行いをする人」という微妙(笑)なものだった

=新島襄(同志社大HP)

二人が出会った明治8年11月に、兄の覚馬と新島襄はともにキリスト教学校の「同志社」を開学した。
翌年、二人は「京都で初めて」のクリスチャン同士の結婚式を行った。八重はウエディングドレスをまとっていたという。

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鉄砲を置き、キリスト教徒となり、子女教育に邁進。同志社女学校を設立した。
新島襄同志社の父ならば、八重は同志社の母である。
結婚から14年後、新島襄は死亡。

その後、未亡人となった八重は、日清・日露戦争では日本赤十字社の看護婦として従軍し、今度は「日本のナイチンゲール」と呼ばれることになった。

こうして波乱万丈の人生は、昭和7年(1932)6月14日、幕を閉じた。88歳だった。

八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

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