歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

【現代語訳】八重の桜従軍記@戊辰戦争・会津の決戦【第3回・開城】


=写真は同志社大特設HP
 八重が晩年に会津戦争を振り返った「男装して會津城に入りたる当時の苦心」の現代語訳の最終回です。
 じつはここでは自分が銃をもって戦ったことは語っていないのです。当時はキリスト教徒で日赤の看護婦ですからね。


私は、入城した当時は側女中(そばめじょちゅう)見習いでしたが
8月25日に「側女中格」に昇格しました。

たしかその日だったと思います。

太鼓門のほうへ出ようと玄関から降りますと、12、3歳の男の子が13、4人、
かわいらしい武装をして訓練をしておりました。

わたしの姿をみるとみんなが駆け寄ってきて
「八重さま、戦うなら連れて行ってください」
とすがりつきました。

私は
「ああ、こんな子どもまでも殿様のために命を捨てようとしているのか」
と思わず涙がこぼれました。

そこで
「いいえ、私は戦争に行くのではありません。戦争のときは知らせてあげるから、それまではおとなしくしていなさい」
と言いました。
子供たちは素直に納得して、また訓練を始めました。

その後、開城(降伏)する少し前になって、太田小兵衛という人の三男の三郎という
7歳の子どもが、城の火薬庫が爆発したときに、
「ああ落城した」と思って、一緒にいた母親とともに切腹しましたが、
まことに立派な死に様でした。

またある婦人は、母と娘と3人で入城していましたが、
「いざという時には、母と娘の介錯は自分がするが、もしも自分が死に損ねたら介錯してもらいたい」と頼まれました。


官軍の砲撃はすさまじい激しさです。
時には城の本丸御殿のなかでも破裂し、屋根を破り、床板を吹き飛ばし、地中にめり込む
という有り様でした。
吹き飛ばされた床板は、五寸くぎで打ち付けてあったほどのものでしたから、
いったんそうなってしまうと、そこは足踏みもできないほどの被害でした。

9月12日に、ある人が月見櫓で官軍の砲丸を数えていたら、その日1日に
1208発もあったということでした。
1度音が聞こえる度に、黒い点を付けた数えたそうです。

ちょうどこの戦いが激しい最中、私はある晩、中老の瀬山様と夜回りをしておりますと
むこうから腕に負傷した一人の武士がやってきました。

「誰か」と尋ねると、
「今、酒を飲んで同僚とけんかをしてケガをしました。治療所はどこですか」
と言いました。

瀬山様は女とはいえ、さすがに中老です。
「今大変なときに、殿様にささげた身体を軽々しく酒に酔って傷つけるような人に
治療所は教えられません」
とキッパリはねつけました。
私もそばにいて「なるほど」と感心しました。

開城になったのが9月23日、その夜、三の丸を出ます時に

あすの夜はいづくの誰かながむらむ
     なれしみそらにのこす月かげ

という歌を一首詠みました。

そして今、人から薦められたこともあって、入城当時を思い出して、男装して写真をとりました。
2本の刀と鉄砲と草履は、当時の形見でございます。
(完)