歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

 ところで岡田ってだれ?

再来年の大河ドラマは、戦国時代の軍師として名高い黒田官兵衛(1546〜1604)が主人公になりました。タイトルは「軍師官兵衛」だとか。主人公はV6岡田准一さんだそうで、まあ、なんというかあんまり印象のない人ですね、私には。
黒田如水(吉川英治歴史時代文庫 44)
 すごいのは、これを当てた方がいます。歴史マニアの山田真哉さんです。歴史マニアよりも、「さおだけ屋はなぜ潰れないか」の著書で有名な公認会計士の方ですが、なんと9月27日のエントリー
 

私が現時点で考える「大河ドラマ主人公予想」を書いておきます。
 30分間、じっくり考えました(短い?)
 対象は戦国時代です。(2014年は、順番的にまず間違いなく戦国時代のはずなので)
――――――

本命 黒田官兵衛 (豊臣秀吉の軍師。福岡藩の祖)

対抗 細川ガラシャ (明智光秀の娘。細川忠興の妻)

大穴 立花宗茂&立花ぎん千代 (大友宗麟の家臣。柳川藩の祖)

大穴 藤堂高虎 (主君を7回変えた。津藩の祖)

 と見事にビンゴさせています。なぜ大河に黒田官兵衛が選ばれたのかがこのエントリーを読むと理解できます。
 


 官兵衛は、戦国大名としては黒田如水の名前のほうも有名ですが、本名は、黒田孝高(くろだよしたか)さんです。
 如水とは、出家後の号で、正確には如水軒円清居士さんです。
 黒田さんは、姫路の出身です。黒田家で生まれましたが、姫路一帯を支配する小寺さんという人に仕えて、(当時の)姫路城を任され、小寺という姓を名乗りました。ボスの小寺さんは、姫路城より4キロほど東にある平城の御着(ごちゃく)城にいました。姫路の拠点はこっちのほうだったのです。


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 織田信長が中国方面に進出してくると、播磨入りした豊臣秀吉に従いました。直後に、荒木村重が信長に反乱を起こしましたが、官兵衛は裏切らず、むしろ村重の説得に赴いたが、捕らえられてしまいました。
 ここで裏切らなかったことで秀吉の篤い信頼を得て、1万石の大名となり、この頃、また黒田姓に戻したと見られています。
 軍師としての名高いのは、秀吉の高松城攻め(岡山県)で、水攻めを進言したことです。その最中に、本能寺の変が起きるのですが、近畿へとんぼ返りする秀吉本隊の殿を務め、山崎の戦いでも武功をあげました。
 その後は、秀吉配下の武将として戦闘や外交で大活躍しますが、もはや、軍師というレベルではないのです。
 朝鮮出兵では、石田三成と仲たがいしたことで、関ヶ原の合戦で、息子の長政が東軍についたとされています。
 有名なのは、長政で東軍で活躍して、関ヶ原が1日で決着をつけたことに対して、官兵衛(当時は如水)が「せっかく天下を狙うチャンスだったのに、早々に決着をつけやがって。バカ息子!」としかったというお話があります。
 この逸話もどうやら怪しいようです。大河では絶対でてくるでしょうが。
 関ヶ原前は黒田家は12万石でした。色々と活躍してきましたが、じつはそれほどの大大名ではなかったのです。それが関ヶ原の功績によって一気に筑前一国52万石という、一番の加増となりました。ですから父・官兵衛が文句を言うはずがないのです。
 関ヶ原の戦場で功績をあげたものはたくさんいるのに、なぜ黒田家が一番の功績となったのかについては、東大史料編纂所教授の本郷和人さんが週刊新潮で連載している「戦国時代のROE(交戦規則)」5回目(2012年7月19日号)で

 戦場での獅子奮迅の活躍?それもあるかもしれませんがより重要なのは、毛利家の調略です。長政の父は秀吉の参謀として有名な官兵衛孝高(隠居して如水)。黒田父子は毛利家の吉川広家と親しかった。「天下がどうなろうと、私たちの友情は決して変わらない」(如水から広家への手紙)というほど。そこで父子は広家と連絡を取り、南宮山の毛利軍を戦闘に参加させなかった。

 と解説していますが、そういうことなのでしょうね。

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