秀吉が賤ヶ岳の戦いを前に長浜城で書いた作戦指令書。新出資料?→それどころか黒田官兵衛が登場していた!
たぶん共同通信かな。福島民友新聞のHPで下のような記事あり。
秀吉の賤ケ岳合戦指示書展示 滋賀・長浜城歴史博物館(05/11 12:49)
1583年に羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の合戦で、秀吉が戦場に向けて具体的な戦略を指示した古文書が見つかり、滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館が11日、展示を始めた。
(略)
長浜城歴史博物館のHPを見ると、
「羽柴秀吉書状 羽柴秀長宛 (天正11年)4月3日付 1幅」というのがありました。
秀吉は、勝家の出兵を伊勢で聞き、すでに(*天正11年=1583年3月)11日には長浜城に入り、戦備を整えていた。その後秀吉は木之本まで進んだが、戦法を短期決戦から長期戦に変更、布陣の立て直しを行った。
前線は田上山砦(たがみやまとりで)の羽柴秀長に任せ、自らは長浜城で指揮を執ることとした。本文書は、この段階で、長浜城の秀吉が前線の秀長に、布陣についての注意、及び敵側の動きについての見解を与えたものである。
内容は我々に、合戦前夜の両軍の状態について、何点かの注目すべき新知見を提供する。特に決戦を前にした秀吉が、播磨(はりま)姫路への出兵の意思を持っていた点は注目される。恐らく、中国地方の毛利氏や吉川氏の動向が不穏なため、それを牽制(けんせい)する意味があったと思われる。
賤ヶ岳合戦の実像に迫ることができ、なおかつ長浜城で書かれたことが確実な点など、湖北の戦国史にとって重要な文書である。
だそうです。
展示は6月2日まで。
今度この話追いかけてみよっと。
【追記】
発表されていたんですね。しかも黒田官兵衛がらみだったという。HPにも書けばいいのに。
以下は読売新聞より
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20130511-OYO1T00396.htm
=写真 黒田官兵衛が賤ヶ岳の合戦に参戦していたことを示す古文書。左下は、秀吉直筆の花押(長浜城歴史博物館提供)秀吉の花押かおう(サイン)の字が乱れ、緊迫感が伝わる書面。江戸時代の資料でしか知られていなかった秀吉方軍師・黒田官兵衛の参戦を裏付ける記述もあり、同館は「ほとんど記録のない合戦の生々しさがうかがえる資料」としている。
賤ヶ岳近くにあった自陣の砦とりで周辺の小屋(兵士の野営施設)を、官兵衛らに破壊させるよう命じた内容で、「明日には後方から軍勢を送り込むので、今いる軍隊は前線から撤退することはあってはならない」などと記している。結局、作戦は実行されなかったが、同館は「秀吉は小屋の破壊後、柴田軍への総攻撃を計画していたのでは」とみている。
これまで官兵衛の参戦については、江戸期以降の文書にしか記録がなかったといい、同館は「官兵衛が合戦の前線にいたことが明確に裏付けられた」としている。
(略)
小和田哲男・静岡大名誉教授(戦国史)の話「賤ヶ岳の合戦の状況を示す貴重な文書。官兵衛の参戦も確実となり、資料的価値は高い」
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