金沢に旅行するときに知っておかなくてもいいこと
【言葉】
万能の言葉「ありがとう」
東京では、すみませんというシチュエーションでもすべて、「ありがとう(あんやと)。ありがとうございます、ではない。
さようならのときに「ようこそ」
お店をでるときに「ようこそ」と言われる。
ようこそ(来ていただきました)の略だと思われる。
ジブニは主食でない
治部煮はあまり一般的なメニューではないようだ。地元の人がいくような料理店ではメニューにすらない。
ラーメンは「八番ラーメン」
妙にたくさんあるチェーン店。八がつく料理店は、グループ会社らしい。
意外にも「ハチバン」という上場企業。
奈良で古代の幹線道「中ツ道」の路面が初出土。一方、お隣の「下ツ道」は墓と墓を結ぶ死者の道だった?
奈良盆地を縦断する3つの古代道の一つ「中ツ道」の路面の跡が天理市で見つかったと、奈良県立橿原考古学研究所がきのう(2013年5月11日)発表しました。去年、側溝が出土していますが、中ツ道の道路面の発見は初めてとのこと。
地面をまず平らにして、その上に砂と土をまぜた「アスファルト(比喩です)」で舗装していたのだそうです。
朝日新聞では記事のほか動画を配信しています。
ちなみに去年の発掘はこちら
=朝日新聞
『古代道路の謎』がスマッシュヒット中、ナイスなタイミングでの発見ですね。なお3つの街道のうちもっとも重要なのは、平城京の朱雀大路に直結する「下ツ道」です。エントリーの最後に、近江さんの昨年刊行の著書のちょい書評あります。あと「下ツ道」についてちょっと。
古代道路の謎―-奈良時代の巨大国家プロジェクト(祥伝社新書316) | ||||
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じぃぶぅにぃ!!先割れスプーンの発祥は金沢だった
金沢いってきました。そこで、驚愕の歴史を知りました。きっとみなさんもビックリすると思います。
- 世界最速つっこみ!るるぶの全部スポット行ってないだろう!@金沢周辺 - 歴史ニュースウォーカー
- じぇじぇじぇ!あまちゃんがふんどし一枚で素潜りする写真集が密かに発売【海女のいる風景】 - 歴史ニュースウォーカー
というエントリーを書いた以上、るるぶを見ないで金沢レビューするしかないと。
石川県には国宝が2つしかないはずなのに、一気に5個も見れたり。まあそれはあとにして。
とにかく「じぇじぇじぇ!」となったのが、地元のフリーペーパー「Favo」に載っていたネタです。
photo by satetsu
金沢カレーというのがありまして、いま全国でゴーゴーカレーなんかを時々見かけます。
- ルーは濃厚でドロッとしている
- 付け合わせとしてキャベツの千切りが載っている
- ステンレスの皿に盛られている
- フォークまたは先割れスプーンで食べる
で、この雑紙に元祖金沢カレーの「インデアンカレー」の野村建次社長さんのインタビューがありました。
「金沢カレーには、キャベツやカツがつくので、フォークは必ず必要。昔はスプーンと一緒に両方出していたのですが、当時はとにかく忙しくて、洗いものが追いつかなかったんです」
(略)
こうして必要に迫られて、当時はなかった特注オーダーの先割れスプーンが誕生しました。
なんと金沢カレーが先割れスプーンの先がけだったのです!
いや〜。びっくりしました。
もしかしたら「うちのB級グルメのほうが先に先割れスプーン開発した」なんて話があったらぜひ教えてください。
ただ、この記事には「当時」というのが「いつ(何年)」というのが載っていないので、比較しようもないのですけどね。
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【食の歴史エントリー】
大きな一歩!福島県沿岸で古代遺跡が見つかり保存決定。復興事業での遺跡保存は初! #復興 #歴史
NHKのきょう(2013年5月11日)のニュースによると、福島県の沿岸部で見つかった遺跡が地域にとって重要な古代遺跡であることがわかり、一部を保存することが決まったそうです。
沿岸部の高台移転などで、遺跡調査が「悪者」にされそうな風潮を危惧しています。
こうした保存の実績を増やして、「どうして遺跡を、歴史を、守ることが地域の復興のためになるか」という情報発信とコミュニケーションを、自治体も考古学者らも復興と同じくらいの熱量で行ってほしいものです。
津波の被害を受けた福島県広野町で、災害公営住宅の建設予定地から、奈良時代、街道沿いに整備された施設とみられる建物の跡が見つかり、町は一部を保存することを決めました。
東日本大震災の被災地の復興事業で見つかった遺跡が保存されるのは、初めてだということです。
福島県の浜通りには、古代に「海道(かいどう)」地域と呼ばれていて、10の駅があったことが正史『続日本紀』に書かれています。
しかし、これまで遺跡としては見つかっていませんでした。
宮城県出身の考古学者で国立歴史民俗博物館長の平川南さんの『東北「海道」の古代史』(2012、岩波書店)から、今回遺跡が見つかった福島県沿岸の古代史をピックアップしていきます。
福島県浜通りは、けがれを呑み込む女神のいる死の国への入り口?
古代の福島沿岸部は、巨大だった未知の大地「陸奥」への入り口でした。
いまのいわき市には菊多関という関所がありました。(一方、内陸・中通りの入り口は有名な白河の関があります。)
浜通りは、南から菊多郡、磐城郡、標葉(しめは)郡、行方郡、宇多郡の5郡が設置されました。
今回遺跡が見つかった広野町は、古代には磐城郡に位置していました。
浜通りは「蝦夷の国」というより、昔から茨城と水運でつながっているので、どちらかという関東圏でした。
そのため、789年の阿弖流為(あてるい)の反乱では、政府軍の将軍格(別将)として磐城郡出身の丈部(はせつかべ)善理が「巣伏の戦い」(岩手県奥州市)で戦死しています。
興味深いのは、磐城郡をはじめとする「海道」地区が、地の底・海の底にある「死の国」への入り口と考えられてきたことです。どうしても、あの大津波を想像します。
具体的には、沿岸部に、呪術性の強い墨書人面土器が多数出土しています。(平川、148頁)
平川さんは「なぜ海沿いに分布するのか」について、『延喜式』(平安時代にできたwikipedia)に載る祝詞(のりと)から分析します。
罪を祓うために、罪を高山、短山の山裾から下り、速川の瀬をへて大海原に持ち出すと、多くの潮流が集まるところにいて、勢いよく口を開けて潮流を呑み込む速開竎(はやあきつひめ)という女神ががぶがぶと呑んでしまうだろう。
さらに罪を呑み込んで息を放つと、最後には地下にあると考えられる根の国・底の国におる速佐須比竎(はやさすらいひめ)という女神が持ちさすらい失せてしまうという。(152頁)
平川さんはリンクさせていませんが、上の祝詞の現代語訳を何度読んでも、津波の光景が浮かんできます。
この祝詞の成立がいつかは分かりませんが、延喜式の編集開始は、例の1000年前の大津波「貞観地震津波」の869年から、30年後の905年なのです。
これを偶然と片づけるのは、「想定外」と等しく感じます。
(人面墨書土器自体は、貞観地震より古い時代からありますので、貞観地震によって生まれたわけではなく、もっと以前から、頻繁に津波が襲った地域だったという恵美嘉樹の考えです)
(↑貞観地震についてはこんな記事も書きましたので、よろしければどうぞ)
ちなみに、いわき市にある荒田目条里(あっためじょうり)遺跡で見つかった木簡で、村のリーダーが女性だったことが明らかになっています。
海の女神といい、女性たちの存在感の強い地域だったようです。
東北「海道」の古代史 | ||||
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秀吉が賤ヶ岳の戦いを前に長浜城で書いた作戦指令書。新出資料?→それどころか黒田官兵衛が登場していた!
たぶん共同通信かな。福島民友新聞のHPで下のような記事あり。
秀吉の賤ケ岳合戦指示書展示 滋賀・長浜城歴史博物館(05/11 12:49)
1583年に羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の合戦で、秀吉が戦場に向けて具体的な戦略を指示した古文書が見つかり、滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館が11日、展示を始めた。
(略)
長浜城歴史博物館のHPを見ると、
「羽柴秀吉書状 羽柴秀長宛 (天正11年)4月3日付 1幅」というのがありました。
秀吉は、勝家の出兵を伊勢で聞き、すでに(*天正11年=1583年3月)11日には長浜城に入り、戦備を整えていた。その後秀吉は木之本まで進んだが、戦法を短期決戦から長期戦に変更、布陣の立て直しを行った。
前線は田上山砦(たがみやまとりで)の羽柴秀長に任せ、自らは長浜城で指揮を執ることとした。本文書は、この段階で、長浜城の秀吉が前線の秀長に、布陣についての注意、及び敵側の動きについての見解を与えたものである。
内容は我々に、合戦前夜の両軍の状態について、何点かの注目すべき新知見を提供する。特に決戦を前にした秀吉が、播磨(はりま)姫路への出兵の意思を持っていた点は注目される。恐らく、中国地方の毛利氏や吉川氏の動向が不穏なため、それを牽制(けんせい)する意味があったと思われる。
賤ヶ岳合戦の実像に迫ることができ、なおかつ長浜城で書かれたことが確実な点など、湖北の戦国史にとって重要な文書である。
だそうです。
展示は6月2日まで。
今度この話追いかけてみよっと。
【追記】
発表されていたんですね。しかも黒田官兵衛がらみだったという。HPにも書けばいいのに。
以下は読売新聞より
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20130511-OYO1T00396.htm
=写真 黒田官兵衛が賤ヶ岳の合戦に参戦していたことを示す古文書。左下は、秀吉直筆の花押(長浜城歴史博物館提供)秀吉の花押かおう(サイン)の字が乱れ、緊迫感が伝わる書面。江戸時代の資料でしか知られていなかった秀吉方軍師・黒田官兵衛の参戦を裏付ける記述もあり、同館は「ほとんど記録のない合戦の生々しさがうかがえる資料」としている。
賤ヶ岳近くにあった自陣の砦とりで周辺の小屋(兵士の野営施設)を、官兵衛らに破壊させるよう命じた内容で、「明日には後方から軍勢を送り込むので、今いる軍隊は前線から撤退することはあってはならない」などと記している。結局、作戦は実行されなかったが、同館は「秀吉は小屋の破壊後、柴田軍への総攻撃を計画していたのでは」とみている。
これまで官兵衛の参戦については、江戸期以降の文書にしか記録がなかったといい、同館は「官兵衛が合戦の前線にいたことが明確に裏付けられた」としている。
(略)
小和田哲男・静岡大名誉教授(戦国史)の話「賤ヶ岳の合戦の状況を示す貴重な文書。官兵衛の参戦も確実となり、資料的価値は高い」
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龍馬暗殺の真犯人は変則二刀流の達人。その名も「桂三枝」っぽいぞ?!
きのう、ああ、もうおととい(2013年5月8日)ですね。NHKの歴史秘話ヒストリアは「坂本龍馬 暗殺の瞬間に迫る〜最新研究から描く幕末ミステリー〜」というテーマでした。
ポイントは、
- 実行犯は幕府の警察組織「見廻組」(コントロールしていたのは京都守護職の会津藩)
- 幕府からのお尋ね者だった龍馬だが、大政奉還によって幕府がなくなったのでもう狙われていないと思っていた節がある
- むしろ徳川家を助けようと徳川重臣のところに堂々と出入り
- それを見た見廻組が「ぶち切れ」(前に仲間を龍馬に2人殺されているから)
- 見廻組は偽名をつかって隠し部屋に堂々と客人として一人で入り、(敵意がない証拠として)長刀を横に置いて龍馬の前に座った
- しかし、この刺客は小太刀を必殺の剣とする二刀流の達人であった
と言ったところでしょう。
なので、今回の主役は龍馬ではなく、この謎の二刀流の使い手、桂隼之助(早之助)くんなのです。
非常に気になる新キャラとして、これからの幕末レアカードとなることでしょう。
今回の番組に登場した研究者は二人いまして、
霊山歴史館の木村幸比古さんと、「武士の家計簿」の磯田道史さんです。
お二人の龍馬暗殺の著書からTVになかった話を探して載せていこうと思います。
リアルタイム(笑)に更新(打ち止め〜)していきますので、ちょこちょこ見に来てください。(5月14日の午前1時45分から再放送らしいですよ。上のNHKのHPでチェックしてください)
なお参考書は下の2冊です。
龍馬暗殺の謎 (PHP新書) | ||||
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龍馬史 | ||||
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襲撃犯の構成
見廻組が実行犯というのは、確定としまして、斬った男は桂くんにまだ決定しているわけではありません。
実行犯は複数いて、しかも7人。7人の侍です。
隊長の佐々木只三郎、以下、桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安治郎、土井仲蔵、桜井大三朗、そして「見廻組犯行と明治に告白した」今井信郎です。今井以外は全員、鳥羽伏見の戦いで戦死しています。
このことから今井は戦死した人に罪をかぶせた可能性があります。実際、渡辺篤という人物も「俺が襲撃した」と告白しています。
(磯田167p)
このうちの誰かが龍馬の頭をすぱっと斬ったわけです。今井は「俺がやった」といったのですが、天井の低い隠し部屋で長い刀を振り回せないことから、小太刀の名手である桂隼之助と渡辺吉太郎(もしくは渡辺篤)にしぼられていきます。
で、NHKでは桂隼之助がその人と断定しています。渡辺だと、吉太郎なのか、それとも篤なのか、非常にややこしいことになるから、と恵美嘉樹は邪推しています笑(磯田、木村の両著書では桂が斬ったと断定していません)
番組でも出ていましたが、霊山歴史館に1994年に寄贈された桂の履歴書(由緒書き)があります。(木村著書より、キンドルで読んでいてページ数分かりませんすんません)
その功績はすごいです。
17歳で西岡是心流の目録を渡され、京都文武場の剣術の准教授(世話心得)に抜擢。
29歳の時には、二条城で行われた上覧試合では京都所司代の代表として出場し、ことごとく撃破して、将軍家茂から白銀5枚をもらっている。
新撰組による池田屋事件にも参加して、浪士を捕縛して、報奨金5両をもらっている。
この功績から、本来はなれなかった(桂の職業は二条城の門番)見廻組へと抜擢された。
こんな感じ。
もう一人の実行犯候補の渡辺篤についても履歴書があることがわかっています。(以下は木村参照)
この履歴書の原本が書かれたのは今井の告白以前です。存在がわかったのは1978年と最近。
原本には 「7人で夕方より龍馬の宿へ踏み込んで、5、6人と戦ったがすべて討ち果たした」という内容が書かれていました。
ここでひっかかるのは、5、6人も敵(龍馬達)がいなかったということです。のちにまとめられた履歴書では襲撃者数が6人になったり。
また、暗殺時の様子については「正面に座った龍馬を斬りつけたら、横に倒れた。両側に別の2人がいたが、同時に討ち果たした。そのうちの一人が中岡とあとで知った。従僕も即死だった」などとしています。部屋には従僕はいなかったはずですが、と色々変な部分も残っています。
そのため、渡辺篤の告白は信用しないという研究者もいるそうです。
渡辺篤も、桂と同じく西岡是心流で、18歳で免許皆伝という強者。同じく上覧試合で銀5枚もらい、文武場の准教授になっています。ほとんど桂と同じ経歴ですね。
最大の違いは、維新後も生き残ったこと。73歳で死んでいます。
なんで見廻組犯人説が定説になったのか
NHKでも「専門家の中では見廻組犯人説に異論はない」みたいなことが言っていましたが、世の中的には、「新撰組」ですよね〜。
新撰組説は
A)龍馬と一緒に討たれた中岡慎太郎が「新撰組にやられた」という言葉が一番の原因です。
ほかに
B)瓢箪の印のついた新撰組のげたがあった。
C)数日前に新撰組を奪回した元メンバーから「新撰組が狙っている」と龍馬に忠告があった。
ただ、これは
AとCは「中岡慎太郎ですが、彼の証言はうのみにできません。・・・彼はひどい傷を負って混濁状態です。・・・中岡はいろいろ証言するけれど、冷静にいると、うわ言に近いものもある」(磯田172P)
Bは「海援隊の人間が大騒ぎして人を呼び集めたものだから、階下には下駄が脱ぎ散らしにされました。ですから誰の下駄やら草履やら、もはやなにやら分からない状態になり、・・・瓢箪印の下駄が本当に侵入者の物とはいえないのです。」(同上)
からもそれぞれ否定されています。
(もちろん最も否定された理由は元見廻組の今井らが「俺たちがやった」と告白したからです)
なぜ幕末が分からないのか
ところで、幕末は大好きだけど、歴史としてはよくわからんという人は少なくないでしょう。幕末といえば、「尊皇攘夷」。これに対するのが「開国」。
この教科書的な理解が、幕末を理解できなくさせています。
孫正義から怒られるかもしれませんが、ぶっちゃけて言いましょう。
「幕末の志士は龍馬を含めて全員、なーーーーーんも思想なんか持ってませんんんんんん!」
や、やばい。言ってしまった。もう歴史界で生きていけないかもしれない。
まあ、ともかく、「尊皇攘夷派」「佐幕派」「開国派」とかの区分けをしていると、なにがなんだか分からなくなるのは事実です。
薩長同盟やら、新撰組から分裂したグループが龍馬とお友達になったり、昨日の敵があすの味方、逆もまたしかり。
これはみな20代、30代の若造たちによる思い付きだからです。思想があるふりをして、その時々の自分の事情で動いていくのです。
彼らが時々にあげるお題目にいちいち反応せずに、その裏にある「生きたい」「偉くなりたい」「名を上げたい」「かっこつけたい」などの心を読み解けば、すらすら幕末が理解できます。
でも笑ってはいけません。
「小泉改革万歳」
↓
「政権交代で暮らし安心クラシアン」
↓
「アベノミクスサイコー」
ひとしく、われらは幕末の志士の子孫なのです。
【幕末エントリー】