歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

バジル@纒向遺跡の論者の本より「河内王朝?ないでしょ。古墳つくる土地がないから大阪に造っただけ」

 先日、バジルの種が奈良・纒向遺跡から出たというニュースがありました。纒向遺跡畿内邪馬台国説の人は「ここぞ邪馬台国」という場所です。

 そこで見つかった種が、これまで江戸時代以降に日本に入ってきたと思われていたバジルだった!という研究です。
 その研究を発表したのが、金原正明さんという奈良教育大教授で、「どういう研究しているのかなあ?」と思って、アマゾンで著書を探したけど、ありませんでしたが、河内王朝についての天理大学が大阪の毎日文化センターで行った「古代史教室」ーをまとめた近江昌司編『河内王権の謎―巨大前方後円墳の世紀 (天理大学の古代史教室)』(学生社、1993年)の中にありましたので、そこでの内容をまとめてみました。
 

 

なぜ奈良から大阪へ?仁徳天皇「そこに台地があるからさ」

 金原さんのテーマは「自然科学からみた古代大和と河内」です。
 金原さんはもともとは地理を含む自然科学から考古学へ移ったそうです。この本の出版時(1993年)には、天理大附属天理参考館の学芸員さんでした。

 花粉分析もやっていますが、この本を読む限りは、地理や地形に基づいて、古墳時代を語っているので、バジルのときの「環境考古学」という肩書よりも、地理・地学の方面の方のように感じました。

 本題に進みましょう。

 邪馬台国(その直後)に、箸墓古墳をはじめ大和(これで「おおやまと」と読む、ややこしい)・柳本古墳群が出来ます。だいたい3世紀。

 その地形は

 中位段丘と下位段丘そして隆起した扇状地の上に造られており、古墳築造をしやすい地形単位が発達しているという特徴を持つわけです。(略)水田という生産地ではないところに古墳を築造したとみなされるとも思います。
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 そして、100年後の4世紀、佐紀古墳群(平城京の北)に王墓の場所がかわります。
 ここも水田に向かない段丘上につくられました。

 おもしろかったのは

 佐紀古墳群に接して南側には平城宮そして平城京があります。奈良盆地の北半に位置するわけですが、奈良盆地の北半分は水田に適した沖積平野の堆積物が発達するのではなく、ヨーロッパでいう氷河時代の地層である更新統と呼ばれる堆積層が表層近くに分布しています。このことは、奈良盆地の北半がさほど水田には適さず生産性が悪かったのではないかと思います。
53頁

 これって重要な情報です。奈良盆地北半が地味で貧しい=人口少ない。沖積平野でない=大規模な水害が起きていない。
 この条件は新都心を造るのにピッタリなんです。

 平城京をつくるときに立ち退きさせる人数や、つぶす水田(経済のもと)を最小限にできる平地というのは貴重です。

 続いて河内王朝(5世紀)の古市古墳群(大阪府)についてです。
 古市古墳群も段丘上に造られていて、これも農業生産地には造られていなかった。
 つまり、大和・柳本〜佐紀〜古市とその立地は、基本的に古墳をつくれるくらい広い段丘があるかどうかであって、かならずしも王権がヤマトから河内に移ったとは限らないと説明しています。

 たんにでかい台地が奈良盆地にないから、河内につくった。だって、お墓だもん。遠くてもいいじゃん。ってことですね。
 恵美嘉樹の中の人たちの中でも、河内王朝については分裂気味(笑)なのですが、これは説得力ありますね。

農業生産性は奈良盆地のほうが河内平野より優れていた

 また、奈良盆地と河内平野を地形分類して調べたところ、稲作ができる平野の面積を比べると、奈良のほうが1・5倍広いそうです。

 水稲の生産性は大和のほうがかなり多いと言わざるを得ません。

 河内王朝説は、河内のほうが豊かであるという暗黙の了解がありますから、地形だけで判断すると、それがぐらつくことになるようですね。
 もっとも河内王朝の経済基盤は、ちまちま地元で農業やっているのではなく(それじゃあんなでかい古墳はできません)、戦乱だった朝鮮半島へ傭兵ビジネスで大もうけしたという説もあります。

 
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