歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

戦国秘話ヒソチリア!あなたとNHKの知らない伊達政宗の5つの秘密

 きのうのNHK歴史秘話ヒストリア伊達政宗でした。関ヶ原の合戦時に、政宗は会津の上杉と戦うのですが、その理由がなんとなんと「山形に帰った母を助けるため」という口ぽかーんな展開。。。
 全体的には教科書的(伝統的)な政宗史だったので無難かつ半分うつらうつら見ていました。端的に言うと「秘話ないじゃん!」
 なので、本当の秘話を探してきましたよ。

その1 政宗は隻眼になるまで両親のもと何不自由なく暮らしていた・・・・のではなかった

 米沢(現在の米沢城は上杉のもので伊達時代は西にある山城=館山城跡ではと言われています)で生まれた梵天丸ちゃん(政宗)は、両親の溺愛のもとすくすくと何不自由なく育ちました、とNHKでも言っていましたが・・・。
 
 最近になって、そもそも親子は離れて暮らして、帝王学を施されていた(一人暮らし)という説が出ているようです。
 一人暮らしといっても、殿様としての独り暮らしなので当然、家臣はいます。
 それが、例の片倉小十郎だったというのですから、胸があつくなるではありませんか。

 米沢時代の天正3年(1575)、10歳年上の小十郎は当時9歳だった政宗の守役として登用された。
 二人が米沢地方のどこにいたのかわからなかったが、最近になって、山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館と地元の歴史研究家がおこなった調査で、高畠町に政宗のための館があったことが浮かび上がった。両親の住む米沢城から離れた場所で、二人は単なる主従関係を超えた深い絆を結んでいった。



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その2 政宗暗殺未遂事件発覚後に母は実家の山形へ逃げた・・・・のではなかった

 1589年に、23歳の政宗は、とうとう宿願の会津の蘆名氏を滅ぼして、東北のうちの半分を抑えます。
 ところが、この「会津征服」は、秀吉が天下に発した停戦命令を無視して行ったものだったのに、秀吉は「ムキー」と怒ります。
 で、翌年、秀吉から「小田原征伐に関東にいくから、お前もこっちこいや」と参陣命令のお手紙が届きます。しかし、そのお手紙の行間を読むと、どうも参陣してこい、というより「来たら処刑」にも読める微妙なものでした。

 「やべー、サルマジギレしてる!」「伊達家お取りつぶしじゃねぇ!?」と伊達家中は大騒ぎ。
 
 で、、、
(殺しちゃわない?政宗殿を)
 という暗殺計画がでて、次の当主には弟の小次郎にしようというクーデター計画が勃発しました。
 その裏には、兄弟の実母の保春院がいて、「醜い政宗は嫌い」と黒幕でした。
 しかし、謀略を知った政宗は弟を殺害して、母もあわてて実家の山形の最上氏へ逃げていった、というのが一般的なイメージです。(さらにイメージだけでなく、伊達家の正式な記録「伊達治家記録」にもそういう展開になっています)

 ところが、母親が実家に帰ったのは、1589年ではなく、1594年だったことが、同時代の手紙から判明してしまったのです。

 もうとっくに政宗は秀吉の家臣です。

 この空白の4年間になにがあったのか。謎が謎を呼びますね〜。

その3 秀吉にすっかり屈服・屈従・・・・してなかった

 弟に裏切られ、(母ちゃんにも裏切られ?)、失意の政宗くんは、とぼとぼと、小田原に向かい、「死を覚悟した(ふり?)」白装束で、秀吉のもとにあらわれた。
 秀吉は、「あと少し来るのが遅ければ、首ちょっきんだったよ」と警告すると、
 なんと
 我らが政宗は「あと数年、あなたが来るのが遅ければ、むしろ私が先に小田原を征服して、箱根の先で秀吉殿をお迎えしたのに」と答えたのだ。
 どれだけ上から目線。
 
 だが、秀吉は笑って許した。
 
 これを茶番という人もいるかもしれないが、この小田原の陣では、昔、秀吉に仕えながら勘気をくらって、放逐されたかつての部下達が多数、死を覚悟した出家姿などで訪れていた。
 秀吉は、そんな覚悟をしめした元部下たちを、許すどころか処刑したりしている。
 そんな危ないおじさんに、こんなセリフをのたまわった政宗は、やっぱり凄い。

その4 伊達男は、伊達政宗がかっこいいから出来た新語・・・・ではなかった

 伊達男は、伊達政宗朝鮮出兵のさいに舞台にド派手に飾ったことからうまれたという俗説があります。
 わりと浸透しているようです。

 「伊達者」といったら、、、そのルーツは伊達政宗軍団のファッションから来ている。

 こんなふうに、最近2011年に出た戦国本(永山久夫戦国の食術: 勝つための食の極意 (学研新書))にも載っているくらいです。
 しかし、実際は「立て」、つまり「目立つ」ですが語源です。
 「立て男」があって、当て字として「伊達男」になったのです。では、いつから「伊達男」になったのかが問題ですが、あまりびしっと明示しているのは寡聞にしてききませんね。きっと明治以降なんじゃないかな、さかのぼっても江戸後期と想像していますが、ご存じの方教えてください。

その5 政宗といえば鍔の眼帯・・・してなかった

 実は政宗を書いた絵には普通、両目があります。
↓こんな風に。

写真「戦国武将ゆかりの地を巡る」より
 同時代で隻眼の絵はほとんどない。

 というのも、政宗は「両親がくれた体に傷ついた(隻眼になった)状態の顔は親不孝なので、隻眼の絵は残さないでくれ」と命令しているからです。
 片眼であることが親不孝とは、現代的なら差別になりますが、当時は儒教的な考えだったので、それはそうで。
 (そういいながら、戦で体を傷つけるんだから武士の思考は意味不明です苦笑)


 伊達家の菩提寺、松島に面した瑞巌寺には、生前のリアルな政宗を再現した唯一の木像があります。
 そこには眼帯はありません。

瑞巌寺HP

 文書資料でも、別の殿様による「眼帯をしていない」目撃記録があります。
秋田藩の佐竹義隆が、江戸城で酔いつぶれた晩年の政宗にからまれた(笑)ときのことを

「あの落ちぶれた政宗め。酔って、つぶれた片眼から目が飛びして、みっともなかった。醜いくそ親父め!(怒)」

と書いています。

 眼帯を付けていたこともあったかもしれませんが、基本はそのまま。少なくとも重い鍔をつけるなんてことは100%(いや、99・8%くらいにしておきますか)ありません。



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引用とエピソードはこちらの「独眼竜の時代」より