読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

マイナー戦国大名・加藤光泰はなぜ参戦しない小田原攻め後に、武田信玄の本拠地をもらえたのか?

 映画「のぼうの城」はやっていますね。少なくとも当ブログへのリンクは、「のぼうの城」での検索が多いのです。

 で、のぼうの城の舞台である小田原攻めに関連した人をちょっと紹介。
 
 加藤貞泰(かとうさだやす)さんは、マイナーな武将ですが、じつは15歳の若さで甲斐府中(つまり、武田信玄の本拠地)24万石を一時領有した人物です。
 というか、お父さんの光泰さんがすごかったわけです。
 美濃出身で、斎藤龍興から信長軍団、とくに豊臣秀吉に従った勝ち組です。
 70石(正確には貫)→浅井長政との戦いで負傷700石(前に同じく貫)
→播磨の三木城攻めで5000石→丹波周山城主1万7000石(大名になりましたパチパチ)
→近江貝津城主→近江高島城主2万石→佐和山城
小田原征伐では駿府で留守番だったのですが、どういうわけでしょうか、甲府城24万石の大大名になりました。

 基本的には最前線で戦ったものに勲功が多いのが原則中の原則。
 この小田原攻めが「戦争」ではなく、パフォーマンスだったということの裏付けになるかもしれません。

 というのも、秀吉軍はあまりにも大軍すぎて、戦うことよりも兵士たちへの兵站補給が最重要ミッションだったからです。後背の静岡県で、日本史上未経験の食糧運搬をうまくさばいた、ということかもしれませんね。

 この兵站の経験を日本軍全軍が朝鮮出兵でもいかせば、ちょっとは歴史はかわったかもしれない。
 その朝鮮出兵で戦死して、若くして家督を息子に受け継いだのですが、石田三成に「若すぎる」と因縁を付けられて、美濃の4万石に激減されちゃいます。

 当然、貞泰くんは関ヶ原の合戦では、バリバリ東軍の最前線で活躍します。が、加増は2万石で、計6万石で米子(鳥取県西部、鬼太郎のふるさと)へ。大坂の陣のあとに、この記事にある伊予国大津(愛媛県大洲市)へとご転勤しました。


加藤貞泰:岐阜市に顕彰碑、「大洲史談会」が寄贈 /愛媛 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
ソースURL: http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121107-00000204-mailo-l38

毎日新聞 11月7日(水)16時20分配信
 戦国時代の武将・加藤貞泰(1580〜1623年)がそれぞれの城主を務めたことが縁で、大洲城のある大洲市の「大洲史談会」が、黒野城のある岐阜市に貞泰の顕彰碑を寄贈した。同会の25人が6日、黒野城跡を初めて訪れ、地元の「黒野城と加藤貞泰公研究会」の約30人とともに黒野城跡に建てられた顕彰碑を除幕した。
(略)

 貞泰は1594(文禄3)年に黒野藩初代城主になり、15年間に城下町を整備して町並みの骨格を築いた。1610(慶長15)年に米子(鳥取県)へ国替えとなり、黒野藩は廃藩。1617(元和3)年に大洲へ移封されて初代城主を務め、1623(元和9)年に44歳(数え年)で死去した。大洲藩明治維新まで貞泰の子孫が藩主だった。
 大洲史談会の村上恒夫会長(78)は「貞泰公の遺徳を継承するため、ゆかりのある黒野の地に永久に残る石碑を贈った」と説明。同研究会の郷孝夫会長(72)は「大洲史談会の皆さんとは初対面だが、これを機に交流と研究を深め、郷土のまちづくりに生かしていきたい」と望んでいた。【立松勝】