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歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

飛鳥で未知の最大級の方墳小山田古墳が発見されたことから謎の亀石の存在意義を考えてみた

飛鳥時代

飛鳥で石舞台古墳(50メートル)よりも大きな一辺70メートルの方墳(もしくは上は円墳になっている上円下方墳)が見つかりました。2017年3月1日に奈良県立橿原考古学研究所が発表しました。古墳の名前は小山田古墳と名付けられました。

これだけ大きな未知の古墳が破壊されているとはいえ、見つかるのは珍しいことです。(正確には後述するように2015年1月にこの古墳の存在は同研究所によって発表されています)

場所としてはグーグルマップに黄色い丸で書いたように、大きな古墳が並んでいるエリアです。

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被葬者については、聖徳太子らの次の世代である舒明天皇(じょめい)が有力視されています。

石舞台古墳(上の地図の右恥)の被葬者として有力候補の蘇我馬子の息子の蘇我蝦夷(えみし)との説もあがっているそうです。

この古墳はいまは毎日新聞のキャプチャー(↓)にあるように養護学校の下にあり完全に壊れているのですが、そもそも古墳が造られてからすぐに壊された様子がわかるとのこと。

そのことから舒明天皇の最初のお墓で、それが壊されて改葬されて、現在のお墓とされている八角形墳の段ノ塚古墳(桜井市)へ移ったという説です。

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朝日新聞ではこんな感じです。

 

 飛鳥時代で最大級の方形の古墳(方墳)の可能性が高まった奈良県明日香村の小山田(こやまだ)古墳。そこに眠っていたのは、新しい国づくりを目指した舒明(じょめい)天皇(593~641)だったのか。天皇をしのぐ権勢を誇ったとされる豪族の蘇我蝦夷(そがのえみし)だったのか。なぜ、古墳は短期間で壊されたのか。古代史の謎が深まってきた。

 近畿の天皇や豪族の墓の形は、飛鳥時代を通じて変化する。3世紀中ごろの古墳時代初めから続いた前方後円墳は6世紀末に終わりを告げ、方墳に。7世紀中ごろからは天皇墓に八角形墳が採用される。その八角形墳の始まりが最古の国家寺院、百済大寺(くだらのおおでら)を建て、遣唐使を初めて派遣した舒明天皇の陵墓とされる段ノ塚古墳(奈良県桜井市)だ。

 舒明天皇は629年、7世紀前半に厩戸王(うまやとおう=聖徳太子)や蘇我馬子(うまこ)と政治を進めた推古(すいこ)天皇の死後に即位。馬子の子、蝦夷ら蘇我氏が権力を握るなか、飛鳥の中心から離れた地に百済宮(くだらのみや)や百済大寺を築く。蘇我氏とは距離を置き、天皇中心の中央集権国家づくりを目指したとの見方もある。

 近畿で最大級の方墳は聖徳太子の父、用明(ようめい)天皇の陵墓とされる大阪府太子町の春日向山古墳(東西66メートル、南北60メートル)や、推古天皇陵とされる山田高塚古墳(東西66メートル、南北58メートル)だが、一辺70メートルの小山田古墳の規模はこれらを上回る。木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「これだけの規模は天皇の墓としか考えられない」と述べ、舒明天皇の墓との見方を示す。

 

この頃の大王(天皇)の権力というのはまだ絶対的ではありませんでした。

有力な豪族にまつりあげられた邪馬台国の卑弥呼以来の祭祀王から、中国の皇帝制度(律令制)を導入した奈良時代の「天皇制」への移行期です。

墓の大きさだけで、誰と断定するのはなかなか難しいのです。

実際、天皇の権力は大きくなる一方で墓の大きさは小さくなります。

朝日新聞がわかりやすく図にしていますが、まさに見たとおりです。

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じゃあ、蘇我蝦夷の墓なの?

というと、大化の改新で敗者となったから壊されたということになるのでしょうか。なんとなく物語的にはピッタリする気がします。

蝦夷はたしかに生前に墓を造っているので、ありといえばありなのですが、下の地図にあるように小山田古墳の右上の緑の部分に、蘇我蝦夷や入鹿の館があったことが最近の発掘で判明しています。

当然ながらお墓というのは、ケガレの地です。ハレの地である自分の住居のすぐ隣に墓を作るかなぁ~というのが大きな違和感です。

むしろ、もともとお墓の場所だった飛鳥が、いつの間にか、だんだんと政治の場(ハレ)になってきてしまって、ハレの場所の用地が少なくなったので、ちょっとはみ出ていた場所にあった小山田古墳を改葬して、とおくの桜井市の段ノ塚古墳におしゃれで最新で(でも小さい)お墓を作り直したのかなと思っています。

つまり、舒明天皇の最初の墓説ですね。

そうすると、謎の石造物である亀石なんかも、小山田古墳の破壊(改葬)後に、ハレの地とケガレの地を南北に線引するための境界線として、置いたということになって、亀石の境界線説にも矛盾しなくて、よいのではないかなぁとつらつらと考えています。

 

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なお、小山田古墳が舒明天皇の墓と言われたのは、今回が初めてではありません。

2015年1月のことでした。

そのときに、こののちに小山田古墳と呼ばれる墓と、舒明天皇とその後の大化の改新について3回にわたって、武将ジャパンに寄稿していますので、ご参考までに。

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