歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

日本初の女帝推古天皇の1stお墓を土で封印して二度と使えないようにしていた理由とは

 奈良県橿原市教委が2012年12月12日、飛鳥時代の女帝・推古天皇(五五四〜六二八)と息子の竹田皇子の合同墓(の可能性が高い)植山古墳について発表しました。
 横穴式石室の入り口を大量の土で「封印」したことが分かりました。
 古墳時代の後半から流行する「洞窟状」の横穴式石室の入り口は、普通は石でふさぎます。石室は再利用が前提のエコシステムなので、石をどければまた使えるからです。

 ところが、植山古墳の入り口は、土でびっちりとふさいでしまっていたわけです。

 それには考えられる理由があります。
 最大の理由は、「偉大な天皇の墓を再利用してはならない」という国家的な意識でしょう。
 
 実は植山古墳には、推古女帝のなきがらはありません。
 盗掘されたからではなく、別の場所に改葬したからです。

 つまり推古の墓は、1番目(植山古墳)ー>2番目(大阪府太子町)と移動しているのです。

 推古天皇というと、おいの聖徳太子摂政(後継者)にしたことで有名ですが、本来は自分の長男である竹田皇子を後継とするつもりでした。

 飛鳥時代に、摂政や皇太子という仕組みがあったとは考えられていません。
 なぜかというと、天皇は即位すれば死ぬまで天皇の一生もの。生前に地位を譲るなどというのは、まだ誰もやったことがなかったからです。(結局、推古は後継を指名しないまま亡くなります)

 ところが、後継にしたかった竹田皇子は若くして亡くなってしまいます。

 それを葬ったのが、ここ植山古墳と考えられています。

 日本書紀には、推古天皇が生前、「自分が死んだら、自分のための墓を新しく作ってはいけない。息子の墓に一緒に埋葬するように」と遺言を残しています。 植山古墳ではその記述とおりに、最初に作られた息子の石室の隣に、新しい石室が作られ、母推古が葬られたのです。


 しかし、その後しばらくして「天皇の墓、しかも飛鳥中興の祖の墓はちゃんと作った方がいいんじゃない?」という話が(たぶん)盛り上がり、日本版「王家の谷」と呼ばれる大阪府太子町に、新しい墓「磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」をつくり、ちゃんと竹田皇子も一緒に移りました、ということです。


 こちらは、宮内庁の陵墓指定になっているので今は調べられませんが、昔盗掘されていて、中の様子も記録があります。

 今度は二つの穴ではなく、一つの穴(石室)に、親子の石棺が仲良く並んでいるそうです。


 植山古墳の現地説明会は15日午前9時〜午後3時です。問い合わせは、文化財課(0744・29・5902)。


関連リンク
ソースURL: http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20121213-OYO1T00684.htm?from=main2

  • 追記1

奈良新聞の続報


日本最初の女帝、推古天皇と息子の竹田皇子の墓とされ、横穴式石室の入り口が土で密封する特異な構造だったことが分かった橿原市五条野町の植山古墳(国史跡、6世紀後半〜7世紀前半)で15日、現地説明会があり、考古学ファンら955人が訪れた。

  • 追記2 年開けた1月に石室の一部が崩落!

日本最初の女帝の最初のお墓「植山古墳」の一部が崩落。事故から1か月の発表の背景は?
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