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歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

技術は世界一?! 江戸時代のアイホンを復元しよう!という動きが北陸で始動!(日本三奇橋の写真あり)

愛本=アイホンと早合点したわけですが、どうやら読みは「あいもと」でしたね。すみません。(わざとですよ)

黒部川の激流に耐える(といっても8回もかけ直したのです)加賀百万石の技術の粋を集めた橋がこの愛本はね橋です。

加賀藩の誰が作ったのか? 
初代前田利家? いえいえ
最後の戦国大名と呼ばれた3代利常? いえいえ

実は今に通じる金沢の金工やらの技術文化を生み出したのは、5代前田綱紀(つなのり)さんなのです。

血なまぐさい戦国武将の殺戮の地・北陸(真宗とかめちゃめちゃ大虐殺されています)を治めるには、利家や利常のようなカブキものである必要がありましたが、平和になってからは、百万石という大きな領地を治めるには、工芸や美術を含めた「技術」文化であったのです。
5代綱紀が京都などから優秀な技術者を連れてきて、戦闘都市金沢から文化都市金沢へとうまーく衣替えしたというわけです。

いい意味での「文化大革命」の結果のこの橋ですが、
はねるの字が「跳ねる」でなく「(首を)刎る」なところもなんか武士っぽくて怖いです。

技術的にすごくても、こんなの10年と持ちません、というかメンテナンスが不可能。これまたiPhoneと同じ。
実際、10年くらいたつと壊れて、新しいのをつくるまでは渡し船でカバーしていたそうです。

ちなみに綱紀さんは、もともとの地名「相本」を「愛」に替えています。愛人を人柱にでもしたのでしょうか? なんてことはなく(いや、人柱はたぶんやっていたと思われます。そこらの素浪人あたりをつかまえて)

激流ながら恵みをもたらす黒部川を「外見は忿怒暴悪の形をとるが、内面は愛をもって民衆を救う」愛染明王に見立てたのではないかなと恵美は想像しています。

ともかく、しびれるような美しい橋ですね。ぜひ復元していただきたいものです。


写真は8回もかけ直されたあとのiphone8ならぬ最後の愛本刎橋だそうです。

愛本刎橋(あいもとはねばし)とは
黒部市のHPより、上の写真も)

 黒部川の本格的な架橋は「愛本刎橋」に始まります。寛文2年(1662)、黒部川が一番狭くなっている場所―愛本―にかけられました。刎橋とよばれるこの橋は、橋脚が1本もないのが特徴です。川の両方の岸から、刎木(はねぎ)と呼ばれる材木を差し出し、その先をつなぎ合わせてつくった橋です。その形が珍しく、美しい姿だったので、山口県錦帯橋(きんたいきょう)、山梨県猿橋(さるはし)とともに、日本三奇橋の1つとして有名です。

ちなみに残りの三奇橋の写真です。
風景壁紙コムより
猿橋
錦帯橋

この刎橋を再建しようという動きがあるそうです。

技術は世界一とも…日本三奇橋「愛本刎橋」再現
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121028-OYT1T00372.htm?from=ylist

 黒部川に明治中期まで架かっていた日本三奇橋の一つ「愛本」を再現し復活させようと、27日、愛本峡の元の架橋場所にロープでかたどった模型が架けられた。

 来月25日まで約1か月間、展示する予定。

 愛本刎橋は350年前の寛文2年(1662年)、加賀藩5代藩主前田綱紀の命で架けられた。黒部川の激流で流されないよう橋脚のない独特の構造で、両岸の崖に刎木と呼ばれる大木を斜めに差し込み、その上に橋げたを組んで、約63・5メートルの橋を支えていた。現在は刎橋ではないアーチ状の「新愛本橋」が約65メートル下流に架かっている。

 愛本刎橋は、他の三奇橋、猿橋山梨県)と錦帯橋山口県)の倍ほど長い。調査している上野幸夫・職芸学院教授(55)は「高い技術を要する構造は、日本一にとどまらず世界一」と評し、刎橋の復活を訴え、ロープ模型の展示を行うことになった。

 模型は、黄色とオレンジ色のロープ計約800メートルを使い、扇状の橋を再現。両端をそれぞれ約10トンの重りで支えている。27日はオープニングセレモニーが開かれ、関係者らが右岸側からロープを引くと、峡谷にカーテンが掛かるように左右対称の橋が出現した。黒部市の堀内康男市長は「将来は本物の橋が架かるよう、ロープの橋を眺めながらみんなで大きな夢を持ちたい」とした。

写真=元の架橋場所にロープで再現された「愛本刎橋」(富山県黒部市で)

(2012年10月28日15時51分 読売新聞)

日本三奇橋「愛本刎橋」復元しよう…研究者が呼びかけ

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20121001-OYT8T00487.htm

写真=実物の二分の一の大きさに作られた愛本刎橋の模型の前で説明する上野教授(黒部市歴史民俗資料館で)


 350年前に黒部川に架橋され、明治中期まで残っていた日本三奇橋の一つとされる「愛本刎橋(あいもとはねばし)」を研究している職芸学院(富山市)の上野幸夫教授(55)が9月29日、富山県黒部市宇奈月町下立の市歴史民俗資料館で講演し、地元住民ら約50人が聴講した。上野氏は「橋の構造美は天下一で、世界に誇れる江戸時代の優れた技術」と語り、復元を呼びかけた。

 上野氏によると、愛本刎橋は寛文2年(1662年)、加賀藩5代藩主前田綱紀の命で現在の黒部市の愛本峡に架けられた。川の氾濫や激流で流されないよう橋脚をなくした独特の構造で、橋台を両岸の急傾斜の深さ約11メートルの地中に埋め込み、てこの原理で長さ63・5メートルの橋を支えていたという。

 架橋当時の古文書や絵図、明治時代の橋の写真は残っており、上野氏によると、和算を応用して左右対称に寸分狂わない設計がされている。「世界的にも算術が進んでいた当時の日本でも、英知を結集させて計算しつくし、不可能を可能にしたのだろう」と推察する。

 橋は純木造のため腐食しやすく計8回架け替えられたが、明治24年(1891年)以降は異なる形状となり、昭和47年(1972年)には約65メートル下流に新しい橋が出来た。

 上野氏によると、最近、岸に残った柱脚の跡も見つかり、正確な橋の復元が可能になったという。上野氏は「構造の緻密さでは全国的にも類を見ない。予算などの課題もあるが、貴重な史跡として地元から声を上げてほしい」と訴えた。


(2012年10月1日 読売新聞)

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