歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

「紳士服のナゴヤ」が閉店セール商法で大儲けしたことで泥沼にはまりだした名古屋城の天守閣木造再建

人間はいつの時代もなりふりかまわないと、どんなに恥ずかしいとわかっていてもやってしまいがちです。

恥ずかしいけど、きっと効果があったんだろうと思われる商法に「紳士服チェーンの閉店セール」があります。

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イラストやさんより

 

閉店するから、商品を投げ売りするよと消費者に誤認させて、お客を勧誘するものです。

 

「閉店セール商法」がまさかまさか、国の特別史跡名古屋城で行われたのです。

 

 で、「最後の名古屋城天守閣」は、大いに感動と感謝のうずを巻き起こし、GWには開城3時間も前から並ぶ人がいるなど、大賑わい。前半の「4月28~30日の入場者は約5万人で、過去5年で最多」(中日新聞)、後半も「前年に比べて1・6倍」(読売新聞より)もの動員を果たして、ポケットがウハウハの名古屋市。

 ところが、「閉店する」理由だった天守台石垣の調査について、市が文化庁へ許可申請をしていなかったことも判明しました。文化庁が申請を拒否した、ならわかりますよ。市が申請自体の準備をしていないんです。

 ふつう「閉店セール商法」では、いちおう数日か1週間くらいは棚卸ししたり、商品の入れかえをしたり、店内の内装を変えたりしていたはずです。

 しかし、名古屋市の場合は、そういうことをせずに、なんとただ閉めるだけ。(中の掃除くらいはしているかもしれませんね)

 河村名古屋市長は「きちっとやっていけば間に合う」とスケジュールには問題ないと会見で強調していますが、その隣にいる市役所の担当者が「私どもの取りまとめ作業が手間取っている」(朝日新聞より)と答えています。もう、きちっとやってないでしょ。天守閣を閉めて不要になった警備員やお土産屋さんの売店の人たちを動員して、取りまとめ作業に集中するということでしょうかね?

 この様子だと、しばらくすると、現天守閣の解体前にまたオープンすることになりそうですね。「閉店セール商法」のお約束のパターンです。

 「新装開店」「お土産3割引セール」みたいなのぼりをたてるのかな。

 今回の閉場で、感動していた人がたくさんいますけど、そのときはその人達は「紳士服のナゴヤ」に騙された!って怒るでしょうね。

 市役所が安易な金儲けの手をとると、信用なくすの早いんじゃないですかね?くわばらくわばら。

 

以下は読売新聞から引用

名古屋市が木造復元に向けて7日から入場を禁止した名古屋城天守閣。大型連休中は「上り納め」で足を運んだ市民や観光客らで混雑し、最終日となった6日には戦後の復興のシンボルへの感謝として、ボランティアらが天守閣の周辺を清掃した。ただ、入場禁止の理由としてきた天守閣の地階(穴蔵)の石垣調査は、始まる見通しが立たないままだ。

 市によると、大型連休(4月28日~5月6日)中の入場者は17万2301人で、前年同期の約1・6倍に上った。4日と5日は、それぞれ3万人以上が訪れたという。

 6日には開門の3時間半前から待つ人を先頭に列ができた。午後6時過ぎ、入り口に鍵がかけられると、集まった人たちから拍手が起きた。

(略)

 一方、市は入場禁止にする理由として、「復元事業に伴う調査及び工事」をホームページなどで告知してきた。入場禁止後には、コンクリート製の現天守閣が載る天守台の石垣(国の特別史跡)の一部である穴蔵の調査を行う予定だった。

 しかし、名古屋城総合事務所によると、今年1月から始めた穴蔵の測量調査の結果の取りまとめに時間がかかっている。そのため、測量データなどを示し、穴蔵を調査する場所や方法について意見を聞くための、有識者会議「石垣部会」の開催日程も固まらない状況が続き、7日時点で穴蔵調査が始まる見込みは立っていないという。

 市の調査計画がこのまま遅れると、今後、天守閣への入場を禁止にした時期や根拠が適切だったかが議論になる可能性もある。

 

 

以下は朝日新聞より引用

 

名古屋市は、名古屋城天守台石垣の詳細調査に必要な文化庁への現状変更許可の申請を、4月までにできなかったと明らかにした。7日に始まった現天守への入場禁止はこの調査をするためだが、許可がないため調査を始められない状況だ。

 詳細調査は天守台の石を取り外す作業などがあり、観光客の入場を禁止する必要がある。市は当初、昨年11月の調査開始を予定していたが、5月への延期を昨年12月に発表していた。

 ところが、調査開始はいまだに見通せない状況だ。文化庁への許可申請は、市の有識者会議・石垣部会に諮らなければならないが、目標としていた4月に開けなかったという。

 1日の河村たかし市長の記者会見に同席した市の担当者は「どの石の調査をするか定めてから部会に諮る必要があるが、私どもの取りまとめ作業が手間取っている」と理由を説明。「早急に調査できるように調整している」と述べた。

 詳細調査は、市が2022年末の完成を目指す天守木造化を前に、天守台石垣の現状を把握することが目的だ。河村氏は会見で「きちっとやっていけば間に合う」と述べ、「22年末完成」の工期に影響はないとの認識を示した。(関謙次)

 

 

 

 

お客様閉店です。今ここから始まる新創開店

お客様閉店です。今ここから始まる新創開店

 

 

平成最末期になってまさかの「なんちゃって天守閣」を建造する尼ヶ崎市。イタい状況を覆すたった一つの方法

「私財10億円を投じて“幻の城”尼崎城を再建! 決断した地元名士の地元愛」

と題して、朝日新聞のアエラが、歴史的に明らかに間違っている城の天守閣を創造することを絶賛して、専門家から批判を浴びています。

dot.asahi.com

 

アエラの記事はこんな感じ。  

 

 阪神電鉄尼崎駅から南東に歩いて約5分。川沿いにある公園で、着々と建設が進むのが「尼崎城」だ。 「尼崎城を建てて、市に寄付したい」

 2015年、ある人物の申し出をきっかけに、尼崎城再建計画は動き出した。尼崎城は、約400年前の江戸時代初期に築かれ、「大坂の西の守り」を担った名城だが、1873(明治6)年の廃城令を受けて天守や櫓(やぐら)、石垣などが取り壊され、全国的にも珍しく地上から完全に姿を消した“幻の城”でもある。 (略)

 そんな尼崎城の再建を申し出たのが、尼崎市で家電販売店の旧ミドリ電化(現エディオン)を創業した安保詮(あぼ・あきら)氏だ。「お世話になった尼崎に恩返しがしたい」という思いから、天守の復元を尼崎市に打診。建設費用は実に10億円以上。それをすべて安保氏が負担するという、願ってもない申し出だった。城の跡地は国史跡に指定されておらず、文化庁の規制がかからないという事情もあり、市が城址公園の整備を担うことで、建設計画はスムーズに進んだ。

 今回再建されるのは、4重の天守と2重の付けやぐら。17年12月から、かつての場所からは約300メートル西の公園で、左右反転させる形で建設中だ。

 

 

場所も違うし、なぜか左右反転させるというあえて偽物を造るという徹底さ。

これに対して、専門家から当然のように批判がでています。

と連続ツイートで指摘。

この指摘に対して、「住民の心のためならいいのでは」という容認の意見も投げかけられています。

これに、千田教授がリプで反論します。

世間一般はわかりませんが、このリプの流れでは当然ながら、尼ヶ崎市への批判的な意見のツイートが多くなっています。

 上のように、企業(エディオンやパナソニック)の宣伝になるからいけないという意見もでています。

 しかしながら、金持ちのお金だから、企業の宣伝になるからダメなのだという問題ではないでしょう。

 多額の寄付金をもとに安易に、将来、「昭和どころか平成も終わるというのに、尼ヶ崎市ってバカだね」と全国の人から笑われる可能性がある偽物の天守閣を嬉々としてつくってしまう。

 そうした尼ヶ崎市の見識のなさが最大の問題なのではないでしょうか。    

 元の記事の引用を続けます。

 

「駅からお城を見た時に、街を守っているように見えるような雰囲気を大切にしました」(市の担当者) (略)

 大気汚染や地盤沈下など、高度経済成長期には多くの公害問題が起こった尼崎市。事件が多く、「ガラが悪い」イメージもつきまとう。市が17年、市外居住者を対象に行ったインターネットのアンケート調査では、回答者516人のうち、尼崎のイメージを「良くない」と答えたのは30.6%。「良い」と回答した割合の倍以上だった。

 そういう経緯もあり、尼崎城にかかる期待は大きい。市の担当者は「『公害のまち』といわれ、閉塞感もあった尼崎からよい発信をしたい。皆さんに『建ってよかった』と思ってもらえるようなお城にしたい。『お城が勝手に建った』と思われないように、子どもたちへの周知も進める」と意気込む。

(略)  尼崎城から、新しい「アマ」のイメージを発信できるのか。完成が待ち遠しい。

 

 

 残念ながら、「尼ヶ崎」のあまりよくないイメージを守り、発信し続けるお城になることでしょう。

 これを払拭する方法は一つだけあります。 エディオンがあと1000億円ほど寄付して、内部にものすごい展示物を購入することです。もちろんまがいものではなく、本物の文化財やアートを。

 パリのルーブル美術館の前にあるピラミッド、正直ださいの極みじゃないですか。

 フランスにエジプトの建造物の偽物ですよ。

 でも、ルーブル美術館の中身が圧倒的に本物のため、だれも正面切って「ルーブルってださいよね。偽物の建物だし」とは言いません。言えません。

 尼ヶ崎も、京都国立博物館をこえる圧倒的な収蔵品で勝負しましょう。 

 尼ヶ崎が京都をこえる日が待ち遠しい。

 

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Photo by Paul Dufour on Unsplash

 

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書評・西俣総生『杉山城の時代』(角川選書)

 歴史好きから戦国時代を好きになり、そして城を巡るようになる。

はじめは石垣や天守が残っている松本城・姫路城・犬山城などを訪れますが、さらに、はまりだして、土づくりの城の魅力にとりつかれる人たちが増えています。

そうしたお城ファンの道を進んで行くと、必ず耳にするのが「杉山城問題」。

杉山城は埼玉県比企郡嵐山町にある国指定史跡であり、2017年の4月に発表された続・日本100名城にも選ばれたお城です。

典型的な土の城で、広大な城内を歩いてみると、横堀や土橋、屈曲した曲輪など、敵に「横矢をかける」ためのとても技巧的な工夫がこらされており、城ファンにとっては全国の城跡のなかでも、訪問したい一つでしょう。

その杉山城がなぜ「問題」と呼ばれるのか。「杉山城問題」という言葉を作った一人である城郭研究者の西俣総生さんの著書『杉山城の時代』(角川選書)が2017年10月、刊行されました。

 

 

埼玉の無名の山城がなぜ「問題」なのか

かつて、杉山城はその城作りの技術の高さから「小田原北条氏(後北条氏)」の16世紀中頃に作られた城とされてきました。

ところが、国の史跡指定に伴う、広範囲の発掘調査の結果、遺物や遺構などから、それより50年さかのぼる15世紀末~16世紀初頭の、関東で騒乱が起きていた扇谷・山内両上杉氏の時代のものと判明し、その後、発見された文書により、それが裏付けられたのです。

さらに言えば、城郭というよりも短期的な「砦」だったとみられているのです。

写真は杉山城の横堀(恵美撮影)

 

専門家VS在野の研究者の合戦の場 

杉山城問題というのは一言で言うと杉山城というお城が、いつ誰か築いたかという論争です。

その差はわずか50年。

それが、なぜ「杉山城論争」でなく、「問題」と呼ばれるようになったかというと、 お城の研究の担い手が、ガラッと変わることを決定付けた、研究史上の画期となったからです。

中世・戦国の城郭は、1980年代まで、大学などでの学術研究の対象とは、ほとんど考えられていませんでした。

それまで、お城を研究していたのは、在野の研究者たちで、自分たちで城跡を歩いて、「縄張り図」というものを描いてきました。 ご本人たちはもちろん「研究」と考えていましたが、端から見ると、「郷土歴史家」のような趣味の範疇と思われてきたのが現実でした。

それは、縄張り研究者である西脇氏ご本人が

 もともと縄張り研究は、民間学として発達してきたという経緯がある。日本においては、城郭は歴史学や考古学の研究対象に入ってこなかったからだ。

 歴史学では文献史料に登場する城に言及することはあっても、モノとしての城郭を扱うことはなかった。考古学は先史時代を主たる研究対象として発展してきたし、近世城郭は建築史の研究対象であったから中世・戦国期城郭はそれら分野の隙間に埋没して、学術研究の対象にはなってこなかったという実態がある。

 そうした中、各地の城跡を踏査してせっせと縄張り図を描いてきたのは、公的研究機関に属さない城マニアのような人達だった。 (35P)

 

と指摘するとおりです。

研究内容を、所属する組織によって優劣をつけることは権威主義だと批判することは簡単です。

しかし、現実問題として、学説が説得力を持つには、これまで学術の分野で長い研鑽の歴史を持つ文献史学や考古学のトレーニングを受けてきた大学など専門機関の研究者の関与が必要なことも、れっきとした事実です。

例えば、郷土歴史家が自分の家の蔵から重要な古文書を発見し、その内容について独自解釈の持論をあげたとしても、大学に所属する専門の研究者が、理論に基づいてそれと異なる説を展開したら、後者のほうが定説として受け入れられるでしょう。

平安時代の仏像を持っているお寺の住職が勝手に「うちは飛鳥時代に建立した寺なので、これも飛鳥時代の仏像です」と認定しなおすことは、たとえ1000年間守り抜いてきたからといって、みとめられません。

ところが、専門の研究者がいなかった城郭研究においては、縄張り研究者が「史料」(城跡)の「発見者」でもあり、「説を証明する人」でもあったのです。

もちろん、絶対に忘れてはいけないのは「歴史学の対象」でないと見捨てられていた各地の大切な歴史が込められた城跡を大小かかわらず記録を残し、評価した最大の殊勲者は彼ら縄張り研究者たちであることです。

こうした城研究の担い手と守り手を自負してきた縄張り研究者たちが、「関東一円に勢力を広げた戦国大名・小田原北条氏が技巧の粋を集めた究極の城」と、自信を持ってお墨付きを与えてきた杉山城の時代区分を、根底からひっくり返されたわけで、当事者である縄張り研究者たちは、学術成果を頑として認めない、という気持ちもわかります。

このままでは、学術と縄張り研究者の一部との間の溝がどんどん深くなると、懸念されたこともあるのでしょう。

縄張り研究者の視点から

本書は、発掘調査員の経験もある著者が「縄張り研究者」であるとの立ち位置を明確にした上で、とくに前半は杉山城問題の経緯について、非常に客観的に説明をしています。

縄張り研究者にみられがちな「オレが見たんだから間違いない」的な我田引水を控えており、著者がなんとか縄張り研究も「学術」へと昇華したいという思いが垣間見られ、たいへんに好感がもてます。

後半の「それでも杉山城は後北条氏時代」との主張についてはどうでしょうか。 周辺(比企地方)の城の縄張りから城のパーツ(横堀りや土橋など城を構成するもの)をデータベースにして、比較するという縄張り研究ならではの手法が非常に面白く、縄張り研究が学術の世界と並べる有効な切り口ではないかと、興味を持ちました。

これに基づく著者の指摘には驚きました。

 杉山城と比企地方の諸城とをあらためて比較してみよう。試みに、それぞれの城がどのパーツを使い、どのパーツを使っていないのか一覧にしてみた。

この比較は、パーツのバラエティをポイント制で表示したものなので、高得点の城が縄張りとして優れているという評価にはならない。

築城年代が下るほど高得点になるわけではないこともわかる。と同時に杉山城は比企地方の他の城に比べて特別に多彩なパーツを駆使しているとは言えないことも読み取れる。

築城にあたって、どのパーツとどのパーツを採用するかはケースバイケースが基本であったようだ。つまり築城者は前提となっている条件や与えられた任務、実際に城を築く地形などを考慮して最適なパーツの組み合わせをその都度選択するのである。

 杉山城は比企地方の他の城と比べた場合に格段に技巧を駆使した縄張りであるとは必ずしも言えない。筆者もこの城が「最高傑作」だとか「教科書的」だとは思わない。(249ー252ページから一部抜粋して引用)

実は高い築城技術はいらなかった杉山城

 

杉山城は、非常に規模が大きくて、城内を歩いてみるとその広さや技巧に圧倒されますが、それはあくまで「見た目」と「主観」。

因数分解すると、必ずしも高い技術が築城に必要だったとは限らないのです。

また、新しい城ほど、技巧やパーツが増えるとも限らない。城を造る人は、ニーズによってその城の形を決めた、という言われてみれば当たり前だけど、時代区分やパーツの進化ばかりを考えていると、見逃してしまう重要な指摘です。

筆者の核心的な指摘は続きます。

 このような縄張りを施した理由として、筆者が思い当たる合理的な説明は一つしかない。守備兵力の制約である。城域を広げると守備に必要な兵力が当然ふくらむ。したがって、守備兵力がかぎられているのなら城域もまたコンパクトにまとめなくてはならない。(257ページ)  

もしあなたが城の守将だとして、守備隊の弓・鉄炮装備率が1割か2割だったとする。つまり300人の守備隊を預かっているとしたら弓・鉄炮を合わせて40~50丁ぐらいしかないわけだ。土塁の上にずらりと並べて敵を迎え撃つなど、できるわけがない。どうするか。弓・鉄炮をできるだけ”効きの良い”場所に配置するのが、最も合理的効果的な使用法なのではあるまいか。(253ページ)

 杉山城の場合、全ての曲輪が横堀によって囲まれているから、攻城軍側は必然的に虎口の突破を狙ってくる。そこで侵入者が方向転換や堀を越えるような動作を余儀なくされる「足止めポイント」を設けておき、そこを狙撃すれば、敵の侵入を阻止できることになる。 (255ページ)

筆者は上記の指摘を杉山城の一部の構造について、「守備兵力の制約」との理由を説明しています

が、これこそ、杉山城がなぜあれだけ巨大で、あれほど複雑な細い道と曲がり角を作って、そして、曲輪内に門や櫓などの建物をつくらない・整地もしない短期的な砦的な城であった理由ではないかと、思いました。

「練りに練られた設計図に基づく究極の城」ではなく逆に「兵力に見合った城の選地に失敗した、もしくは選地が先にありきで、地形の制約でコンパクトにできず大きく作りすぎてしまい、そのため細かい技法を組み合わせて、少ない兵力で守りきれる城にした」ということになるのではないでしょうか。

山内上杉氏に見捨てられた前線司令官の城?

ここからは私見です。 史料で「椙山(杉山)の陣」と書かれるように、突如、両上杉氏の争奪戦になった杉山城周辺。

この標高40メートルほどの丘は重要な場所で、取り合いになったことでしょう(両上杉氏のどちらの城だったのかは両説ありますが、有力な山内上杉家としておきます)。

なによりも、この丘を押さえることが大切なので、先に丘に入った山内上杉家の家臣のAさんは、急ぎ陣城の構築をはじめます。

そこに何百人、何千人、もしくは何十人の兵が配備されるかはこの時点ではわかりませんが、とりあえず、丘を守れるように、その地形に合わせて、城の外側のラインを決めます。

地形を調べてみたところ、丘は三方向に尾根が伸びていて、それぞれの尾根にも城域を広げる必要がありました。南側の尾根はだらだらと中途半端になだらかで、かなりの面積を城域にしなくてはいけませんでした。 Aさんは、とりあえず外側の防御ラインを決めて、砦を造り始めます。

「ここでの滞在は、長くなりそうだな。曲輪も整地して、雨風をしのげる建物が欲しいな」と考え、大将の山内上杉氏(扇谷上杉氏なら重臣太田道灌とかかな?)のもとへ、下のような書状を送ります。

「扇谷のやつらに先駆けて杉山の丘をおさえました! 超重要な最前線になると思うので、砦にしようと思うのですが、けっこうこの丘が大きくて、 600人の兵を駐屯させる必要があります。 うちらの部隊は100人しかいないので、あと500人送ってください。 あと、ここらへんに木が全然生えていないので、わたしたちが寝るための建物をつくるため、 材木もたくさん送ってくださいね。 殿さまへ かしこ」 返信が来ました。

上杉の殿さまや太田氏ではなく、もっと下っ端のBさんからです。 Aさんは嫌な予感がしました。

「Aくん、おつかれ~ 殿さまも太田さんも、めっちゃ褒めてたよ!

さすがAくんはやるときはやるって でね、殿さまが『Aはやる男だし、一騎当千の部下がいる。こちらからも一騎当千の兵を200人を追加で送れば余裕じゃね?』って。

重臣のみなさんも『いやぁ、Aは殿からそれほど期待されていてうらやましいですな』だって、みんなAくんのことべた褒めだったよ。というわけで300人でなんとかして。

あとね、材木のことだけど。殿さまの愛人いるじゃん?彼女のためにお寺つくるらしくて、ないんだって。

かわりに殿さま直属の軍配者(参謀)がAくんのためにわざわざ天気を占ってくれて、『杉山付近はしばらく暖かく、雨もあまり降らないでしょう』とのこと。

だから建物なくても大丈夫だよ。

殿さまがくれた最高級の瀬戸焼(大釜1期)の壺にお酒入れて贈るから、みんなでそれを飲んで温まって。

ということで、がんばってね!

Bより、返信不要だよ。」

「うお~!」

とAさんは怒りくるい書状を破り捨てましたが、急いで建物を建てるための曲輪の整地工事をストップさせて、300人で守りきれるように、設計図を練り直しだしました。

以上、想像でした。

山内上杉氏も扇谷上杉氏も担ぎ上げられた人たちなので、自前の兵力をあまりもっていませんでした。

50年後の戦国武将北条氏となると、複数の国を直接支配して、動員力も財力も格段にアップしています。強敵・上杉(長尾)謙信と対峙する重要地点にある杉山城を使うとしたら、少人数で守れる工夫をこらすよりも大人数を入れるでしょうし、効果的な反撃ができる櫓などの建物をつくらないということはありえないのではないでしょうか。

筆者の結論とは、異なりますが、

あなたがもっとも理にかなっていると思う答えを選べば良いのではないか。われわれには杉山城を歩きながら人の営みについて思いを巡らす自由があるのだ。(274ページ)

と書いているように、杉山城についての思いが広がった読書体験でした。

(ただ、せっかく縄張り研究を学術に引き上げようとしているのに、最後の最後で「研究上の価値観などというものも、所詮は個人の経験によって形作られるものではなかろうか」(あとがき)や「城郭研究においてこの先、どのような進展があろうとも、杉山城についての公式見解が覆ることはないものと考えた方がよさそうだ」(272ページ)と議論による学問の向上を否定しているのは残念でした)

 

山城巡りをしている、しようと思っている人は、一読をオススメします。

 

岩波書店が権威主義なんて誰が言った!広辞苑で自費出版をもとに「先斗町」を改定した

岩波書店の広辞苑と言えば、改定に際しての誤りがあるとニュースになるくらい「ザ辞書」です。

 

 

http://www.sankei.com/life/news/180126/lif1801260003-n1.html

https://www.jiji.com/jc/article?k=2018012300889&g=soc

 

出版コードも001で、岩波書店の本も「知識人」を前面に出して、朝日新聞と並ぶ、左寄りの権威主義の権化のように考えられています。

 

そういう鼻につくイメージから、重箱の隅をつつくようなニュースにもなるのですが、 

今回の京都新聞のこのニュース

 

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20180123000035

 


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感動しました。

 

もう二度と岩波書店を権威主義なんて言いません(今週中は)

 

京都の先斗町のポントの語源についてですが、京都帝国大の教授で広辞苑の編纂者という権威の塊のようなポルトガル語説をなくして、

 

新たに、大阪の民間人が自費出版した本の説を採用したのです。


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博打のカルタの用語が、語源だとか。

ポルトガル語というロマンから、花街というリアルさへの天から地へとイメージはダウンしますね。

でも、それこれ歴史研究というものです。

 

新説の論理的、証拠性が高いことはもちろんですが、それでも、ときにそれよりも、重きを置かれるのが、誰が言ったかというのが権威主義。

 

それを乗り越えた岩波書店に、エールを送ります。

これから、岩波書店の本も教条的なものばかりでなく、わかりやすくよい本が出てくるのではないかと楽しみです。

 

 

土器川がなぜ?

 

追記

香川のテレビニュースでは、広辞苑に

讃岐うどん

豊島

土器川

が新規採用されたと喜んでいます。

http://www.ksb.co.jp/newsweb/index/8829

 

「豊島」や「土器川」など香川県の地名も初めて収録されました。「豊島」は瀬戸内国際芸術祭などで観光地としての知名度が高まったことで選ばれました。
 豊島自治連合会の三宅忠治会長は「これから観光で再生したい時に広辞苑に載ることはとてもありがたい」とコメントしています。

 一方、岡山県にゆかりのある高梁市の「吹屋」や「備中松山城」も新たに収録されました。

 

土器川はなんで選ばれたんでしょうか?

日本大百科全書(小学館)によりますと、

土器川
香川県中部を北流する川。延長33キロメートル。流域面積140平方キロメートル。讃岐山脈の最高峰竜王山(1060メートル)付近に源を発し、北西流して丸亀平野で瀬戸内海に流入する。至る所で伏流し、降雨時しか流れのみられない所がある。県内の主要河川では多数のダムが建設されるが、土器川流域にはない。下流部の丸亀平野には無数の溜池があり、満濃池は水源の一部を土器川からの導水に依存している。

 

 広辞苑 第七版(普通版)

 

広辞苑 第七版(普通版)

 

 

 

 

 

 

江戸時代の平均的武士の給料は額面1500万円、手取り500万円?

ビジネス雑誌でときどきみる「歴史特集」。

今月(2018年2月12月号)は、プレジデントが「仕事に役立つ「日本史」特集」をしています。
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この手の特集は、歴史好きには物足りないことが多くて、これまで買うこともなかったのですが、最近、雑誌読み放題(ドコモのDマガジン)に入ったので読んでみました。


18ー42Pは、Dマガジンでは読めませんでした。

特集で読めた最初の寄稿は、歴史を仕事に役立てるために、こんなに戦略的にテーマを決めようという内容。
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上のようなチャートを使ったりして、「好きなテーマを探せばいいのでは」と思いつつ、さすが仕事でもとをとろうというにはこれくらいしないといけないのかと感心していたところ、

終わり際に、「ただ、そうした「テーマ」を立てること自体が、実は最も難しいことかもしれない」と書いてあり、ずこーーーっ。やっぱり好きな歴史のテーマを追えばいいのではないんですかねと確信いたしました(笑)

さて、メモしたのは、笠谷和比古・国際日本文化研究センター名誉教授の「そうだったのか、武士の「給料」と「人事評価」」

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物価というのは、どうしても現代と比べたくなるし、比べないとほとんど理解の上で意味がないのですが、当然ながら、比較対象となる歴史時代によっても異なるし、比較先の現代も、バブル前と失われた20年、そして最近のアベノミクスだって、ぜんぜん物価の感覚が違うので、とにかく色々な研究者の物価の価値観は様々で、それ自体も面白いです。

それはともかく、笠谷さんは

江戸時代の物価として

1石=1両

ここはデフォですね。

1両は、

「なんとか1か月暮らせるといわれていました。いまよりはるかに質素な暮らしぶりですが、現代価値で10万円~20万円程です」

とします。

笠谷さんは、10万円台でなんとか現代人でもなんとか1か月暮らせると考えているということがわかります。

武士の平均的な給料は?と問われ、

旗本と御家人の差が、100石くらいなので、100石として、さらに税(65%も!)を引くと、手取りは35石となり、

「現代では年収500万円を少し超える計算となります」

とのことでした。

つまり、額面は1500万円もあるのに、手取りは500万円しかないと。江戸時代、きついですね。

どうみても、「江戸しぐさ」的な楽園ではありません。

あとは、江戸時代の実力登用の方法として、一代しか高給が約束されない8大将軍徳川吉宗の「足高制」をあげていました。

これも面白いですね。

吉宗は表の面と裏の面があるので、この制度の負の面も知りたくなりました。


PRESIDENT (プレジデント) 2018年2/12号(仕事に役立つ「日本史」入門)

PRESIDENT (プレジデント) 2018年2/12号(仕事に役立つ「日本史」入門)

仇討ちとしての#Metoo運動

著名な女性ブロガーはあちゅうさんが、電通勤務時代に先輩から受けたパワハラ・セクハラについて、Buzzfeedの取材陣、著名ライターよっぴー氏の応援を得て、実名で告発。

電通をやめて独立したばかりのその先輩氏はそれを認め、会社を事実上たたみ、現代版の仇討ちは、大団円で幕を閉じました。

 

勇気のある告発に対して恵美も、はあちゅうさんへ拍手を送り、深い感銘を覚えました。それで、この話は基本的には終わっていたのかと思っていました。

www.buzzfeed.com

と簡単にめでたしめでたしにならないのが、現実の「仇討ち」だったわけです。

 

忠臣蔵だって、赤穂浪士たちはみんな腹を切って死んでいるわけですから、それが名誉の死であろうとなかろうとも。

 

恵美は、日頃、歴史に対して、「人間の歴史は技術や仕組みなどを右肩上がりで進化させていっている。単純に『歴史は繰り返す』なんてことはない。しかし、人の心の進化の歩みはそれらに比べてかなりギャップがあり、『人間は同じことを繰り返す』」と考えています。

 

それで、ブログでも、衆院選と関ヶ原の戦いを比較したりしているのですが、今回は江戸前期の赤穂浪士討ち入り事件(忠臣蔵)となぞらえてみました。(以下、引用は時系列でないものもあります。いろいろな流れはこちらのまとめを参考にしました)

 

忠臣蔵討ち入り後の凱旋中に

 

見事に、討ち入りに成功し、侮辱(セクハラ)した吉良上野介(先輩K氏)の首を手に、師走のイルミネーションの下、民衆たちの喝采を浴びながら表参道を闊歩していた大石内蔵助(はあちゃう氏)を包丁で切りつけようとするものが次々に街頭から現れました。

kyoumoe.hatenablog.com

 

「すわ、吉良の仲間か!」とざわつきますが、

彼らは吉良とは関係なく、大石内蔵助が潜伏中に、遊郭をはじめ女遊びが激しすぎて女を寝取られた町人たち(童貞いじり被害者やそれに怒りを持つ賛同者)だったのです。

 

「大石内蔵助!お前が言うな!!!!」と口々に包丁(ブログやツイッター)を手に押し寄せる町人たちの前に、

赤穂浪士の一人、堀部安兵衛(よっぴー氏)が立ちはだかります。

「大義の前の小事じゃ!少しは黙れんのか!」

yoppymodel.hatenablog.com

 

赤穂浪士の参謀・原惣右衛門(BuzzFeedJapan編集長古田大輔氏)も一喝します。

「町人ふぜいが物事の善悪の大きさを判断するんでない!」

 

www.buzzfeed.com

 

正義の味方は謝れない

 

それに対して、町人たちも「なにお~!」とさらにいきり立ちます。

大石内蔵助は度量を見せて、「まあ落ち着きなさい。わたしが謝ればよかろう。すまん」と一度は頭を下げます。

 

が、町人が投げつけた卵が蔵之介の頭にバシッとあたると、蔵之介もキレて

「あやまるわけねぇだろ!武士の仇討ち(電通でのセクハラ)と、町人の寝取られ(不特定多数への童貞いじりツイート)のどっちが重いと思っているんだ。武士には仇討ちの権利があってお前たちにはないんだよ(表現の自由)。ばーか、ばーか」

 

 

と、さらに煽るものだから、クリスマスの江戸の街は大騒ぎ、となってしまいました。

 

赤穂浪士も、町人も、ほとほと言い争いに疲れたので、どうしたらいいかと、町奉行を呼ぶことにしました。

時空を越えてやってきたのが、大岡裁きで有名な大岡越前守(アメリカ在住の作家・渡辺由佳里氏)です。

 

cakes.mu

結論は、喧嘩両成敗。どっちもセクハラはダメだよ。

見事な大岡裁きです。

この名裁きに、赤穂浪士も町人も、握手をして抱き合って、大団円!

 

仇討ち連環の輪

 

とは、現実社会ではなりませんでした。

なにしろ、赤穂浪士(江戸前半)と大岡越前守(江戸中期)で時代が違うから、ではなく、

やっぱり仇討ちという私的リンチというものは、同じような仇討ちの連鎖にはまる宿命にあるのです。

 

なので、明治維新以降、私的な報復は禁止して、法治国家になり、すべての仇討ちの権利をとりあげて、裁判官が罪の重さを判断し、国が罰するものとしたわけです。

 

筋から言えば、はあちゅうさんは強制わいせつなどで警察などに刑事告発すべきでした。でも、今しても時効ですし、たしかにそもそもちゃんと捜査してくれるかといえば怪しいでしょう。

 

しかし、仇討ちという方法を捨てた社会を選んだ以上、BuzzFeedというマスコミであろうが、著名人であろうが、仇討ちの連鎖からは逃れられないという覚悟が必要だったのではないでしょか。

 

もちろん、赤穂浪士も仇討ち返しが来るであろうと覚悟はして、吉良家(電通方面)から襲撃された際の対策はとっていたかもしれません。

が、まさか凱旋のパレード中に、町人たちから攻撃が来るとは思ってもいなかったのかもしれません。

 

町人たちが武器(ブログやツイッター)を持ったというのが、江戸時代(20世紀)と現代(21世紀のSNS時代)との大きな違いなのかもしれません。

 

紙メディアが主流だった20世紀は、メディアがこうした個人の仇討ちを取り上げることはあまりありませんでしたが、21世紀になって、メディアがファクトを疑惑として取り上げるだけでなく、その善悪についてジャッジまでするようになっているように、感じます。

 

モリカケ疑惑なども疑惑として問題提示するだけでなく、有罪認定もメディアが勝手にしてしまうという。

 

セクハラやパワハラ、ブラック企業などの社会の問題に対して、法治国家が対応できていないというのは事実でしょう。裁判員制度の導入などで、変化をしようともしています。

 

しかし、人を(社会的に)ころしかねない法律の罰則を新たに設けるためには、慎重の上にも慎重にしないといけないことは、言うまでもありません。密室での事件は、被害者の告発に重きを起きすぎると冤罪が発生しかねない。難しい問題です。

 

 

弥勒菩薩の降臨が待たれる*ただし56億年後

 

「人を呪わば穴二つ」の教え通りの展開に、当初の勧善懲悪の時代劇を見終えてスッキリという感覚が吹っ飛びましたが、下のブログを見て、非常に納得しました。超ブラック企業勤務経験がウリのフミコフミオ氏です。

 

delete-all.hatenablog.com

 

告発そのものとその告発者は別に評価すべきという意見は確かに仰るとおりだが理想論すぎて全く意味がない。人間は過去の言動によって成立している。つまり人とその人の言動を完全に切り離すことは出来ないからだ。求められるのは寛容さじゃないか。過去の言動についての謝罪を受け入れる寛容さ。まあ、その謝罪そのものが「お前が言うな」になってしまうのも人の世の常なのだけどね。この世はまさに地獄だ。ちなみに僕は嫌いな人間しかいない地獄で働いていたので「人間的にはスゲエ嫌いだけど言ってることは評価する」処世術が身に付いてしまった。サンキュー地獄。

 

はあちゅうさんのような言動を「お前が言うな」ではなく、いいところはいいところとして、きちんと受け止められるには、フミコフミオ氏のように地獄を見ないと悟れないという現実。

 

社会をよくするためには、みんながもっと地獄をみないといけないとは、絶望的ですけど、真理かもしれません。

 

お釈迦様(ゴータマ・ブッダ)の次に現世におりてきてわたしたちを救ってくれる弥勒菩薩が来るまであと、56億7千万年。 それよりも、はやい人間の心の進化が待たれます。

 

弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。(

弥勒菩薩 - Wikipedia より)

 

 

 

 

 

古代中国にとってネコか杓子だった古代日本

2017年に刊行された古代の本の中では、内容的には最大の話題作といえるのではないか、と思っているのが、小林青樹『倭人の祭祀考古学』(新泉社)。

 

 

倭人の祭祀考古学

倭人の祭祀考古学

 

 

でも、話題になっていませんね笑

 

なぜ話題にならないかというと、話が壮大すぎて、みんなついていけないからと感じています。(そういう恵美も何度か目を通して、だんだんと見えてきたかもという程度なんですけど)

 

まず「倭人」の時間幅が広い。縄文時代から古代まで一気通貫。

エリア的に広い。日本列島をこえて東アジア全般。

しかも、東アジアが「中華帝国」だったらまだ頭のなかで繋げやすいのですが、北アジア、朝鮮半島と遼東半島あたりと、中国の辺境部との深いつながりが鍵を握るというようで、これまでの古代史を考える上で、想定していなかったレベルの議論なので

 

「うん、知らなくてもいいね」

 

ってスルーしちゃうレベルです。

 

東アジア、北アジアというと「シルクロード?」って目をキラキラさせたくなりますが、どうもそういうロマン街道とはちょっとずれているというか、なんというか。

 

古代史好きな人は「知らなくていいね」ですむけど、研究者はこの本をまともに受け止めたら、(おそらく)大の苦手であろう、外国語(この場合、中国語、朝鮮語、モンゴル語、ロシア語)あたりを精通していないといけなくなりそうな悪寒がするはずで、

 

これまた

 

「見なかったことにしよう」

 

って本を閉じて、積ん読の山に戻さざるをえないレベルなんではと忖度しています。

映画「水戸黄門」を見に行ったら、「スター・ウォーズ」だったような。

 

ともかく、まだ刊行されて半年しか経っていないので、どのように日本古代史の解明に影響してくるのかはわかりません。

 

要は、日本が大陸と無関係であったことなんて歴史上、ほぼない。

それも、その関係は日本側のほぼほぼ片思い。大陸側にマウントポジションをとれたなんて、近代以前には120%ないってことですね。

雄略天皇は天下人だったのか?

 

古墳時代にだれが一番すごかったかというと、色々あるでしょうけど、

雄略天皇はその一人であることは間違いないでしょう。

前方後円墳がヤマト的な支配権(もしくは影響下)にあったことの証拠となるとしたら、雄略天皇が「古墳時代のヤマトを最大図版に広げた」人であります。

 

この雄略天皇すっごーい、の史料として有名なのが、埼玉県の埼玉古墳群出土の国宝の鉄剣に刻まれた文章です。

 

今も昔も、さいたまは田舎…こんな田舎にまで雄略天皇の威光が届いていたんだねと評価されているわけですが。

 

kodakana.hatenablog.jp

不勉強にも、こちらのブログを読んで、歴史業界で通説となっている読み方が漢文の読み方的には間違っているのではないかとの指摘を読み、これからは東洋史学の研究者が読んでいる読み方に従おうと思った次第です。

これについては、みんな知らないというだけで、日本史の人が読んだものと、東洋史の人が読んだもので、どちらが正しいと言われれば、それは漢文なんだから、東洋史のほうだよね、ってほとんど異論はないのではないでしょうかね。

 

謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本 (中公文庫)

謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本 (中公文庫)

 

 

天下の広さは日本列島限定?もっと広い? 

 

問題は、このエントリーの後半に、ブログの著者の方が書かれた、独自の考え。

<天下を治むるを佐たすけんが為に、此の百練の利刀を作らしめ>

の「天下を治めていた」のは誰かというお話です。

結論から言うと、主語が「中国の皇帝が」であって、それには恵美も両手をあげて賛成した次第です。

 

天下人=日本列島の最大図版にした雄略天皇さんってすごいっす

という風に、あまり疑問もなく雄略天皇のことと思っていましたが、

雄略天皇がどのような技を使って、最大図版にしたかというときに、「腕一本で」みたいな北斗の拳の登場人物的なことはありえなく、

中国の皇帝(魏晋南北朝時代の南朝の宋)の威光を使っていることは間違いないわけです。

 

中国の皇帝>大王(雄略さまら倭王、古代の天皇)>王(地方の豪族)

 

さきたま古墳群の稲荷山古墳に眠られている(?)剣の主は、雄略天皇に仕えていた武人であり、武蔵王(むさしのきみ)と呼ばれていたかはわかりませんが、そんな感じの人です。

 

雄略天皇の版図拡大は、中国の皇帝の臣下(雄略大王)の一部隊による辺境の戦いにすぎないという構図なわけです。大義は、中国皇帝の名のもとの天下安寧。

 

天下を治める中国皇帝の重臣のそのまた重臣である「記の乎獲居臣」でござーい!

 

と、刀に刻ませたということのようです。」(記は紀氏と同じ「き」と読んだですかね、これまた興味深いです)

 

うーん、納得。きっとそうでしょう。

 

倭国の片思い政策 

 

こうして見ると、日本列島(倭の国)が基本的に、中国から相手にされていなかったことが浮かんできます。

中国の事情によって、はじめて倭国に連絡をしてくれるのです。一方通行です。日本列島は、東アジアの埼玉なのです。

 

古代において、日本の歴史がわかるのは、都合3回。中国が記録を残したからです。逆に言えば、中国が関心を持つとき以外に、日本列島でなにが起ころうと知ったこっちゃないのです。

日本で倭の大乱が起きたから、中国が記録に残したなんていうのは、順番が逆。

中国が見たときに、たまたま大乱が起きていたということになります。

 

 

1)ご存知、卑弥呼の時代

 倭の大乱のときですね。中国では三国志の時代。中国サイドとしては、ネコでも杓子でも、仲間が欲しかったのです。

 

2)今回の雄略天皇の時代

 倭の五王と呼ばれる時期です。中国は南北朝時代なので、南朝としては、ネコでも杓子でも、北朝につかれないように、仲間が欲しかったのです。

 

3)上から目線の聖徳太子

 中国の隋は、高句麗とガチバトルを展開していました。聖徳太子が倭王を「天子=天下人」と書いたお手紙を出したために、隋の皇帝さまは一瞬ガチギレしますが、秘書官あたりから「まぁまぁ、相手は埼玉から来た田舎者ですから。今は高句麗につかないようにネコでも杓子でもほしいときなので、笑って笑って」と言われたのです

 

こういう時以外は、中国は日本のことなんぞ関心がありません。

日本古代史的には、2)と3)の間にある、継体天皇の時代が、どう見ても、倭国最大の大乱であり、軍事クーデターなんですけど、この頃の日本は九州や朝鮮半島で、小競り合いをしていましたが、中国本体にとっては、埼玉と群馬の戦いなんて、記録に値しない、どうでもいいことだったのでしょう。

 

この3つの時期以外にも、日本側はしょっちゅう、お手紙を絶えず、中国皇帝に送っていたと思いますよ。でも、門前払いをくらっちゃうんでしょうね。

「朝鮮半島に出先機関あるから、そっちに行ってね」って。

 

 

ちなみに、埼玉をめっちゃディスってますけど、恵美は埼玉っ子です。

埼玉大好きです。愛しています。

でも、埼玉県内を移動する道路網が脆弱すぎて、いつもオコです。

「こら、埼玉県、東京(中国皇帝)のほうばっかり向いてんじゃないよ!」

 

 

 

 

謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本 (中公文庫)

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ワカタケル大王とその時代―埼玉稲荷山古墳

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倭人の祭祀考古学

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