歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

日朝史は曇り時々雨ふって地固まる。竪穴式横口石室とは、縦なのか横なのか?朝鮮なのか、九州なのか



竪穴式横口石室

 古墳時代と一言でいっても300年くらいあるので、色々変化があります。
 なかでも変化が劇的に変わるのは、最大の目的である「埋葬」施設。
 最初は、竪穴式石室。縦にあいた穴の底に、棺におさめた遺体を置きます。竪穴式石槨ともいいます。槨は室(部屋)よりは狭い空間という意味です。
 この穴は、埋めたら土をかけてふせぐので、(盗掘されないかぎりは)二度と開くことはありません。
 ところが、だんだんと時代がたつと、「こんな立派な墓を使ったんだから再利用しようよ」という機運が高まりました(たぶん)。それに、家族はあの世まで一緒という意識も芽生えたこともあるのでしょう。一度埋葬しても、蓋をあければまた使える横穴式石室が導入されるようになりました。棺をたくさん入れられるように空間が広く「室」となりました。
 何事にも、経過措置とか、移行期間というのがありまして、この両者のお墓の時期的に間にあるのが、「竪穴系横口石室」です。
 横穴ではなく横口というだけにちょっと狭かったりします。
 これは、西暦500年頃から九州で主に見られます。九州系の墓と言ったり、その原点は朝鮮半島なので渡来系の墓といったり、します。主に、朝日などの左系は渡来系にするようですね笑
 なぜ、こういう新しいスタイルの墓が、半島から入ってくるかというと、400年代は、倭(日本)の軍勢が海をわたって半島に行っているからです。秀吉の朝鮮出兵が、工人を連れてきて伊万里焼などを産んだように、古墳時代においても半島で出会った文化をひっぱってきたわけです。日本と朝鮮半島の歴史は、こういうことの繰り返しで、できています。曇り時々雷雨、その後雨ふって地固まるみたいな。
 
朝日新聞より

 「横・堅」折衷型の石室/豊岡で出土
2012年11月01日
 県教委は31日、豊岡市上佐野の上佐野1号墳で、古墳時代後期の横穴式石室と日本海沿岸に分布する竪穴系横口式石室の特徴を併せた折衷型の石室が見つかったと発表した。3日午後1時から現地説明会を開く。
 北近畿豊岡自動車道の建設工事に伴い、県教委が発掘調査していた。調査を委託されたまちづくり技術センターによると、古墳は円墳で直径約16メートル、高さ約3・4メートル。副葬品などから6世紀後半から7世紀初めに築かれたとみられる。
 遺体を納めた玄室や外部とつなぐ羨道(せん・どう)がある石室部分は全長7メートル。横穴式の特徴を持つ形態だ。しかし、横穴式では山の下側に向いて付けられる羨道が山の上側を向いていたり、玄室と羨道に約70センチの段差があったりと、竪穴系横口式の特徴も併せ持っていることが分かった。
 竪穴系横口式石室は朝鮮半島でみられる形態で、渡来人系の墓と考えられる。5世紀から北九州や日本海沿岸で造られたといい、但馬地方でも約30例が発見されている。豊岡市出土文化財管理センターの潮崎誠所長は「横穴式と竪穴系横口式の特徴を持つ折衷型石室の例は少なくとも但馬ではなく、非常に貴重な古墳」と話す。
 現地説明会の問い合わせは、まちづくり技術センター(079・437・5561)へ。(新井正之)

上佐野1号墳:折衷様式の石室出土 「横穴式」と「竪穴系横口式」 渡来人文化の影響?−−豊岡 /兵庫
毎日新聞 2012年11月01日 地方版
 ◇3日現地説明会 県立考古博物館は31日、古墳時代後期の円墳「上佐野(かみさの)1号墳」(豊岡市上佐野)から、「横穴式石室」と「竪穴系横口式石室」の両方の特徴を持つ折衷様式の特異な石室が見つかったと発表した。
 北近畿豊岡自動車道の建設用地にあたるため、県教委の委託で県まちづくり技術センターが調査している。
 円墳は直径16メートル。石室は全長7メートル。基本構造は、ひつぎを納める玄室の横に通路がある横穴式石室だった。しかし、入り口が山側を向いている▽入ってすぐ約70センチの段差がある−−など竪穴系横口式石室の特徴も兼ね備えていた。
 横穴式石室は古墳時代後期に近畿を中心に広がった。竪穴系横口式石室は竪穴式石室の発展型で、朝鮮半島からの渡来人が伝えたとされる。
 豊岡市出土文化財管理センターの潮崎誠所長(考古学)は「被葬者は規模から、いくつかの集落を治めた地域の有力者ではないか。中央の支配体制に組み込まれながらも、但馬に根付いた渡来人の文化の影響も受けた微妙な立場の人物だと思う」と話している。
 現地説明会は3日午後1時。問い合わせは県まちづくり技術センター(079・437・5561)。【皆木成実】

戦国NO1カブキもの前田慶次郎「花の慶次」の第一巻の戦いで、初めての戦国時代の出土品。【画像】花の慶次第二巻のあのポロリ笑シーン

花の慶次―雲のかなたに (第1巻) (Tokuma comics)

カブキものといえば、前田慶次郎!ですよねぇ。
たとえ、当時はおじの前田利家のほうが真のカブキものと思われていたとしても。

漫画の「花の慶次」の第一巻ででてくる前田利家佐々成政の戦い「末森城の戦い」があります。
あの石垣のうえから
「すけえもんもカブクかぁ」とか友情見せるやつです。(画は恥ずかしながらうちの本棚にある第二巻から)

ところが、末森城の戦いは、前田VS佐々の決戦地ではあったのですが、実は本来の前線は、もっとも南にある、下の記事にある松根城などの加賀・越中の国境線だったのです。ここは、源平合戦のときの倶利伽羅峠(くりからとうげ)のある地域。

末森城は、最前線からはちょっと離れた場所であったのですが、そこに佐々成政が奇襲をかけたのです。

末森城は、加賀と越中の国境というよりも、加賀と能登の国境といったほうが実態にそくしています。
とうじ、加賀と能登前田利家の領土ですから、佐々は末森城を落とすことで、前田の力を分断しようとしたのです。

ところが、前田利家がすばやく応援に入ったために、佐々は敗退したのです。実は史実では、前田慶次はこのとき能登にいたので、末森城へ救出にいったかは怪しいんですよね〜

ともかく、真の最前線だった加賀・越中国境の砦群が発掘調査されているというのは、戦国時代の戦いの実像が明らかになるので、楽しみですね。

北国新聞【11月2日02時22分更新】

松根城に戦国の器 金沢市調査で初出土


 金沢市北東部の富山県境域にある松根(まつね)城跡で行われた市の発掘調査で1日ま でに、戦国時代終わりごろの16世紀後半に製造されたとみられる土器が出土した。松根 城が16世紀後半には既に築造されていたことを裏付ける遺物で、同城跡からの出土品は 初めて。周辺一帯の「加越国境城郭群と古道」の国史跡指定を目指す動きに弾みがつきそ うだ。
 金沢市役所で1日に開かれた第2回加越国境城郭群と古道調査指導委員会で、市側が説 明した。市は10月から城跡の本丸「主郭(しゅかく)」や出入り口「虎口(こぐち)」 など計12カ所で発掘調査を行った。土器のかけらが数点出土し、ふちの形状などから1 6世紀後半に作られ、主に儀式などで使われていた「土師器(はじき)皿」であると判明 した。9世紀の灰釉(かいゆう)陶器や13〜14世紀の土師器皿、鉄くぎなども出土し た。

 松根城は、1584年から1年間、徳川家康方の佐々成政勢が出城とし、切山(きりや ま)城に構えた羽柴秀吉方の前田利家勢と対峙(たいじ)したとされる。源平の戦いでは 木曽義仲が拠点にしたとの伝承も残されている。

 しかし、いずれも文献の記録のみで、市が1979年に行った松根城「主郭」の調査で も文献を裏付ける遺物の出土はなかった。

 1日の調査指導委では、委員が出土品には城跡と古道・小原越(おはらごえ)の関係性 を示す証拠がないことから、古道の調査を継続するよう求めた。委員会前には発掘現場を 視察した。

 市は発掘調査を今月16日まで行うとともに、出土品についても金沢城や七尾城で発見 された同時代の土器と比較し、詳しい年代や粘土の種類などの特定に努める。来年度は小 原越を測量調査する。


発掘調査の現場を視察する委員=松根城跡

へえとおもったら下のボタンをクリックお願いします!励みになります。

にほんブログ村 歴史ブログへ