プチ衝撃!日本三名園兼六園の命名者が金沢藩主ではないのが定説だったなんて
三名園でも、水戸の偕楽園だけは「市民」のためという特異なものでした、当時としては。岡山の後楽園ももちろん藩主のため。
photo by arcreyes [-ratamahatta-]
当然、兼六園の名付け親は藩主、少なくとも金沢藩関係の人かと、思っていましたが(本当は考えたこともなかった)、実は東北の白河藩主の松平定信が名付け親というのが定説でした。
その点にちょっとビックリ。
これに対して、地元の研究者が、奈良の天理図書館で、それを覆す文書を見つけたそうです。
松平定信はただ揮毫(きごう)(書いただけ)だったということのようです。専門家は慎重な意見のようですが、まあ、妥当な気がしますね。
それにしても郷土愛ゆえですね。
この記事を載せる北国新聞のキャッチフレーズが「ふるさと不足に読んで効く」ですから、まあそうなんでしょう。しかし、地元紙で、地元の人のための新聞で、ふるさとが不足するって、ちょっと理詰めで考えると変なコピーです。
http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20121129102.htm
兼六園の名付け親が、奥州白河藩主・松平定信であるとの定説を覆す古文書が28日ま でに、奈良県の天理大附属天理図書館で確認された。
定信が晩年に記した「花月日記」で 、12代加賀藩主前田斉広(なりなが)から兼六園と揮(き)毫(ごう)するように依頼 され、「兼六」の意味を尋ねたとする記述があった。定信は揮毫しただけだった可能性も あり、石川県金沢城・兼六園管理事務所は「検証の必要がある」としている。
兼六園は斉広が定信に命名を依頼したとされ、定信は中国の「洛陽名園記」の文中から 採って、宏大(こうだい)・幽邃(ゆうすい)・人力(じんりょく)・蒼古(そうこ)・ 水泉(すいせん)・眺(ちょう)望(ぼう)の六勝を兼備するという意味で名付けたと伝 えられる。兼六園のパンフレットや公式サイトにも記されている。
この定説に疑問を抱き、定信がつけた花月日記に注目したのは、金沢市山科3丁目の渡 邊金雄さん(73)、小夜子さん(72)夫妻。
2人は1991(平成3)年、兼六園教養セミナーの受講をきっかけに、兼六園命名に 関する調査を20年続けている。天理図書館が99年から花月日記の解読を本格的に始め たことを知り、翻刻版を取り寄せ調べていた。
花月日記は定信が55歳から亡くなる前年の71歳までつづった「大作」で、長年作業 が続いていたが、今年10月に定信が兼六園と揮毫した1822(文政5)年9月分の翻 刻が発表された。
9月20日の日記には「加賀の太守より額字をこふ。兼六園とて、たけ三尺ニ横九尺也 」とあり、斉広から兼六園と揮毫するよう頼まれたと解釈できる。「兼六とハいかゞと、 とひにやりぬ」とも記され、家来に兼六の意味を聞きに行かせていることから、「定信が命名したとは考えにくい」と渡邊さんは結論付けた。翻刻を担当した天理図書館職員の岡嶌偉久子さんによると、定信の日記は清書されてお り、兼六の意味を尋ねに行かせた結果が書き加えられている。「のちにきけバ摂家のうち より名づけて」とあり、命名には前田家と姻戚関係にあった公家・五摂家の一つ鷹司(たかつかさ)家が関わったと渡邊さんは推測する。
渡邊さんによると、明治の庭園史家小沢圭次郎の「明治庭園記」には「斉広が竣工(しゅんこう)の折に、兼六という文字をとって園名とし、定信の揮毫を請うたものである」 という記述があるという。
県金沢城・兼六園管理事務所の田中宏明所長は史料を見ていないので分からないとし「 多角的な検証を経て、専門家に確認されるまでは慎重に対応したい」と話した。
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