歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

古代中国にとってネコか杓子だった古代日本

2017年に刊行された古代の本の中では、内容的には最大の話題作といえるのではないか、と思っているのが、小林青樹『倭人の祭祀考古学』(新泉社)。

 

 

倭人の祭祀考古学

倭人の祭祀考古学

 

 

でも、話題になっていませんね笑

 

なぜ話題にならないかというと、話が壮大すぎて、みんなついていけないからと感じています。(そういう恵美も何度か目を通して、だんだんと見えてきたかもという程度なんですけど)

 

まず「倭人」の時間幅が広い。縄文時代から古代まで一気通貫。

エリア的に広い。日本列島をこえて東アジア全般。

しかも、東アジアが「中華帝国」だったらまだ頭のなかで繋げやすいのですが、北アジア、朝鮮半島と遼東半島あたりと、中国の辺境部との深いつながりが鍵を握るというようで、これまでの古代史を考える上で、想定していなかったレベルの議論なので

 

「うん、知らなくてもいいね」

 

ってスルーしちゃうレベルです。

 

東アジア、北アジアというと「シルクロード?」って目をキラキラさせたくなりますが、どうもそういうロマン街道とはちょっとずれているというか、なんというか。

 

古代史好きな人は「知らなくていいね」ですむけど、研究者はこの本をまともに受け止めたら、(おそらく)大の苦手であろう、外国語(この場合、中国語、朝鮮語、モンゴル語、ロシア語)あたりを精通していないといけなくなりそうな悪寒がするはずで、

 

これまた

 

「見なかったことにしよう」

 

って本を閉じて、積ん読の山に戻さざるをえないレベルなんではと忖度しています。

映画「水戸黄門」を見に行ったら、「スター・ウォーズ」だったような。

 

ともかく、まだ刊行されて半年しか経っていないので、どのように日本古代史の解明に影響してくるのかはわかりません。

 

要は、日本が大陸と無関係であったことなんて歴史上、ほぼない。

それも、その関係は日本側のほぼほぼ片思い。大陸側にマウントポジションをとれたなんて、近代以前には120%ないってことですね。

雄略天皇は天下人だったのか?

 

古墳時代にだれが一番すごかったかというと、色々あるでしょうけど、

雄略天皇はその一人であることは間違いないでしょう。

前方後円墳がヤマト的な支配権(もしくは影響下)にあったことの証拠となるとしたら、雄略天皇が「古墳時代のヤマトを最大図版に広げた」人であります。

 

この雄略天皇すっごーい、の史料として有名なのが、埼玉県の埼玉古墳群出土の国宝の鉄剣に刻まれた文章です。

 

今も昔も、さいたまは田舎…こんな田舎にまで雄略天皇の威光が届いていたんだねと評価されているわけですが。

 

kodakana.hatenablog.jp

不勉強にも、こちらのブログを読んで、歴史業界で通説となっている読み方が漢文の読み方的には間違っているのではないかとの指摘を読み、これからは東洋史学の研究者が読んでいる読み方に従おうと思った次第です。

これについては、みんな知らないというだけで、日本史の人が読んだものと、東洋史の人が読んだもので、どちらが正しいと言われれば、それは漢文なんだから、東洋史のほうだよね、ってほとんど異論はないのではないでしょうかね。

 

謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本 (中公文庫)

謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本 (中公文庫)

 

 

天下の広さは日本列島限定?もっと広い? 

 

問題は、このエントリーの後半に、ブログの著者の方が書かれた、独自の考え。

<天下を治むるを佐たすけんが為に、此の百練の利刀を作らしめ>

の「天下を治めていた」のは誰かというお話です。

結論から言うと、主語が「中国の皇帝が」であって、それには恵美も両手をあげて賛成した次第です。

 

天下人=日本列島の最大図版にした雄略天皇さんってすごいっす

という風に、あまり疑問もなく雄略天皇のことと思っていましたが、

雄略天皇がどのような技を使って、最大図版にしたかというときに、「腕一本で」みたいな北斗の拳の登場人物的なことはありえなく、

中国の皇帝(魏晋南北朝時代の南朝の宋)の威光を使っていることは間違いないわけです。

 

中国の皇帝>大王(雄略さまら倭王、古代の天皇)>王(地方の豪族)

 

さきたま古墳群の稲荷山古墳に眠られている(?)剣の主は、雄略天皇に仕えていた武人であり、武蔵王(むさしのきみ)と呼ばれていたかはわかりませんが、そんな感じの人です。

 

雄略天皇の版図拡大は、中国の皇帝の臣下(雄略大王)の一部隊による辺境の戦いにすぎないという構図なわけです。大義は、中国皇帝の名のもとの天下安寧。

 

天下を治める中国皇帝の重臣のそのまた重臣である「記の乎獲居臣」でござーい!

 

と、刀に刻ませたということのようです。」(記は紀氏と同じ「き」と読んだですかね、これまた興味深いです)

 

うーん、納得。きっとそうでしょう。

 

倭国の片思い政策 

 

こうして見ると、日本列島(倭の国)が基本的に、中国から相手にされていなかったことが浮かんできます。

中国の事情によって、はじめて倭国に連絡をしてくれるのです。一方通行です。日本列島は、東アジアの埼玉なのです。

 

古代において、日本の歴史がわかるのは、都合3回。中国が記録を残したからです。逆に言えば、中国が関心を持つとき以外に、日本列島でなにが起ころうと知ったこっちゃないのです。

日本で倭の大乱が起きたから、中国が記録に残したなんていうのは、順番が逆。

中国が見たときに、たまたま大乱が起きていたということになります。

 

 

1)ご存知、卑弥呼の時代

 倭の大乱のときですね。中国では三国志の時代。中国サイドとしては、ネコでも杓子でも、仲間が欲しかったのです。

 

2)今回の雄略天皇の時代

 倭の五王と呼ばれる時期です。中国は南北朝時代なので、南朝としては、ネコでも杓子でも、北朝につかれないように、仲間が欲しかったのです。

 

3)上から目線の聖徳太子

 中国の隋は、高句麗とガチバトルを展開していました。聖徳太子が倭王を「天子=天下人」と書いたお手紙を出したために、隋の皇帝さまは一瞬ガチギレしますが、秘書官あたりから「まぁまぁ、相手は埼玉から来た田舎者ですから。今は高句麗につかないようにネコでも杓子でもほしいときなので、笑って笑って」と言われたのです

 

こういう時以外は、中国は日本のことなんぞ関心がありません。

日本古代史的には、2)と3)の間にある、継体天皇の時代が、どう見ても、倭国最大の大乱であり、軍事クーデターなんですけど、この頃の日本は九州や朝鮮半島で、小競り合いをしていましたが、中国本体にとっては、埼玉と群馬の戦いなんて、記録に値しない、どうでもいいことだったのでしょう。

 

この3つの時期以外にも、日本側はしょっちゅう、お手紙を絶えず、中国皇帝に送っていたと思いますよ。でも、門前払いをくらっちゃうんでしょうね。

「朝鮮半島に出先機関あるから、そっちに行ってね」って。

 

 

ちなみに、埼玉をめっちゃディスってますけど、恵美は埼玉っ子です。

埼玉大好きです。愛しています。

でも、埼玉県内を移動する道路網が脆弱すぎて、いつもオコです。

「こら、埼玉県、東京(中国皇帝)のほうばっかり向いてんじゃないよ!」

 

 

 

 

謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本 (中公文庫)

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ワカタケル大王とその時代―埼玉稲荷山古墳

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倭人の祭祀考古学

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