歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

古代の東北で元蝦夷たちが泣く泣く刻んだ馬の絵に秘められた歴史


覚えていますか?
今年の6月に、岩手県北上市の八幡遺跡で、900年前後の馬の絵を線で刻んだ土器が出土したというニュース。

恵美嘉樹は、市教委の担当者さまに電凸いたしまして、近いうちに現地説明会の資料をホームページにアップしてくれるとお約束いただいたのです。

先日、HPを見てみたら、ちゃんとPDF(下の写真はその一部)がアップされていました。感謝です!

で、それをざっと読んだのですが、予想以上に、想像力を刺激する面白い情報が満載でした。

遺跡の説明もさることながら、この遺跡の時代に東北でなにがあったのかの年表と、全国の古代の馬の絵を地図に落とした付録的な部分がビビっと来ました。

馬の絵はアテルイの降伏後か?

八幡遺跡の時代は8世紀から10世紀の範囲で、724年に朝廷の東北経営の拠点、多賀城が設置されて、その後、蝦夷の反乱と阿弖流為らの戦いを経て、蝦夷は降伏、869年の東北の貞観大地震、915年頃の十和田火山噴火までとなっています。

このうち、馬の絵が描かれた9世紀末〜10世紀初頭に、なにがあったかというと、阿弖流為坂上田村麻呂に降伏した802年以降ということになります。

資料には、古代の馬の絵のほかの7点についてもリストになっているのですが、以下の通りです。


馬が描かれた古代の土器


ここで分かるのは、東日本にしか見つかっていないということです。それも東北と北関東に集中しています。

時期不明のものが多いですが、時期が推定されているものは、みな阿弖流為の降伏後。
歴史的な事実として、このアフターアテルイ時代になにがあったのでしょうか?

これははっきりしていて、降伏した蝦夷たちは「俘囚(ふしゅう)」(いかにもひどい呼び名です)と呼ばれ、東北から強制移住させられたのです。

日本海の孤島に流された蝦夷たち

移住先は全国なのですが、当然、割と近い東日本が多くなります。
そうした俘囚の末裔が「故郷の馬」を懐かしんで書いたのが「4」〜「7」なのかもしれません。

ちなみに、移住先でも馬は飼っていたようで、例えば山口県にある見島という日本海の離島では、平安時代に突然「騎馬民族」が現れます。

当時の「日本」では見られない石積みの墓(ジーコンボ古墳群)に、馬乗りに特徴の上半身が発達した人骨や埋葬された馬具などが見つかったのです。
昔は「古墳時代に大陸から日本にやってきた騎馬民族?!」と勘違いされましたが、ずーっと後の平安時代のものと分かりました。

大きな地図で見る
でも、平安時代に、馬に乗って、積み石の墓を作る人たちって何ものなのかと、日本列島を見回すと、その頃には東北しかそういう文化がなかったのです。それで「ははあん、彼らは強制的に移住させられた蝦夷の末裔だ」と推定されるようになって今に至るわけです。


(見島ジーコンボ古墳群:山口県萩市のHPより)


(岩手の江釣子古墳群:北上観光コンベンション協会のHPより)

離島に追いやられた人たちは、生業がないので、逆に馬や食糧がきちんと支給されたようですが、いっぽう、「ヤマト人」の隣に移住させられた人たちは貧しい土地を与えられ、貧しくなり、コストのかかる馬を飼うことは早晩できなくなったのではないでしょうか?

そうした蝦夷たちが昔の栄光を思い出して、馬の絵を描いた!
なんて想像をしたいのです。

もちろん、阿弖流為たちが本拠とした岩手県にも、残った蝦夷たちがいるはずですが、彼らは敗者として貧しい暮らしを強いられたことでしょう。細々と家の中で使う土器にかつての栄光の日々をイメージする馬を描いたのかもしれません。

北の大地へ逃げ延びた蝦夷もいた?

微妙なのは、(1)〜(3)の青森西部、秋田北部なんですよね。この地域は11世紀頃までは「日本の外」=つまり海外でした。蝦夷たちのなかには、俘囚となることを潔しとせず、こっちへ「亡命」(国があったわけではないですが)した人たちも、かなりいたのではないでしょうか。

でも、日本海側は雪が深すぎて馬が飼えないんですよね。そのことが、朝廷が青森西部と秋田北部をなかなか編入しなかった理由の一つでもあるのですが。

なので、こっちに逃げた人たちも馬が恋しくて絵にして家に置いておく、ということもありえるんでは。

そう恵美嘉樹は考えたわけです。

  • 参考にした本

東北地方が縄文から戊辰戦争まで災害と戦争に立ち向かい乗り越えたことを描く東北通史

と、その書評


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東北へ侵攻を押し進め、そして終戦させたのが平安京遷都の桓武天皇について


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