誇り高いイギリス人はロンドンが植民地だったとは言わないようで
イギリスの金融街「シティ」の中心で、ローマ帝国の植民地時代のイギリスで、帝国の拠点の遺跡や遺物が大量に発掘されたと、イギリスのロンドン考古学博物館が2013年4月10日、発表しました。
オーパーツっぽい雰囲気(笑)の琥珀のお守りやタイルなどが並んでいますね。
ロンドンという名前もローマ人が付けた名前なんですよね。(あっ、タイトルは知り合いのイギリス人の言動です)
CNNは動画があります。
(略)
ロンドンが「ロンディニウム」と呼ばれていたローマ時代の日常生活の様子を知る貴重な手がかりになるとしている。
発掘調査は米通信社大手ブルームバーグの新社屋建設予定地で行われた。約半年がかりで3500トンあまりの土を手作業でかき分け、ローマ帝国が英国を支配していた西暦40年ごろから5世紀初頭にかけての工芸品など1万点あまりを掘り起こした。
出土したのは琥珀(こはく)のお守りや、騎士が伝説の生き物と戦う姿をかたどった革の工芸品のほか、木製の壁や床板、工場の排水を川に流すために使われた排水網の遺構など。さらには儀式のために井戸に投げ込まれた牛の頭蓋骨(ずがいこつ)や、硬貨、大量の陶磁器、筆記版、衣類や古文書まで残っていたという。
良好な状態で保存されていたのは、かつてこの場所に川が流れていたためと考えられ、発掘チームはこの地を「北のポンペイ」と呼んでいる。
同地では1954年にミトラ教寺院の遺跡が発掘され、1960年代に再建されていたが、今回はこれを解体して未発掘だった場所も発掘した。
ミトラ教寺院はブルームバーグの新社屋が完成した時点で再建され、今回の発掘で見つかった出土品も一般に展示される予定だという。
日本大百科全集の「ロンドン」より
ロンドンの歴史が確認されるのは、紀元後43年にローマ人がこの地にやってきてからであるが、それ以前にもケルト系の先住民がこの付近に住んでいたものと思われる。
ローマ人はロンディニウムLondiniumの町をつくり、テムズ川の渡河に適したこの地をブリタニアの道路網の中心とした。
61年にイケニ人の女王ボアディケアの反乱で一度破壊されたものの、ロンディニウムは急速に復興し、商業で大いに繁栄した。
5世紀の前半にローマ人が去り、ロンドンは後のアングロ・サクソン七王国の分裂時代には衰退した。
その後ロンドンは徐々に商港としての繁栄を取り戻したが、この町の重要性が再度高まるのは、10世紀にイングランドが統一されてからである。11世紀に入ってクヌード(大王、在位1016〜35)とエドワード(懺悔(ざんげ)王、在位1042〜66)が、旧来のロンドンの西方、ウェストミンスターに王宮や寺院を建てたことは、ロンドンの歴史に大きな影響を与えた。
以後ロンドンは、旧市街であるシティが商業の中心、ウェストミンスターが王宮の所在地で政治の中心という二重構造をもって発展していくことになる。