歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

太田猛彦『森林飽和』が話題のようなので読書メモを編集なしでさらしあげるっ!

  昨年出たNHK選書です。太田猛彦さんの『森林飽和』。これは衝撃的に面白かったです。

 線ひきまくり、抜き出しまくりだったので、かえって書評にできていませんでした。

 まとめるのも面倒なので、恥を忍んで、読書メモをそのまま公開いたします。(若干読みやすくするために私のコメントの部分だけは引用の前にもっていって見出しスタイルにしておきます)

 日経BPのインタビューで話題になって、アマゾンでは品切れ中(楽天ではあり)なようなので、中身を少しでも読みたい人はどうぞご覧ください。

 ちなみに、恵美嘉樹はこんな風にして読んだ本から部分部分を抜き出して、それにつっこみとか入れて、ハードディスク(最近はエバーノート)に保存しております。

 ちなみに×2、「GQ」は「いい問題提起=グッドクエスチョン」、「GJ」は「おもしれ〜、グッドジョブ」の意味です。
 こうやって見ると、やっぱり恥ずかしいなあ。。。 

 

昨今、砂浜がなくなる現象があるが、原因は海ではなく、山にあったんや!

天橋立三保の松原など、一見して天然林と思われる海岸林も実際は人工林である。しかも代表的な海岸林は激しい飛砂害を防止するために江戸時代に苦労して作られ、
33p

砂浜の砂は海から打ち上げられたものである。その砂の一部には海岸や海底の岩石が破砕され、細かい粒になったものも混じるが、大半は山地から流れ出した土砂が河川を流れるうちに細粒化され、海に流出したものである。

かつて海岸地域の災害でもっとも深刻だったが飛砂害であり、海岸林の大半はこれを防ぐために先人が苦労して造成したものである。
37p

【追記】
 奇跡の一本松で知られる東日本大震災高田松原岩手県陸前高田市)もこのときにできたものです。
 ハザードラボで連載している「ハザード今昔」で、奇跡の一本松の歴史を調べたのも、この本を読んだのがきっかけです。

(ちなみに最新回は「富士山噴火〜平安時代編〜」です)


ここが重要。GQ

現代の日本人の大半が暮らす沖積平野は、約六千年前に気温のピークを迎えた暖かい時代(「縄文海進」といわれる、海がもっとも内陸まで侵入した時代)のあと、山地からの土砂の堆積によってできた新しい地形である。その上を流れる沖積河川は、海岸に近づくと勾配がきわめて緩やかになるため流速が衰え、砂の運搬能力も落ちる。そのため河川は蛇行し、自然堤防や三角州を形成する。
飛砂の多い地域では海から上陸した砂によって砂丘が形成され、海岸の近くが微高地になる。したがって、内陸側のほうがかえって地盤が低くなる。
内陸側の低地は水が停滞する後背湿地となり、ときには湖沼が発達する。
しかし、現代は飛砂も河口閉塞も深刻ではない。
38p

 【追記】
 現代の自然災害をあげてというと、大雨、台風、地震津波・・・。そこに飛砂が入ることはほとんどないと思います。
 しかし、わずか100年前までは、海岸部では日常的に最大の脅威は飛砂だったのです。
 今は、同じ飛砂でも中国からのPM2・5や黄砂、そして粒子が飛ぶということでは花粉にとってかわられましたが。
 


第二章 はげ山だらけの日本―「里山」の原風景

へえ

岩石が細かく砕かれ、砂になる課程を『風化』という。花崗岩類は他の岩石と異なり、独特の風化様式を示す。
花崗岩は「深層風化」と呼ばれる特殊な風化様式によって地中深くまで風化してしまう場合が多く、しかも岩石がいきなり砂(真砂土という)になる。
地表を覆う落ち葉や下草が取り払われると降雨によって容易に浸食され、はげ山になってしまう。


土壌が貧弱で他の樹木が生育できない荒れ地や砂地でも、マツは良く育つ。
マツしか育たないほど貧弱な植生でったことがわかる。

里山ブームの盲点! 結論GJJJJJJJJJJJ!!!

「かつての里山には持続可能で豊かな森が広がっていた。・・・」と信じている方がいらっしゃるのではないだろうか。しかし、・・・そのような草山をふくめて、かつての里山は「はげ山」か、ほとんどはげ山同様の痩せた森林―灌木がほとんどで、高木ではマツのみが目立つ―が一般的であった。少なくとも江戸時代中期から昭和時代前期に書けて、私たちの先祖は鬱蒼とした森をほとんど目にすることなく暮らしていたのである。
江戸時代に産まれた村人が見渡す山のほとんどは、現在の発展途上国で広く見られるような荒れ果てた山か、劣化した森、そして草地であった。この事実を実感として把握しない限り、日本の山地・森林が今極めて豊かであることや、国土環境が変貌し続けていることを正確に理解することは出来ないと思われる。
49p

石油以前、人のエネルギーは樹木さん!へえ

農業もいわゆる里地・里山システムのもとで営まれており、稲作ばかりか家畜の飼育も里山農用林に支えられていた。

生産の中心である水田は最初、台地や丘陵地、低山地帯の裾野の谷地田あるいは谷津田と呼ばれる水の得やすい場所ではじまり、次第に小河川沿いの平地に拡大していった。(現在の水田が広がる大河川の沖積平野が本格的に開発されるのは中世から近世にかけて)
51p

田畑の肥料としての刈敷の草や灌木の若芽など(まとめて緑肥と呼ばれる)
なお刈敷とは、落ち葉だけでは足りず、青草や若葉、若芽なども肥料として田畑に投入するもので、イネなどの収量を増やすためには不可欠な肥料である。
52p

魚や海藻は食糧としてよりも金肥として農業に用いることの方が重要だった。更に、都市(繁盛の地)は何かと便利な上、上質な肥料としての人糞尿(不浄)が得られる場所としても重要で、都市近郊農村の方が豊かであるというのである。
58p

だからお留めの山があったんだ!!!!

里山とは荒れ地である

江戸時代は”山地荒廃の時代”だったのである。
59p

森林が衰退・劣化してゆく状況の中で、森がなければ農業も生活そのものも成り立たない。そのため人々は森を減らさない努力と森を作る努力の両方を行ってきた。
森を減らさない努力、すなわち森を持続的に利用する努力は『入会地』の利用を制限することであった。

入会の制度が成立したのは南北朝時代から室町時代あたり(十四世紀前半−十六世紀後半)で、これはこの頃から森の利用が窮屈になり始めたことを物語っている。
61p

本州中央部の里山で考えると、なぜコナラやクヌギが選択されているのか。第一は成長が早いことである。
第三は、伐採跡地に仕立てるのであるから、明るい場所を好む樹種でなくてはならない、などが考えられる。
62p

クヌギやコナラにも欠点がある。これらは土壌が極端に痩せてくると成長しないのである。従って、元々の地質条件が悪く、かつ森林の利用が過剰で土壌が痩せてしまった地域では適当な樹種が限られてくる。そういうところで生育可能なのがアカマツである。
痩せた土地、乾燥した土地で生き残れる、ほとんど唯一の高木といえるかも知れない。
64p

三内丸山のはじまりにあてはめるとぴったりそうなシチュエーションだ。

里山生態系は荒れ地生態系

一次遷移の初期には出現している植物が少ないため、光を豊富に利用することが出来る。従って、豊富な光を利用して光合成を行う種(遷移初期種、陽樹ふくむ)が繁栄する。これらはパイオニア種とも呼ばれる。
65p

GJJJJJJJJJJJJJJJJJJJJ

多用な生態系がモザイク状に配置されている里地・里山システムは全体として複合生態系をなし、もっとも優れた生態系多様性を示す物としてその価値が認められ、維持・保全が推奨されている。
かつての里地・里山システムはそのすべてが持続可能な社会のお手本であったかのような錯覚が、国民の間に産まれている。
67p

第3章 森はどう破壊されたか―収奪の日本史

ふーむ

たとえば奈良盆地では時代と共に集落の数が増すが、古墳時代前期になるといくつかの集落を統合した政治権力の中枢が現れ、集落数はむしろ減少するという。するとその組織力によって小河川の沖積平野まで開発が進み、更に人口も増え、木造の建物も建てられ、里山に対する利用圧も高まる。
71p

マツは日本人好みの木と言われ、、、福井県鳥浜貝塚遺跡(6500年前から5000年前)、、などの縄文時代の遺跡からは人々がマツを用いた痕跡は出てこないという。
大阪府の泉北丘陵では古代から窯業がさかんであったが、その跡地(陶邑窯跡群)の調査で見つかった、当時使われていた木炭の調査から、年代の古い窯の木炭はほとんどがカシなどの広葉樹でしめられていたが、6世紀後半からアカマツが増え始め、7世紀後半になるとほとんど全部がアカマツに変わってしまうという。これらから只木良也は、6世紀以降には周辺の照葉樹林が刈り荒らされて、次第に松林に変わってきたと考えるべきであろうと結論づけている。
74p

地産地消が消えた類例

江戸時代になると全国的に需要が増加したが、一方で海、陸の両方で流通業が発達したため、晴天日数が多いなどの理由で効率的な製塩が行え、かつ流通網の発達した瀬戸内海沿岸での製塩がさかんになった。そのため、ほかの地域では価格的に引き合わなくなり、次第に衰退していった。有岡の著書によれば、播磨、、、、十州塩田と呼ばれ、各藩では競って塩浜を整備した。その生産量は一七六〇年ごろには全国の生産量の実に九割を占めていたほどである。
87p

塩木山ばかりでなく農民の山まで酷使されれば山地荒廃は進む。このような森林の劣化・荒廃を目の当たりした著名な儒学者熊沢蕃山は、森林荒廃の理由の一つに製塩燃料の伐採を挙げている。
88p
産業の発達による森林の劣化・荒廃の第三の例として、窯業を挙げよう。
92p

製鉄以外の工業化。とにかく森はエネルギー源であるという大前提をもっともっと知る必要があるな。木=現在の石油とほぼイコール。

一五七〇年頃からの百年間は建設ラッシュで、全国的に木材の困窮を招き、材価は急騰した。その結果、大径木の採取地は九州南部から蝦夷地の一部にまで、それぞれの川筋に沿って広がった。タットマンはこれを「近世の略奪」と称している。危機を感じた江戸幕府や各藩はまもなく木材資源の確保に乗り出すことになる。
100p


窯の近辺に燃料が無くなると別の場所に移動したため、多くの窯跡が残されることになった。陶邑でも須恵器を焼かなくなったのは、五〇〇年間かけて燃料材を取り尽くしたためで、この時の燃料材の取り合いは『日本三代実録』に「陶山の薪争い」として記載されているほどである。
94p

ほう

過去二〇〇〇年間の日本の森林及び土地利用の変遷をグラフ化したものを示す。
95p

江戸の飢餓との関係もありそうだ。

江戸時代の中葉以降は、現在私たちが眺めているような豊かな森林は、国土の半分以下にまで減少していたことが分かる。やはり江戸時代は山地荒廃の時代なのである。
96p

十七世紀の後半には全国で土砂災害や水害、さらには干害が多発して人々は苦しんでいたと考えられる。
104p

十七世紀後半に始まった治山治水対策や森林管理体制は一定の成果を上げつつも森林の回復までには到底いたらなかった。。。。人口増加も十八世紀以降は急速に鈍り、さらに享保・天明飢饉を経て生産は減少し、世の中は乱れ、ついには人口さえも停滞・減少気味となった。
117p

へえ。江戸時代まで河川をすべてかこう現在のような連続型の堤防は存在しなかったんや!だから信玄堤、上杉堤、そうやね

信玄は御勅使川の当時の流路を変更し固定し、その流れを溶岩台地にぶつけることにより本流堤防への負担を軽くし、本流には霞堤方式の「信玄堤」を築いて洪水の氾濫を防いだ。霞堤とは、川に沿って所々で切断された堤防をつくり、切断部を補うように別の短い堤を河川の外側(人家のある側)から斜めに下流方向へ伸ばして、切断部の下端につないだものである。こうした不連続な堤防を二重、三重につくることにより、洪水時に堤の間に水を氾濫させて、水位を下げることができる。
99p

治水三法の成立によって明治政府の国土保全政策が制度的に整い、河川事業では治水革命と呼ばれた「連続堤」(霞堤は不連続堤)の建設、山地・森林では内務省土木局にょって
123p

天井川は人工河川・・・

山地荒廃への対策

江戸時代の幕府や各藩が取り組んだ災害対策の基本は堤防の建設や浚渫、河川の付け替えなどの治水事業と森林の保全が二本柱であり、、、、しかし、このころになっても、治水事業は災害対策というよりも、舟運交通確保やさらなる灌漑用水建設に重点があることに注意する必要がある。

徐々に拡大されていったのが保護林政策である。
藩有林では許可制が一般的となったようである。
留山と留木の制度があった。留山の制度は所有のいかんにかかわらず山全体を立ち入り禁止や禁伐にするのが原則で、先の砂除林や水野目林が代表的な物である。
104p−106p

さらに十八世紀になると、、、、?石垣を築いたり(石垣留)
107p
山中に階段状の地形や石垣があっても、即、城跡とは限らない要注意だ。

これまでの考察により、このころになると飛砂は単なる自然現象ではなくなってきている可能性がある。

ところがこれまでの海岸林研究のどの文献を開いてみても、本書のように、飛砂害の原因の一つは河川上流(内陸)の森林の劣化であるとする解釈は見あたらない。
110p

私たちが見る天井川の大部分は十八世紀以降に形成された”人工”河川ということができる。
114p

へえ。土壌の意味かんがえたことなかった。

土壌は、いま定義した土(母材)に、地表の落葉や枯れ枝、動物の遺体などが微生物の作用で分解されたもの、すなわち腐植が加わって、その場所の気候や地形条件のもとで時間をかけて生成された物質で、腐植質に富むほど、養分豊かな土壌といわれる。
116p

江戸時代後期にようやく整い始めた海岸林も例外ではなく、松葉かきや枝葉の採取などで酷使され、また飛砂がやむこともなかったため、やはり衰退したようである。
結局、明治中期は日本で過去最も山地・森林が荒廃していた時期と推定される。
120p

そうか、この戦争末期の特殊事情がうんだ「景観」が、「江戸時代の里山は持続可能」という幻想をうんだのか

回復が緒につく

昭和時代に入ると森林伐採は森林鉄道の普及によって山奥深くに及び、、、さらに第2次世界大戦末期には、軍事費の圧迫を受けて疲弊した国家経済が木材収入に依存したこともあって木材需要が高まり、ふたたび過伐、乱伐が起こった。
第2次世界大戦後の国土の荒廃は明治時代初頭にも劣らぬ激しい物だった。
128p

国土の荒廃の影響は、関東地方に未曽有の大氾濫をもたらした1947(昭和22)年のキャスリーン台風に始まり、1950年代に繰り返し発生した水害や土砂災害となって現れた。
129p

GJJJJJJJJJJJJJJJJJJ!!!!!!!!!!!!!!!!!!

森林の急速な回復をもたらした決定的な要因は別のところにあった。それは、、、いわゆるエネルギー革命と肥料革命、、、。
地下資源の大量使用がある。エネルギーの分野において、薪炭から石炭・石油・天然ガスという化石燃料への転換は、
林業の衰退で木が育つ?
現在日本の森林は400年ぶりの豊かな緑に満ちているのである。

へええ

年配の人は子供の頃学校で「国土の三分の二は森林である」と教えられたはずである。その後、、、、実は今も「国土の三分の二は森林である」。これは考えてみればおかしなことだ。そのぶん「荒廃地」が森林と化したこと、「原野」が消滅したことが原因であり、このこを国民の大部分は知らないのである。
135p
138p

森林の炭素蓄積量はその土壌もふくめて増加も減少もしない。地球温暖化抑制と森林の光合成作用はまったく関係がないのである。
139p


間伐が行われなくなると形質のよい木材が生産できないだけでなく、樹冠が閉鎖して林内に光が入らず、したがって下草(林床植生)が成長せず、とくにヒノキの一斉林では地表が裸地

きょうはここまで〜
続きは本買って読んでくださいません。損はしませんよ

ちょっと引用大杉ですね、メモの部分を加筆していこうと思います。執筆段階の原稿アゲということで、ごゆるりと。。。