縄文時代から弥生時代にかけて東北をおそった天災。それをどう乗り越えたのか
きょうは震災の日。完全にいえることがない傷が少しでも癒えることを祈っています。
きのう紹介した東北の歴史についての本ですが、きのうはそのうち伊達政宗や白虎隊の話をピックアップしましたが、今回は引き続き、縄文〜弥生時代に東北を襲った災害についてまとめました。
東北─不屈の歴史をひもとく | ||||
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縄文の美を保存したのは天災
うつくしい漆塗りで有名な山形県の押出遺跡出土の木製品が、うつくしく残るのは、それを作った人たちを滅ぼした水害でした。
押出遺跡でこれほど良好な遺物が残っていたのは、この村が洪水か豪雨で水没し、そのまま水分の豊富な地中にパックされたからだ。縄文人の美的センスを現代に伝えたのは、皮肉にも彼らの居場所を奪った天災であった。
縄文時代の高台移住
縄文時代にも、津波や(逆に海退)によって、高台に移住したりとしていました。
里浜貝塚をつくる場所が北側の浜辺から約400メートル離れた南側の別の浜へ移るなど、二度の移動があったことが考古学調査でわかっていた。
島内の地層の浸食から、海が退くだけでなく、逆に大津波が押し寄せていた痕跡も見つけていた。
火山噴火を逆利用した三内丸山
三内丸山に人が住む前は原生林でした。巨木を切り開く人口と技術はまだ持っていませんでした。では、どうやって・・・。
どうやってこの安定社会を築いたのか。きっかけは(略)自然の大災害だった。
三内丸山遺跡に人が住むようになる約六千年前にも、十和田火山は噴火
大災害は多くの木々を枯らした。ところが、火山灰などによって木は枯れて荒れ地となった三内丸山の台地は、日光があたり、住居を建てる空間を整地しやすい格好の土地となった。
こうして、密林ではできないクリ栽培という「農業」を始めました。