二・二六事件「昭和天皇暗殺計画」証言の続報
二・二六事件で、殺されかけた侍従長鈴木貫太郎(のちに終戦時の首相)の奥さんが話した講演会?のテープ見つかるというニュースをきのう(2013年2月26日)の夜流していましたね。
「ひたいから血がどくどくでていた」
など、生々しい証言でしたが、「歴史をくつがえす」というものかどうか。
それよりも、先日エントリーした
で、元ネタ雑紙「マグナカルタ」が届きましたので、その続報をば。
ところで、このマグナカルタ300Pくらいあり、創刊号ということもあってか、執筆陣も豪華。月刊誌の争いに入れば、質的には戦えると思いますが、季刊誌なので、どうなることやら。
値段は980円とかなりがんばっていますので、ぜひ、新しい挑戦を応援するために、ブルジョアのみなさん、プレーボーイに思い出のある人(編集長がプレーボーイの伝説の編集長)創刊号買ってください。
今回取り上げるのは
新説・昭和史の真実 二・二六事件 いま明かす衝撃の新証言
ジャーナリスト 堤堯
事件はいまだ霧の中にある。生き残った将校から聞いたひと事が、ミッシングリンクを埋めてくれた
で始まります。ワクワク
堤さんは、腹を割って会話できるようになった生き残りの将校から衝撃の証言をえます。
「ここだけの話です」との約束だったので、文春の敏腕編集長でもありましたが、今まで伏せてきたそうです。自分の人生の残り少なくなってきたので、今明かすとのことです。
「約束が違うじゃないか」という声もあるかもしれませんが、素性を明らかにしてジャーナリストに話したということは、その将校さんも「よき、タイミングで明かして、歴史に残してくれ」という思いがあったのじゃないかなと推測しますが、賛否もあるでしょう。
ともかく、続けます。
事件はいまだ霧の中にある。資料のいずれにも削除・隠蔽の工作が窺えるからだ。
とりわけ真崎に絡む将星の名が消し去られている。
すなわち海軍大将加藤寛治であり、さらには伏見宮博恭だ。
加藤は、、、そのバックに元帥・東郷平八郎がいた。伏見宮は四親王家の筆頭で皇族だ。軍令部総長の要職にある。
つまるところ、二・二六事件の首謀者は、青年将校なんてレベルではなく、宮廷クーデターだったことをほのめかしているわけです。(ぶっちゃけていますが)
昭和天皇の弟で、明朗快活、スポーツ万能の秩父宮(成功していたら即位もしくは幼帝の摂政となっていた可能性が高い=事件で一番得をする人)の関与はなんとなく自明だったですが、さらに皇族内でも広がっていたのかもしれないですね。
しかも、佐賀出身者がなぜか多いのだとか。
長州閥にだまされて蜂起させられた「佐賀の乱」の江藤新平の復讐でしょうか。この点はさらっと触れられているだけですが恵美嘉樹はすごく気になりました。
で、例の証言を引用すると
「その時ですか(と言い淀み)、ここだけの話ですが、その時は陛下を弑(しい)し奉り、自決する手筈でした」
一瞬、この答えに驚いたが、一方で、「やはりそうだったのか」と得心した。
で、もしもクーデターが成功していたら、アメリカとの開戦ではなく、ソ連と戦っていたかもしれない、との「もしも」をあげています。
「あー、そっちのほうがよかった」という人も多いかも知れませんが、
どちらにせよ、軍部が政治を握っていたら戦争という選択肢は避けられなかったわけで。。。
ちなみに今号には、「武士の家計簿」の磯田道史さんが、くのいちはいたのか、について書いています。
歴史ファンはぜひこの雑紙を読んでください。