飛鳥のお隣の幻の「王都」は聖徳太子のパパの家。どうして万葉集の歌は報道されないのか?【奈良・橿原市・磐余】
=写真は毎日新聞
飛鳥の北東にある「磐余(いわれ)」地区は、じつは飛鳥と同じくらい重要な王宮があったエリアです。
というか、飛鳥(7世紀)の前の王都が磐余(6世紀後半)でした。
飛鳥というと、聖徳太子や大化の改新あたりが思い浮かびますが、磐余に王宮を作ったのは、聖徳太子のお父さんの用明天皇(〜587年)です。
磐余池のほとりに王宮を建てました。
その名も、「磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや)」
2011年に、ここにある人工池「磐余池」推定地での発掘で、大規模な堤(ダムにして池をつくったのですね)が見つかったことで「磐余池」の実在が確認されました。さらに堤の上には大型の建物がみつかり、「これが用明天皇の王宮?」と話題になりました。
その後も、橿原市による発掘が続いており、今年度は、堤の護岸施設っぽい石敷き(6世紀後半〜7世紀末)が見つかりました。
池の全体が石敷きだったかはわかりませんが、手前のほうは石敷きだったのかもしれませんね。
現説は9日午前9時から午後3時までです。
なお、各紙が「万葉集でおなじみの磐余池」と言っていますが、その歌はこれです。大津皇子というのは飛鳥時代後半の人物ですので、ずいぶんあとになっても、池は残っていたのでしょうね。
なお、大津皇子は壬申の乱で、天武天皇に敗北し、処刑されるわけですが、この堤の上で池を見ながらずばっとやられたようです。
百(もも)伝ふ 磐余の池に 泣く鴨を 今日(けふ)のみ見てや 雲隠りなむ
〜死を前にした私の目からは涙が何百筋も流れでて
腿を伝い、眼下の池へと流れていく
池に浮かぶ鴨たちの鳴き声はまるで鳴き声のようだ
私の死を嘆くものは、この鴨たちだけ
そのことを知り
私はあの世へいこう〜
(恵美嘉樹:超訳)
「国家反逆者の辞世の句」ですから、新聞もあまり磐余池の歌として内容を紹介しないのかもしれませんね〜
こちらはマンガで読む古事記↓
恒例のコメント集です。
市教委は「雨水や排水施設などの水の浸食から、堤を守るために石敷きが造られたのでは」としている。(毎日新聞)
京都教育大の和田萃(あつむ)名誉教授は「石敷きは宮の池の一部という可能性もあるのでは」と指摘している。(毎日新聞)
和田萃京都教育大名誉教授(古代史)は「近くにあったとされる聖徳太子の父、用明天皇の宮殿の庭池とも考えられる。謎だった宮殿の場所を捉えるきっかけになるかもしれない」としている。(共同通信)
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