群馬のナゾの石碑「多胡碑」近くに平安時代の市役所跡?【外国人特別移民都市タコ】
古代に字を刻んだ石碑というのは日本では非常に少ないのですが、
どういうわけか、群馬県の高崎市には上野三碑といって、3つも集中しています。
=多胡碑(高崎市HP)
なかでも、710年に多胡郡という新しい郡(市みたいなもの)を作りましたと
宣言する多胡碑が最上クラスの石碑です。
その多胡碑の最大のナゾはといえば、
タコと読むか、タゴと読むかですよね。(チガウチガウ)
なぜ、そこに立ったのかがナゾです。
で、今回、碑から800メートル離れたすぐそばに、多胡郡の役所の可能性がある遺構が見つかりました。
いってみれば
平安の大合併で生まれた新しい自治体「多胡市」の誕生を記念して、
多胡市役所に隣接する見晴らしのいい場所にドドンと建てました!
ということです。
うーん、平凡すぎる。。。
ちなみに、多胡とは、外国人がたくさん、という意味です。
朝鮮半島からの移民の都市だったのでしょう。
きっと榛名山の噴火後に、人口が激変するなどで、知識と技術をもつ渡来人集団を住まわせて開発させるという目的があったと思われます。
- 【号外も出た】群馬で古墳時代の甲を着たままの人物が火山灰に埋まっていた!日本初!【日本版ポンペイ】(歴史ニュースウォーカー2012年12月10日)
(略)
吉井・雑木味遺跡で、平安時代前期(九世紀前半)の基壇状遺構(建造物などの土台)が一部出土したことが二十三日、明らかになった。庶民は造成しないもので、郡衙(ぐんが)(郡役所)か、関連施設跡の可能性がある。遺構は国の特別史跡「多胡碑」から南西に約八百メートル。碑は郡衙近くに建立したとされ、建立場所が謎の碑をめぐる論議に一石を投じそうだ。(略)
多胡碑は七一一年、政府の命で多胡郡を設立した経緯を刻む。しかし、史料から現在地にあったとさかのぼれるのは中世ごろまで。研究者らは建立場所をめぐって長年論議し、碑は郡衙近くに建立されたとの説が有力だ。古代の建郡を刻んだ碑は国内で唯一で、多胡郡衙跡が出土すれば、県内の考古学史上で歴史的な発見となる。(略)
高崎市教委文化財保護課は基壇状遺構について「(多胡郡衙などかどうか)注意はしているが、一部分であり、即断はできない」と話している。
ちなみに先日刊行の「ひととき」でも恵美嘉樹が多胡碑について書いております。
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