歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

【戦国版テーマパーク?】じゅらくよ〜ん。楽しさが集まる場所、それが聚楽第!その石垣を発見【秀吉専用キャバクラ?】

「じゅらくよ〜ん」というのは、温泉のCMで、恵美嘉樹も小さいときこのフレーズだけは知っていました。なんだか分からないけど淫靡な雰囲気。。。

なので、「秀吉が作った聚楽第」と初めて聞いたとき、↓のようなイメージを浮かべてしまった、15の夜〜

関連記事-「飛田新地のルポを読んで驚き、キンドルで山崎朋子の「サンダカン八番娼館」を格安で買えて、また驚く」恵美と嘉樹の歴史ニュース&本ウォーキング

ライブでこのCMを見た記憶はなかったのですが、上のユーチューブを見ると、キャバレーのようなショーをする温泉宿グループのようですね。いま残っているホテルはあるんでしょうか。


それはともかく、この聚楽の元祖、本物の聚楽第の痕跡が京都市で見つかりました。京都府埋蔵文化財調査研究センターが今日(2012年12月21日)発表しました。

聚楽第をつくったのは、豊臣秀吉です。

1586年(天正14年)に、いにしえの平安京大内裏の跡地に着工し、翌年完成した。城郭型の屋敷です。

古代の内裏(天皇の居場所)に作ったという立地がかなりポイントなんでしょうね。

聚楽の語源は、「長生不老の楽しみを聚(あつ)むるもの」(『聚楽行幸記』)です。つまり「楽しいことが集まった場所」です。


でも、秀吉にとっては、それほど楽しくなかったようで、おいで後継者の豊臣秀次にあげちゃいました。
ところが、秀次が1595年に、謀反を起こす(という因縁をつけられ)”処刑”(自刃)。秀吉は怒り狂って聚楽第を徹底的に破壊したため、遺構は残っていないとされていました。

報道された写真をみるとに、石垣の下のほう(もともと地中にあったのかも)に見えますので、それで残ったのかもしれませんね。

ちなみに、かつては、聚楽第の遺構(再利用した門と建物)というのが、大徳寺西本願寺にあったのですが、解体修理のときに調べてみたら、全然違いましたとさ、となりましたとさ。

【追記】
 なんとその後、ツイッターを舞台に、「聚楽第だ」「いや聚楽城だ!」「いや聚楽よ〜ん!しかないでしょ」などと大いに盛り上がっていました。

togetter『秀吉の「聚楽」の接尾語は、「第(だい)」か「城」か「よ〜ん」かの大論争』してみましたのでよければどうぞ。

恵美的な結論としては、「よ〜ん」でなければ、第でも城でもいい、ですね。

 現説にいった人のツイートをみると、やはり破壊されていて基部が残っていたと見えるという感じみたいですね。


豊臣秀吉 (中公新書 (784))

豊臣秀吉 (中公新書 (784))


読売新聞

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは21日、豊臣秀吉が造った城郭式の公邸・聚楽第跡(京都市上京区)で、本丸の石垣とみられる遺構を長さ32メートルにわたり確認したと発表した。
(略)
 調査では、自然石を積み上げた東西方向の石垣(最高約2・3メートル)を確認。東に向かうにつれて大きな石を積んでいた。当時、城郭の門に接する石垣には見栄えを意識して巨石を用いる例があり、近くに本丸正面の門があったとみられる


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