歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

「縄文人」=「アイヌ人」の祖先だけど、縄文文化ノットイコール「アイヌ文化」

1200年前から伝わるアイヌの秘宝 犠牲者供養で初の開帳【岩手・大船渡発】というネットのニュースがありました。ほかにもたまたまでしょうが、アイヌについてのニュースが。

アイヌの秘宝」については、震災支援をしているグループがやっておられるのだが、恵美としてはその活動を批判したりするつもりはひとかけらもないのであらかじめ記しておきます。とくにこの団体は個人的にも頑張っているなあと前から遠くから応援してきました。

ではなぜきょうこの記事をピックアップしたかというと、歴史の視点から見たアイヌとはなにかを考えたからです。

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まず歴史・考古学から分かっているのは「1200年前のアイヌ」つまり西暦800年頃にアイヌ文化はなかったということ。
もう一つ、最近の重大な研究成果としては、「アイヌ民族はなかった(かもしれない)」ということだ。
知らない人にとっては両方ともショッキングなニュースかもしれません。

恵美にとっても、後者はびっくりでした。日本列島史を変えるくらいの新説なわけですから。

まずは、「1200年前にアイヌはいなかった」について。

北海道にもちろん人はいました。人類学的に縄文人と現在のアイヌは非常に近いことがわかっています。つまりずーっと北海道に住み続けた先住民であることは間違いないです。ただ「アイヌ」と呼ばれていなかったのです。

では、なにをもって「アイヌ」なのか。北海道の縄文人は主に狩猟採集、アイヌも狩猟採集の移動生活と共通しているじゃないか。同じなのに、単に学術用語が違うといっているだけじゃない?と思うかもしれません。

それは違います。

じつは縄文文化(北海道では7世紀まで)とアイヌ文化(13世紀〜)の間、500年にわたり、同じ人種でありながら、本州と同じような文化を取り入れていた時期があったのです。縄文文化とアイヌ文化には完全なる断絶があるのです。

「擦文文化」といいますが、食器は陶器、道具は鉄器、農業もするし、定住生活。これは当時の「田舎の日本」と言えるレベルです。

その後、移動生活、狩猟採取のアイヌ文化が始まるのです。
あれっ?て思いませんでした?
定住生活・農業から移動生活・狩猟って、退行しているんではないのかと。

ところが、実際は逆、社会・経済が進化した結果、北海道の人たちは自らの意志で、不動産を捨て、ノマドになったのです。

というのも、東北から必要なモノ(食糧含む)がガンガン入ってくるので、寒い北海道でわざわざ苦労して農業する必要がないのです。かわりに彼らの大地には、めちゃめちゃ換金性の高い毛皮、昆布などがあります。

つまり、物づくりなんてせずに金融に特化した現代の香港やシンガポールのような選択したのが、北海道の人たちであり、このライフスタイル(いまならノマドと呼ばれる)こそがアイヌ文化だったのです。

アイヌは文化であって、特定の民族を意味するのじゃないのでは?という疑問が浮かびます。これは、現代の民族問題としての「アイヌ」にとっては非常に微妙な問題です。

そして、とうとう、その疑問(仮説「アイヌ民族はなかった」)が正しかったことが判明してしまったのです!

ここ数年の話です。(アイヌの問題は、現時点で生きた民族問題なので、研究者たちも自分たちのフィールド(学界)から出ていってまで公に向かって発言しようとしないという面が強いので、ほとんど世には出ていません)


それはどういうことか?

ヒントは、

昨日のエントリーでの「中華文化はいっぺんも途絶えたことがない」というのは建前と同じような話です。

続きはまた

(このテーマは、リクコタンの神って誰とか、書きたいことがたくさんあるんです。)

地方別・並列日本史 (PHP新書 672)

地方別・並列日本史 (PHP新書 672)

1200年前から伝わるアイヌの秘宝 犠牲者供養で初の開帳【岩手・大船渡発】 : J-CASTニュースソースURL: http://www.j-cast.com/2012/10/23151132.html

(ゆいっこ花巻;増子義久)
東日本大震災で大きな被害を受けた大船渡湾を眼下に望む尾崎岬(大船渡市赤崎町)―。その中腹に位置する尾崎神社の境内から19日、重厚なアイヌの祈りの言葉が流れた。北海道弟子屈町屈斜路湖畔を拠点にアイヌ民族の伝統文化の継承や創作に取り組んでいるアイヌ詞曲舞踊団「モシリ」(アイヌ語で静かな大地の意)が同神社に伝わるアイヌの祭具「イナウ」の無事と震災犠牲者の供養を兼ねた奉納の儀式を営んだ。


赤崎町では約1200戸の3分の1以上に当たる約470戸が被災し、50人近くが津波の犠牲になった。尾崎神社(粼山巌宮司)は境内につながる階段の上から6段目まで津波が押し寄せたが、辛うじて被災を免れた。また、社務所は全壊したものの、秘宝として保管していた「イナウ」は奇跡的に無傷のまま残った。
同神社には「御寶物 稲穂壱振 社務所」と表書きされた、縦55センチ前後、横5センチ前後の木箱が大切に保管されてきた。これに関し、旧赤崎村の村史には「宝物 稲穂一本、往古より鄭重に保存しあり」と記述され、「理久古田(りくこた)の神にささげし稲穂にも/えぞの手振のむかしおもほゆ」という和歌がそえてあったという。
民俗学者谷川健一さんは27年前にこの神社を訪れている。谷川さんによれば、尾崎神社の古名は「理訓許段(りくこた)神社」。この名前はアイヌ語による読解が可能で、「rik・un・kotan」(高い所・にある・集落)の意味だとしたうえで、次のように述べている。

(略)

実は「モシリ」を率いる豊岡征則さん(67)=アイヌ名・アトゥイ(海の意)=は20年ほど前、民俗学者赤坂憲雄さん(学習院大学教授)から、このイナウの鑑定を頼まれたことがあった。「見た瞬間、アイヌのものだと分かった。胸の高まりを抑えることができなかった」と豊岡さん。「イナウ(木幣=御幣)は 神への伝言を伝える中継役として、アイヌの神事には欠かせない。それが津波に流されないで残ったと聞き、居てもたってもいられなかった」
震災時、宮司だった秀明さん(当時73)は2か月前に亡くなった。妻の光子さん(70)が言った。「これはアイヌの大切な宝物だ。妻のお前にも触らせることはおろか、見せることもできないの一点張り。研究者が訪れた時、ちらっと盗み見た程度だった」。この日の奉納の儀式には総代や地区住民など約50人が参加した。こんな形での秘宝開帳はもちろん初めて。箱が開けられ、赤黒く変色したイナウが姿を現すと周囲にどよめきの声が広がった。

イナウは、アイヌ語ではなくて、文字通り「稲生(いなう)」で、稲穂のことでしょうね。アイヌにも「イナウ」というものがあるのだとしたら、それは和人の豊穣の祭りを取り入れたと考えるのが自然でしょう。

朝日新聞デジタル:アイヌ民族の眠れる宝 札幌市扱い検討へ-マイタウン北海道ソースURL: http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000001210220011
アイヌ民族の眠れる宝 札幌市扱い検討へ
2012年10月21日

 アイヌ民族の装飾品や衣装、器など約1400点が、札幌市の関連施設で三十数年間、ひっそりと収蔵されている。地元百貨店から半世紀余り前に寄贈され、一部は観光名所の時計台で展示されたこともあったという。市は改めて調査や整理をした上で、将来の再展示も含めて対応を検討するとしている。

 収蔵品は、アイヌ民族の首飾りや衣装、刀、さや、ござ、塗り物の器などだ。品目別に整理箱に収納、保管されている。

 市によると、1960(昭和35)年に地元百貨店の丸井今井から贈られた。同社の「丸井今井百年のあゆみ」(73年発行)には、昭和初期にアイヌ民族の工芸品収集ブームが起こり、装飾品や衣装などが道外へ流出し始めたため、当時の支配人が流出の一歩手前で買い取ったとある。

アイヌ民族の絵巻など展示 滝川−北海道新聞[道央]ソースURL: http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki/413860.html
(10/23 16:00)
アイヌ民族の絵巻などを展示したアイヌ文化資料展
 【滝川】絵巻や見聞録など、アイヌ民族の資料を展示する特別展が22日、国学院道短大(田村弘学長)で始まった。開学30周年記念事業として、言語学者の金田一京助が収集した資料などを収蔵する同短大の「金田一記念文庫」から27点を展示している。
 目玉は幕府役人・村上貞助の自筆とされる、江戸後期の探検家・間宮林蔵の口述を筆記した「銅柱余話(どうちゅうよわ)」。図書館司書の高橋由彦さん(58)によると、樺太(サハリン)南端の白主(しらぬし)などの当時の様子が書かれており、「今年8月に村上の自筆と判明した貴重な資料」という。展示は28日までの午前10時〜午後4時。27日は30周年式典で午後10時半から正午ごろまで閉館。

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