歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

縄文の津軽人は、古代ギリシア人だった?!

 縄文時代と言うと、思い浮かぶのが、遮光器土偶と三内丸山遺跡ではないでしょうか。いずれも青森県です。
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 ところが、遮光器土偶が三内丸山遺跡に存在したことはなかったのです。前者(遮光器土偶)が縄文時代晩期、後者(三内丸山遺跡)は中期と、その間に約1000年の空白があるのです。
 三内丸山の時代は、暖かく暮らしやすい時期だったので、人間はそれほど動きまわりません。あの巨大な大柱も、でかい建物も、バブル経済でできた、モニュメントであり、市民音楽堂であるのです。
 ところが、遮光器土器の晩期は「亀ヶ岡文化」と呼ばれますが、寒冷化して、経済はボロボロ(食べるものがない)で、人は死ぬ、自分もいつ死ぬか分からない極限状態なわけです。そこで生まれた遮光器土器のあの異様なデザインは、ムンクの叫びであるのです。亀ヶ岡文化人は、新天地を求めて、九州にまで旅をしています。それほど故郷が厳しい状況だったのです。
 そんな亀ヶ岡人の墓と人骨が、当時に近い形で見つかるというすごい発見が青森県五所川原市(亀ヶ岡の近く)でありました。
 五所川原市相内の五月女萢遺跡です。「そとめやち」と読みます。名前からしてすごいです。3000年〜2300年前の遺跡です。
 縄文、縄文と言っていますが、この頃、九州では水田稲作が入ってきて、弥生時代入りしています。
 世界的に寒冷化していた頃なので、水田稲作民もまた、朝鮮半島が寒くなりすぎて、海を渡ったとみられています。
 半島人は稲作技術を持って南下。では、亀ヶ岡人はいったいなにをもって南下したのでしょうか。これは大きな謎です。

=写真は五所川原市発表資料より=

 五月女萢遺跡の墓は、形としては堀った穴に遺体を入れて、その上に土をまるく盛る、土饅頭タイプです。のちの古墳時代と原理は同じですが、古墳が選ばれし「王」の墓なのに対して、この遺跡の墓は一般人であると見られています。一般人なのに、新潟産のヒスイとか持っているので、一見すると、豊かなのです。
 ところが、繰り返しますが、この時期は寒くて、食べ物が不足して人口は激減しています。
 では、亀ヶ岡人はどうして物質的には豊かであり続けたのか。
 恵美嘉樹は、「文化や技術」の輸出だったと想像します。具体的にはもっと実利的な呪術でしょう。いってみれば、ローマ帝国に吸収されたあとも輝き続けた古代ギリシアのような存在だったのではないでしょうか。
 少なくなった人口を逆手にとり、一子相伝的に高い技術や芸術を伝えていき、その択一した技が、西日本の人たちや水田稲作民をも驚愕させたのかもしれません。
 以上、縄文VS弥生の恵美嘉樹説でした。
 
フタ残る墓跡発掘 縄文晩期・五月女萢遺跡
(2012年10月13日5時0分 読売新聞)

 五所川原市教委は12日、縄文時代晩期の五月女萢(そとめやち)遺跡(五所川原市相内)で、墓のフタの役割をする「マウンド」が残ったままの墓跡が19基見つかったと発表した。専門家は「縄文時代の墓地の景観を知る上で貴重な資料」としている。
 同遺跡からは「土壙墓(どこうぼ)」と呼ばれる墓跡130基を発掘。このうち、黄褐色の粘土を盛ってマウンドを作った墓が19基見つかった。石を立てて墓標としているものも4基あった。
 弘前大学人文学部関根達人准教授(日本考古学)によると、マウンドを残した土壙墓は、これまでに全国の集団墓地でも発掘例があるが、いずれも数個。そのため、集落で特殊な身分の人を埋葬するときに使われている可能性があると推測されていた。関根准教授は「今回のようにまとまって発見されたことで、特殊な人だけでなく、一般的に使われていた可能性が出てきた」と指摘する。
 また、日本海側では珍しい抜歯の跡がある縄文時代の人骨や、副葬品とみられるヒスイなども出土した。
 同市教委は14日、出土品やその写真を同遺跡の発掘現場で一般公開する予定。

ほかにも毎日新聞 2012年10月13日 地方版

 五所川原市教育委員会は12日、同市相内の五月女萢(そとめやち)遺跡で、環状に配列された土壙墓(どこうぼ)約130基を確認したと発表した。うち19基で粘土を盛り土した構造が見つかり、発掘した人骨からは抜歯の風習も明らかになった。市教委は「生活の痕跡はなく集団墓地とみられる。従来の縄文時代の墓地景観のイメージを塗り替える発見だ」としている。
 遺跡は十三湖北側にあり、縄文時代後期から晩期(約2300〜3000年前)。発掘調査は10年度に始まり14年度までの予定。土壙墓は丘陵頂部から南側緩斜面にかけて発見され、調査が進めば、盛り土された墓を含め今後さらに数は増えるとみられる。
 墓からはヒスイなどの玉類やサメの歯、矢じりなど多くの副葬品も出土した。ヒスイはこの地域では取れず、新潟方面から持ち込まれた物とみられる。墓からは人骨が昨年度3体、今年度も1体発掘され、昨年度発掘分のうち2体では、犬歯などを抜いた痕を発見。抜歯の風習があったことが分かったという。

続報です。

陸奥新報
http://www.mutusinpou.co.jp/news/2012/12/24395.html

県考古学会(福田友之会長)は27日(2012年12月27日)、五所川原市教育委員会が調査している同市相内の五月女萢(そとめやち)遺跡を現状で保存し、公有地化などを求める要望書を市教委に提出した。


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