歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

ナチの迫害のがれ福井へ来たユダヤ人の腕時計

フェイスブックで話題になっていたお話。
最近は、いかに日本「軍」が優れていたかという回顧話も多いですが、やっぱり、ユダヤ人への人道的な扱いこそ、日本人としての誇りでありたいと感じました。


杉原千畝「命のビザ」

2012年10月2日 読売新聞福井版より
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/fukui/news/20121001-OYT8T01690.htm

「命のビザ」で敦賀へ ユダヤ人の腕時計市に寄贈

 第2次大戦中、ナチスの迫害を逃れて敦賀市に上陸したユダヤ人が残していった腕時計が、同市金ヶ崎町の「人道の港 敦賀ムゼウム」で2日から常設展示されることになった。長年身に着けていた同市岡山町の石田ヒサさん(86)が1日、市に寄贈した。ユダヤ人は換金のため多くの物品を敦賀で手放したが、空襲などでほとんどが失われており、腕時計がユダヤ人と市民との交流を裏付ける唯一の「物的証拠」という。(島田喜行)

 市などによると、ユダヤ人の敦賀上陸は1940〜41年。外務省の方針に背いて杉原千畝リトアニア領事代理が発給した「命のビザ」で入国、すぐに神戸などに向かったという。

 石田さんの父・渡辺喜好さんは敦賀駅前で「渡邊(わたなべ)時計店」を経営。多くのユダヤ人が店を訪れ、所持品を日本円に換えた。石田さんは、ユダヤ人が空の財布を広げ、食べるしぐさをして「ハウマッチ」と言って換金し、駅前のうどん屋で食事をしていた光景を覚えているという。

 腕時計も持ち込まれたものの一つ。スイスのテクノス社製で女性向け。盤は15ミリ四方の正方形、厚さ6ミリ。ステンレス製で、ねじを巻けば今も動く。

 当時、敦賀高等女学校に通っていた石田さんは、喜好さんに「試験で必要」と頼んで譲り受けた。その後、敵機襲来や気象情報を軍に伝える部隊に動員され、時間把握のため腕にはめ続けた。

 時計店は45年の空襲で焼かれ、ユダヤ人の品々も失ったが、腕時計は石田さんが身に着けて防空壕(ごう)に避難していたため無傷だった。
 (略)