歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

 旧石器についてのニュースも本も、正直、まゆつばで見てしまう。むろん2000年に発覚した旧石器捏造事件のせいである。

 

新しい旧石器研究の出発点・野川遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

新しい旧石器研究の出発点・野川遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

 
 だが、この本(小田静夫『新しい旧石器研究の出発点 野川遺跡』新泉社、2009年12月)は大丈夫だ。捏造グループに対して、孤高を貫き、日本には4万年を遡る旧石器の遺跡はないと唱え続けた人物だからだ。
 

1976年に新井房夫との追跡調査で、鹿児島湾奥の姶良カルデラから噴出した「姶良Tn火山灰(AT)]であることを突き止めた。
 現在、AT層準の炭化材などのAMS(加速器質量分析法)測定値から、町田らによって約二万八千〜二万四千年前と、より古い年代値が与えられている。
 姶良Tn火山灰は自然環境へ、その動物相や植物相に多大な影響を与えたことによって、旧石器時代の第?層文化人の生活をも変革させた。それまでは日本列島全域で均質な旧石器文化が営まれていたが、この巨大噴火後にはナイフ形石器に強い地域色が誕生するとともに、さらにそれまで多用していた世界最古級の磨製石斧が消失する事実などがあった。
 おそらくこれは温暖な気候下でナウマンゾウやオオツノシカなどの大型動物を集団狩猟していた生活環境が、この巨大噴火で寒冷化がより促進し、小型動物だけが生き残り、個人的な狩猟活動の世界に移行したことを示唆しているものといえる。 34P

噴火で一気に生活が変わり、「個性」がうまれたことが分かる。

 日本の旧石器遺跡の主要な遺物包含層は酸性のローム層であることから、骨などの有機質遺物は消滅してしまい、諸外国のように自然遺物や骨格製品は多くは出土しない。そのため旧石器人の行動や集落・生活空間を復元するには、住居址、仕事場、広場、土坑、墓坑など確かな遺構確認が重要になってくる。
 
 拳大の河原礫が密集した「礫群」とよばれる集石遺構が多数発見された。
 こうした観察状況から、「蒸し焼き料理」用の施設ではないかと推測されてきた。鈴木正男による理化学的分析で、これらの礫は600度以上の熱を受け表面が赤化していることが確かめられた。
 42P

 旧石器人は蒸し焼きが主食だったのだろうか? それが綿々と続き、火を扱う技術が成熟して縄文土器ができたと想像するとわくわくする。

 野川遺跡の10枚の文化層は大きく三つの時期に分けられる。
 50P

 
 だいたいこういうことらしい、
1期 温暖な時期でナウマン象などを集団で狩りをしていた

姶良火山(鹿児島)の大噴火で環境の大変化

2期 獲物小型化し、集団も分散

厳しい環境で工夫することが増えたのか石器のバリエーションが増える(縄文土器へつながる?)

3期 土器の時代(ほぼ縄文時代の草創期)

 当時の環境の再現もなかなか面白い。

 氷河時代の古環境
 約5万年前頃から始まった最終氷期(ヴュルム氷期)は寒冷化した気候で、海面の低下をもたらし、最寒冷期(約2万年前)には現在より気温が年平均七度も低く、海面も約100〜120m低下した。東京湾は陸化しふかい峡谷を呈し、武蔵野台地は現在の標高1000メートル級の八ヶ岳山麓や日光戦場ヶ原などの高原地帯と同じ自然景観であった。
62P


 東京湾が峡谷だったって、下から見たらどんなグランドキャニオンぶりだったのか、想像するだけで面白いではないか。

 忘れていけないのが、捏造問題についてだ。

 遺跡捏造事件の波紋
 わたしは「日本の旧石器遺跡は立川ローム期より古期のものは、現状では否定せざるを得ない」という意見を繰り返し述べてきた。しかし、、、、 
 さらに文化庁・国立の博物館や研究所の行政官と大学の考古学研究者らの支持を得て、前・中期旧石器は教科書にまで掲載されるにいたってしまった。
 75P

 旧石器捏造で、官僚化した役人(当たり前かw)、官僚化した研究者たちの官を背景にした圧力で、著者の小田氏は不当におとしめられてきた。小田氏は捏造によって一躍旧石器界のヒーローとなったが、小田氏にあげられた人たちはいまだ「官」の城壁の中で守られている。

 われわれの直接の子孫達は、アフリカを旅立ちユーラシア大陸に拡散した。そして日本列島には、シベリア経由の北方集団と、スンダランド経由の南方集団がそれぞれ北と南から渡来し、列島中央部の武蔵野台地・野川流域でこの両集団が歴史的な再開を果たすことになった。
 78P

 学界のあつれきなど日本人の先祖たちの長く辛い道のりに比べれば小さいものだ、小田氏もまた旧石器人の歴史と同様に紆余曲折をへてこの著書で一つのゴールにたどり着いたのだろう。