歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

長屋王は外食産業のはしりだった?

人と物の移動 (列島の古代史―ひと・もの・こと 4)

人と物の移動 (列島の古代史―ひと・もの・こと 4)

今回は本書に収録された舘野和己「市と交易」を紹介します。

当たり前のことですが、日々わたしたちはスーパーなどのお店でお金と交換に欲しい物を手に入れることができます。
しかし、古代の人たちは、どこで、どんなお店で、いくらで物を手に入れたのでしょうか。その疑問の一端に、この論文は答えてくれます。

古代のミヤコ(藤原京平城京平安京)には、京の区画内に「市」とよばれる百貨店のようなものがありました。古くは弥生時代の日本の様子を記す魏志倭人伝にも「市」があったことが書かれています。

この市はどんな役割を担ったのでしょうか。

そのことを理解するのに、当時の役人の給料がどのように支払われたのかを知る必要があります。
布・塩・カツオ・鉄などの物品が役人の「季禄」として支払われました。「季禄」というのは役人に支払われる給料の1つですが、「季」とは春と秋の2季があります。要するに「季禄」は今のボーナスといってよいでしょう。昔からボーナスは年に2回だったことがわかります。といっても、毎月支払われる給料はありませんでしたが。これらの給料の財源は「調」や「庸」という名目で人々から納められた税です。

このように、ボーナス(季禄)や役所に納められる税は米や布などの現物が原則でした。

「市」の機能について、舘野論文は次のように説明します。
現物でもらった米や布などだけでは生活できません。必要な物を入手しなくてはいけません。そこで「税物を一旦売却して銭を入手し、それで必要な物を買うという作業とその場が不可欠だったが、それが東西市であった」(106ページ)とさらりと説明しています。
要するに、現在の感覚では「市」があったというと、お金をもって買い物に行く、とだけイメージしがちですが、そうではなく、ボーナスでもらった米や布などを市で一度銭に交換する。その銭で必要な物を購入したのが「市」だったということになります。舘野説にしたがえば、銀行の役割といってよいでしょう。

なるほどと、よくわかったような気に一瞬なりますが、少々ひっかかります。
そもそもどうして国家は米や布ではなく貨幣でボーナスを支給しなかったのでしょうか?役人への給料規定を定めた法律(律令)をみても、例外なく布や綿、はたまた農具だったりします。貨幣で給料が支払われなかったのには訳があるはずです。
その理由は、当時国家から発行された銭がそれほど信用がなかったからではないでしょうか。
貨幣は天武天皇の頃にはじめて発行され、その後708年に和同開珎などがだされますが、その後衰退の一途をたどります。
当時の人々にしてみれば、金属片に価値がある、といわれても何のことやら理解できなかったにちがいありません。和同開珎発行の3年後、史書には当時の人々が銭の使い方がわからず困っており、売買するために使う人も少しはいたが、大部分は蓄える人はいなかったとあります。

だとすれば、米や布でもらった給料をわざわざ市で銭に交換したのでしょうか。むしろ、米や布で直接欲しい物と交換していたと考えるほうが自然な気がします。舘野論文でも言及されていますが、「直米」といって、米が貨幣と同じ役割をしていたことが知られています。
実際、このあと貨幣はどんどん使われなくなり地域も限定され、挙げ句の果てに11世紀には全く使われなくなってしまいます。交換手段は稲や布になりました。その後オリジナル貨幣つくられるのは豊臣秀吉による天正金銀までおよそ600年をまたなくてはなりません。

現代の貨幣経済で古代にあてはめて考えると大きな誤りに陥ってしまう気がします。市がなぜあったのか、別に理由を求めたほうがいいようにも思いました。


また本論文では、長屋王木簡を検討し、長屋王の知られざる私生活を、市と交易というテーマにしぼって紹介しています。

奈良時代の前半に活躍し左大臣にまで登りつめた長屋王。結局は藤原氏の陰謀により無実の罪を着せられて自殺させられてしまう悲運の人物です。
今から20年ほどまえ、長屋王の邸宅跡とみられる場所から木簡が約3万点も出土しました。この木簡は、いままで知ることのできなかったさまざまな古代の真の姿を私たちに教えてくれました。

この木簡を眺めていくと、長屋王がどんな私生活をしていたのかがとてもよくわかります。残そうとしたわけではなく、たまたま残ってしまった。それゆえに真実がそこにある。ウソはつかない。だからこそ価値があるのです。

長屋王邸宅跡から物品の購入を記録した木簡が大量に出土しました。しかしなぜか野菜類を買った木簡がたった一点しかでてきませんでした。
舘野氏は本論文で長屋王が自給自足していたから買う必要がなかったと断言します。実際、他の史料で大きな畑を経営していたことがわかっています。

また「直米」で薪やウリを買った、という木簡もでてきました。「直米」とは米を現物貨幣として交換手段に使うこと。要するに、お米が現代の貨幣の役割をになっていたといっていいでしょう。一方で銭を使った例もありました。
直米と銭。この違いは何を意味するのでしょうか。
舘野論文は次のように大胆予想します。薪やウリは「周辺農村の農民が京に出てきて、生産物を売るということがあった」一例で、現物の米で支払われたのは「農山村に住む生産者=売り手がそれを望んだため」(111ページ)だと考えます。今ひとつ実証できない部分もありますが、貨幣経済が未熟だった当時を考えれば、農民たちが貨幣を嫌ったことは十分に可能性があると思います。

また長屋王は毎日のように飯と酒を販売していたことが木簡からわかりました。政治家=役人としての業務以外に副業も活発にやっていたのです。当時の法律では、役人の副業は禁止されていました。こっそりばれないようにやっていたのでしょうか。
長屋王商店」では飯や自家製の酒を取り扱っていましたが、このことから「飯や酒を買う、つまり外食する人たちがいた」(122ページ)ことを想像します。これらの長屋王の経済活動は「はじめから販売をめざした生産を行っていた」と類推します。ちょっと見方を変えただけですが、「外食産業の起源」ととらえるとおもしろい着想だと思います。

古代人がどうやって買い物をしていたのか、まだまだよくわからないことも多いです。本論文はその一端をわたしたちに教えてくれます。