古代トルコの大帝国「突厥」最東端の碑文発見についての報道まとめ
大阪大が、モンゴル東部で8世紀の古代トルコ文字(突厥文字)が刻まれた碑文を発見した、7月16日に発表しました。
これまでモンゴル西部では見つかっていましたが、東部で見つかるのは初めてで、注目されます。各紙が報じていますが、それぞれ情報が小出しなので、まとめてみました。(朝日、共同<上の写真>、時事を参照)
朝日新聞(上)によると、遺跡の名前はドンゴイ・シレー遺跡(台形の丘)でモンゴルの首都ウランバートルの約400キロ南東(共同通信では450キロ)に位置しています。
大阪大の大澤孝教授(古代トルコ史)とモンゴル科学アカデミーの合同調査で、今年5月〜6月に、大きさ4メートルと3メートルの碑文が見つかりました。(時事通信によると、碑文は角柱二つと円柱一つの3つ)
碑文は計20行で、2832文字(646単語)が突厥文字で書かれていました。紋章(タムガ)から突厥第2帝国(682〜744)の王家アシナ家一族のものと考えられるとのことです。
そして内容を解読すると、
「わが家や、ああ」「我が土地よ、ああ」
などと、家族の死や故郷を懐かしむ内容だったそうです。
大澤教授は、朝日新聞に、過去に見つかっている碑文にかかれた「東方の支配者」と同じ紋章が碑文にあることから、東部を軍事支配する王家の墓碑の可能性についてコメントを寄せています。
渤海にしても突厥にしてもいわゆる中国・日本の文化の基層を作ったのは彼らではないのか
wikipedia「東突厥」より
8世紀は日本だと奈良時代。奈良時代といえば、東大寺の大仏です。
この大仏の開眼式に、インド人の僧侶が参加しています。このようにこの時代はシルクロードで頻繁に人が行き交いしていました。中央アジアを支配していたのは、東西に分かれたものの、突厥です。
そもそも唐の皇帝自身が、最近では、漢民族ではなく北方の遊牧系ソグド人と言われています。独自の文字を作ったりと、遊牧民族の文化の高さは目をみはるものがあります。
中国の王朝のなかでも唐の文化は抜きんでています。これは漢民族のピュアな文化というよりも、北方の想像力豊かな智が混じり合って初めて生まれたものかもしれません。(今の中国は絶対に認めないでしょうけどね)
日本でも縄文時代が文化の基層である、という話があります。それを否定はしないけど、飛鳥時代以降に急速に入ってきたシルクロード文化を「中位の層」と考えていく必要はあるのではないでしょうか。