邪馬台国説の纒向遺跡がようやく国の指定史跡になる。柿本人麻呂に救われた遺跡【新指定史跡など全リスト付き】
=纒向遺跡全景(サイトURL変更のお知らせ/桜井市ホームページより)
きょう(2013年6月21日)国の文化審議会が答申して、邪馬台国説のある奈良県の纒向遺跡が国の史跡に指定することになりました。
今回の新指定は11か所。名勝(2)、天然記念物(3)長崎原爆遺跡(関連エントリー)など登録記念物(13)、重要文化的景観(3)です。一方、震災などでたくさんの登録記念物の建物も抹消されました。。。
なぜ、纒向遺跡が今頃になってようやく国の指定史跡になったのか。もうとっくに指定されていたと思いませんか?
そこには都合の悪い真実が隠されているかもしれませんよ。
纒向遺跡は下のグーグルマップで見ていただいたらわかる通り、住宅地と水田です。
そして、地図だと左上にある県営纒向団地というところがありますが、ここを建てるときの調査(あと左にある纒向小学校)で「すごい遺跡だ」と判明したのです。。1970年代のことです。
「邪馬台国かもしれん」となれば、保存しておこうとなったのが自然ですが、そうはなりませんでした。
このとき、箸墓古墳に近接し、前方後円墳に囲まれたこの地をだれも「邪馬台国」や「ヤマト最初期の遺跡」と想像することができなかったのです。
少子化の今考えると、信じられませんが、第二次ベビーブームだったのです。厳しく言えば、「住宅!住宅!家!家!学校!」とある種の確信的な思考停止をしていたのかもしれません。
纒向遺跡が発見されたのは1937年(昭和12年)に遡ります。(このときの名前は太田遺跡でした。)
70年代から調査をした石野博信さんは著書『大和・纒向遺跡』(学生社)で「発見当初から「巨大なる前方後円墳」初期ヤマト政権との関連が意識されていたのです」(12頁)と指摘しています。
そしてさらに続けます。
しかし、その後、遺跡はほとんど忘れられ、(略)ほとんど注目されることなく過ぎていました。ですから、”上の人”が”調査はいらん”と判断されたのも、やむを得ないことではあったのです。
ヤマトとの関連を指摘した先人もいたのですが、すっかり忘れられ、70年代においては、保存どころか、調査すらギリギリだったとか(汗)で、石野さんが担当一人で掘ることになりました。
纒向遺跡を救ったのは遺跡ではなく「奈良時代」の川の跡だった
こうして団地造成(厳密にはその隣に炭鉱労働者のためのアパートが最初)にともない1971年から、なんとか考古学調査が始まりました。
しかし、初年度は「川のあと」とちょぼちょぼと飛鳥・奈良時代の土器の欠片しかでません。端的にいうと「どうもいい遺跡」。
「ああ、もうあかん。とても遺跡保存どころか、発掘調査もできなくなる」
で、石野さんが県立図書館分館にいくと、たまたま万葉研究家の吉岡義信さんがいて、そんな話をふってみると、なんと!
吉岡さんはこともなげに言われました。
”纒向には柿本人麻呂が一時住んでいたかもしれません。万葉集には巻向の歌がたくさんあります”と。
(一一〇〇)巻向の穴師の川従行く水の、絶ゆる事なく、また反り見む(巻七)
(略)
マスコミ報道は、”万葉の川発見”となり、土器の存在から近くに貴族の邸宅を推定することとなりました。
(略)
のちに纒向遺跡がヤマト政権にかかわる三、四世紀の都市的集落だといわれるきっかけは、すべて吉岡さんのおかげだと思います。
纒向遺跡が救われたのは、「邪馬台国!卑弥呼!」ではなく、それより何百年もあとの歌人の歌だったのです。万葉集あなどりがたし!
もちろん、万葉集でも工事はとめられず、その後、ヤマト初期の遺物もドンドン見つかりますが工事は続行。あんな団地をたてれば基礎をうつため、遺構は完膚なきままに破壊されていて今ではすっかりなにも残っていないことでしょう。
県営住宅ですからね、県庁内の力関係で、「保存なんてしなくていい。団地作れ」と偉い人が言ったのでしょうね。そもそも「調査をしなくていい」と”上の人”が言ったくらいですから。
今頃、”上の人”はどう思っているんですかね。けっこう、えらそうに「纒向=邪馬台国論」を唱えているかもしれません。
遺跡としては保存されていないわけですから、立派な国の史跡になりようがなかったわけです。でも最近、水田など建物がないところをコツコツと調査を続けて、こうして国指定にたどりついたのだから、ほんまお疲れさまです。(この指定への経緯を朝日新聞が書いていますね。再び住宅開発が迫ってきたのであわてて指定に動いたという内容です。ネットには載ってません)
危機感を抱いた寺沢(薫桜井市纒向学研究センター)所長は昨年、文化庁に直談判し、史跡指定の検討を要請。センターの橋本輝彦・主任研究員(考古学)を中心に3か月間で必要書類をまとめた。
国の史跡化は保存への第一歩。調査も全体の2%しか終わっていません。これから用地買収とか大変でしょうけど、桜井市の方はがんばってください。
(2013年6月22日:だいぶ加筆しました)
【参照桜井市HP】
【参考文献】
ほかに指定になった史跡も続々更新していくよ!
写真などを探して、ほかの史跡やらもぜんぶ紹介していきますので、また見に来てください。増えている(はず)
前九年の役の舞台!鳥海柵跡(岩手県金ヶ崎町)【史跡】
指定暴力団源氏と東北の豪族安倍氏が11世紀に戦った前九年の役の舞台です。
安倍氏が滅亡した厨川柵(くりやがわ)が本拠地と思われていますが、本当の本拠とはここです。「とのみ」と読みます。
森蘭丸のお父さんが作った美濃金山城跡(岐阜県可児市)【史跡】
可児市は、明智光秀や森蘭丸の生まれ故郷です。
1565年に金山城は森可成(蘭丸のお父さん)が織田信長からもらって、森氏3代の居城となりました。
標高277メートルの山城です。
恵美須ヶ鼻造船所跡(山口県萩市)
幕末の1856年(安政3年)に、萩藩が、ロシアやオランダの技術を使って洋式木造帆船を建造した造船所の遺跡。発掘調査でドックなどが見つかっています。
九州北部と山口県が狙っている世界遺産候補の構成遺跡の一つですね。
津田古墳群(うどん県さぬき市)
大野窟古墳(熊本県氷川町)
披雲閣庭園(高松市)【名勝】
新湯の玉滴石産地(富山市)【天然記念物】
立山の中腹にある温泉。安政5年(1858)の飛越地震で、温泉が湧出するようになったところ、70度なのでそのままはいれません。しかも温泉からはオパール「玉滴石」が出るというまさに宝の泉。
日本一美しいといわれた石ですが、1900年以降の産出はないそうです。
=写真はふしぎ新発見 − 富山市科学文化センター