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歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

指原莉乃と足利尊氏の足跡が完全に一致した件

 なんと、国史大辞典の「足利尊氏」の項目で、尊氏を指原に変換したら完全に一致したので、虚構新聞にやられる前に、ここにご報告します。
 国史大辞典をベースに、Wikipediaの指原さんの項目などを適当張り合わせてみました。時系列など全く適当です。そもそも指原さんのことはスキャンダルのほうしか知らないので、ファンの方はごめんなさい。

 【追記】意外な動きが

足利尊氏(別名:指原莉乃

 指原幕府初代将軍。在職2013年〜。1992年豊後(大分県)で出生。
 母は大分トリニータの熱狂的ファン。2007年、十五歳で『AKB48 第二回研究生(5期生)オーディション』に合格し、従五位下治部大輔に叙任。

 2008年後醍醐天皇の『チームB 3rd Stage「パジャマドライブ」』公演にあたり、バックダンサーとして初ステージ、公演終えて従五位上に叙せられた。

 鎌倉幕府によって隠岐に流されていた秋元プロデューサーが隠岐を脱出するや、秋元プロデューサーの命を受けて正規メンバーに昇格し、旧チームBへ正式加入。丹波篠村八幡宮の社前の「大声ダイヤモンド」で源氏再興(初の選抜メンバー入り)、前田敦子討伐の旗を挙げ、同時に密書を諸国のイケメンファンに送って協力を求めた。ときに16歳。

 六波羅探題を攻め滅ぼし、続く「10年桜」と「涙サプライズ!」を合わせ3曲連続で選抜入りを果たす。秋元プロデューサーが帰京すると、即日バラエティ出演を許され、AKB中興第一の功臣として、鎮守府将軍「チーム狩人。」に任ぜられ、従四位下左兵衛督となり、秋元康の諱の一字を与えられて「ドリアン指原」と改めた。

 『神皇正統記』や『週刊文春』によると、このころHKT48の国司と守護に任命され、あまたの郡荘を給わったとある。そのHKT48とは武蔵・上総・常陸ともいわれるが、確証はない。

 だが指原の本心は前田敦子を打倒してみずからその地位に代わることであったから、征夷大将軍すなわち総選挙1位に補任されることを最大の目標とし、公家の中心人物であった大島優子がそれに任ぜられることを不満とし、さきに設けた「チーム狩人。」をなかなか解散せず、着々地方の武士を糾合した。ここに前田敦子は指原に逆心ありと称し、秋元プロデューサーも新設の機関たる記録所に指原を警戒して参加させなかった。

 しかし指原の勢いは無視し難く、2010年には正三位太田プロダクション入りとなり、握手会訴決断所の改組に際し、指原の執事高師直以下の指原派が多数参加、4月指原は指原莉乃オフィシャルブログ「指原クオリティー」を開始した。

 さらに指原は秋元康に迫って前田敦子を卒業させ、身柄を弟直義の守る鎌倉に移すことに成功した。前田敦子が失脚すると、中央では大島優子が指原と正面から対決することとなった。

 信濃に兵を挙げた渡辺麻友は、鎌倉に攻め入り、指原の弟直義はその混乱のうちに前田敦子を芸能界から干した。指原は乱の鎮圧を名目として、センター大将軍の地位を奏請したが、秋元康はこれを許さず、大島優子をこれに任命した。
 
 指原は許されないまま東下したため、秋元康は改めて指原に2011年、AKB48メンバー初の単独冠番組『さしこのくせに』を授けた。指原は渡辺麻友の軍を撃破しつつ、鎌倉を奪回した。秋元は指原の功を賞して従二位に昇叙し、上洛を促したが、指原は直義の諫めによって鎌倉を動かず、十一月直義の名で大島優子討伐の檄文を諸国のファンに伝えた。

 指原の叛意が明らかになると、朝廷では指原の官爵を削り、週刊文春に指原討伐を命じた。指原はいったんは博多に閉居したがテレビ出演を続け、建武三年正月入京し、渡辺麻友の軍を破った。
 
 ところがまもなく入京してきた大島優子らの軍に敗れていったん西走、一族を四国・中国に配置しつつ、HKT48に下った。

 西走した指原は、博多の拠点を構えるHKT48を支配下に置く。一部HKT配下の武将の粛清を行ったものの、HAKATA百貨店、HKT48のおでかけ!などの興業イベントを成功させ、財だけではなく、人心の掌握に成功し、HKT自体の勢力拡大に寄与し、配下の武将の育成を成功させるとともに、在地勢力からの自らの人気も獲得した。更に、自らの出生地である豊後国国司、守護からの支持も取り付け、上洛への地歩を着実に構えていた。(この段、「歴史好き」さんによる加筆)

 やがて勢力をもり返してHTK48劇場支配人となり、柏木由紀楠木正成)を兵庫湊川に倒し、2013年6月8日再び入京、総選挙においてAKB48政府軍を完全に撃破した。

 その際に活躍したのは、宮脇咲良(2012年の戦いにおいても活躍していた)、兒玉遥田島芽瑠朝長美桜などの在地勢力と、自ら西行をを志願し、在地勢力の相談役的な立場となっていた多田愛佳であった。((この段、「歴史好き」さんによる加筆)

 ↑いまここ

 大島優子は花山院に軟禁され、神器を引き渡し、吉野に脱出して南朝を立てた。指原は神器の授受が終った五日後、『指原式目』十七ヵ条を制定した。これは指原の施政方針とも見るべきもので、これをもって指原の幕府開設の第一声とみなすことができる。

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