飛鳥の天皇たちの墓周辺がにわかに騒がしくなった理由
古代日本の王様たちのお墓のデザインあれこれ
弥生時代の後半になって、各地で「王」がうまれ、ご当地ものの様々なタイプのお墓デザインができました。(参考エントリー:弥生人の「いつ変わるの?今でしょ!」の決断。銅鐸をリサイクルして槍を作った理由とは)
弥生時代末〜古墳時代初期、いよいよ前方後円墳ができます。箸墓古墳の前にも「前方後円」の形をした旧型ザクのような古墳が奈良盆地で登場します。
ただ、このときは尾張(名古屋)では「前方後方墳」のほうが「セレブ」っぽかったようです。(参考エントリー:邪馬台国時代の「維新の会」構成メンバーは意外なメンツだった)
その後、ご存じのように、前方後円墳が何百年も栄華を極めます。(参考エントリー:実は奈良に超巨大古墳はほとんどない!不動の古墳ランキングが変動!大坂イシハカの会大躍進)
しかし、飛鳥時代になって仏教伝来など外国の文化が入ってくると、「民謡よりはこれからはダンスミュージックではないか」と思い始めます。
飛鳥時代になって、聖徳太子や推古天皇、蘇我氏などの前半戦は「四角」が王の墓となりました。
蘇我氏が大化の改新(乙巳の変、蒸し殺せイルカ=645年)で失脚してしまうと、「うーん、蘇我氏押しの四角ってイマイチじゃない?」と、今度は中国の唐ではやっていた仙人的な八角形墳を天皇陵として取り入れていきます。(参考エントリー:ムー編集者必読!飛鳥京はやっぱり日本に亡命したキリストが作っていた。巨大なダビデの五芒星を池の中から釣りあげに成功!)
と、易しすぎる(おおざっぱすぎる)古墳の歴史を紹介したところで、きょうの本題へと行ってみましょう!
飛鳥時代末の八角形墳を巡り報道合戦!
きょう(2013年5月25日)は、久しぶりに古代史的に熱いニュースが3本流れています。
いずれも、飛鳥時代や古墳時代末期などと言われている7世紀後半のお話です。
登場するのは、「早く仙人になりたーい」でおなじみ(?)の史上最強の女帝斉明天皇とその息子・史上最強の天皇天武天皇の親子です。
一つは共同通信が流している「天武・持統天皇の合葬墓の復元案をあの宮内庁が公表!ババーン」
もう一つは読売新聞と朝日新聞の「斉明ママの墓は2万人の人で作った!ドン!!」
最後のもう一つはNHKの「天武のステージママ斉明女帝の墓からかっけぇぇ(byあまちゃん)ガラス珠発見」
です。
一般的にはガラス珠や2万人のほうが「へぇ」かもしれませんが、古墳マニアにとっては前者の「あの世の中と一切の交流を断っていた宮内庁が!!」って感じで熱いです。本当にこの5年くらいの宮内庁書陵部は、オープンになってきて好感度高いです。
で、なんで、同じ時代の違うニュースが突然、同じ日に流れたのかというと、これは奈良県明日香村教育委員会が24日に、斉明ママの墓説が強まっている源静香古墳、いや間違えました「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」の発掘報告書を刊行したからです。(ちなみにお値段は6300円!ドン!)
この本の中に、色々な要素が載っていて、そのどれをニュースにするかで、各社の判断が分かれたわけです。
天武・持統天皇陵の話も宮内庁の研究者がこの報告書に「寄稿」した論文です。
天武夫妻のお墓はストゥーパ(仏塔)だった
天武と持統は夫婦です。おふたり仲良く埋葬されているわけですが、このお墓自体は、昔から八角形とされていました。
でも天皇陵なので宮内庁以外は調査できません。
それだけにこの情報公開は大きいのです。
日経より
表面を切り石で覆った5段構造と推定。宮内庁が実地調査に基づく同古墳の復元案を提示するのは初めて。
復元案の根拠となる、発掘時の写真などの資料も同時に公表した。
2万人で作った古墳
計算が正しいかどうかはなんとも、そうですかとしか言いようがないのですが。123万人でつくった古墳もあるくらいですから、だいぶ簡素になったといえるでしょう。
読売新聞より
古墳築造の簡素化を定めた「薄葬令はくそうれい」(646年)以降に造られた墓だが、大規模な労働力が投入されていたことをうかがわせるとしている。
同古墳は同時期の天皇陵の特徴である八角形墳で、墳丘は対辺の間の長さ約22メートル、高さ4・8メートル以上。大量の凝灰岩が使われており、重量は、墳丘周囲に敷き詰めた約20キロ・グラムの切石計5280個や約80トンの石室など計275・6トンと推計した。
石は約20キロ北西の大阪、奈良府県境の二上山産。約1000人が切り出し、2人1組で40キロ・グラムを運ぶとして約1万4000人が従事したと計算。さらに墳丘の盛り土などを行う作業人員を合わせ、延べ約2万人が動員されたとみている。
銀の線でつながれたガラス珠
NHKニュースから。時の天皇なのであっても不思議ではないですね。
銀だからさびがひどくて、あまり奇麗でないので、こちらもぜひ復元お願いします!
飛鳥時代の斉明天皇が埋葬されたという見方が出ている奈良県明日香村の古墳から、銀の線でつながれた20個ほどの大小のガラス玉が見つかり、専門家は、「埋葬された人物の地位の高さを示す副葬品だ」と指摘しています。銅で覆われた状態で出土したガラス玉とその周辺を、奈良文化財研究所がエックス線を使って分析したところ、直径1センチほどのガラス玉の周りに、白や緑、茶色の直径1ミリほどの別のガラス玉が20個ほど置かれ、それらは4本の銀の線でつながっていたことがわかりました。
この時代の天皇陵のことはこの本が分かりやすい。