歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

弥生人の「いつ変わるの?今でしょ!」の決断。銅鐸をリサイクルして槍を作った理由とは

 弥生時代から古墳時代へと移り変わる境目というのは、「卑弥呼」「邪馬台国」の登場。そして文字通り「古墳」の登場、ということになっています。

 でも、古墳というのは、ぶっちゃけ弥生時代後半からすでにあります。

 弥生時代の「古墳」(あえて分けて「弥生墳丘墓」と呼んでいる)がどんどん大きくなって、「箸墓古墳「卑弥呼の墓」箸墓の被葬者はエクスタシーを感じながらトランスするちょっとあれな姫だった前方後円墳ができたことをもって、のちの学者たちが「これをもって古墳時代」と線引きしたのです。
 卑弥呼も、そのあとの男王も、松本伊代(イヨ)も、別に「うちらから古墳時代だぜぇ」と思っていたわけではありません。
 
 じゃあ、なにが起きたのか?というと、
 宗教改革があったのです。
 キリスト教からイスラム教へと改宗するくらいの勢いでの変化です。

 ではどんなことがあったでしょうか?

 具体的には、銅鐸という鐘を使っていたおまつりをやめて、偉い人を神様としてまつるようになったことです。

 鐘というより、でかい鈴です。それをしゃんしゃんならして、「来年もお米とれますように、田んぼの神様、トイレの神様、お願いしま〜すね〜」と踊っていました(たぶん)。

 それが、「偉大な首領恵美嘉樹さま。死んでしまったけど(死んでないって)、これからも我らをお守り下さい」と、ご先祖含めた個人崇拝になって古墳(墳丘墓)をつくったのです。

 つまり、「心の変化」で考えると、弥生時代古墳時代の境とは、卑弥呼の時代ではなく、むしろその数世代前ということになります。(なんで偉い人が神様扱いされたのかなど詳しくは拙著最新 日本古代史の謎を読んでくださいませと宣伝)

 こうした一大宗教改革のときには、古いほうの宗教の素材は捨てられてしまいます。

 出雲では、まとめて銅鐸が大量に埋められています。(例えば、日本最多となる39個の銅鐸が見つかった加茂岩倉遺跡)

写真はパノラミオから

 また、金属は貴重なので、再利用するケースもあります。
 そんなケースが、きょう(2013年4月23日)毎日新聞ほかが報じていました。

奈良県桜井市の大福遺跡で、弥生時代後期から古墳時代前期初頭(2世紀中ごろ〜3世紀後半)にかけての整地層から、「筒状銅器」(長さ9.1センチ、直径2.2センチ、厚さ最大4ミリ、74グラム)1個が見つかった。同市文化財協会が22日、発表した。用途は不明だが、やりの柄の「石突き」や、音を鳴らす器具だった可能性がある。

 この時代は銅鐸(どうたく)を使う祭祀(さいし)が終わりを迎え、銅鐸を別の銅製品に造り替えていたとみられ、銅器の変遷をたどる貴重な資料。筒状銅器は東海地方を中心に10例出土しているが、奈良盆地では初めて。

 銅器は長さ約4センチと約3センチの切れ目(スリット)が、それぞれ対に入っていた。古墳時代前期中ごろから中期の古墳副葬品「筒形銅器」と形が似ており、祖型とする説もある。【矢追健介】

共同通信神戸新聞WEB


 祭祀で使うやりの柄の末端や、儀仗に取り付けていたとみられる。これまで9県10遺跡でしか出土しておらず、奈良県では初確認。

 同遺跡では、弥生時代の祭りで使った銅鐸を鋳つぶして、別の銅製品の材料にしていたことが過去の調査で分かっており、担当者は「銅鐸をリサイクルした可能性もある」としている。

 大福遺跡は、桜井市橿原市にまたがる弥生時代前期から古墳時代までの集落遺跡で、「坪井・大福遺跡」と呼ばれています。坪井が橿原市域、大福が桜井市域ですが、同一の遺跡です。
 奈良では、唐子・鍵遺跡(楼閣の絵の土器で有名)に匹敵する集落で、「ヤマト建国」(纒向遺跡)の際に、味方だったか、敵だったかわかりませんが重要な役割を持っていたことは間違いありません。
 そんな彼らが
 「いつ変わるの?いまでしょ!」
 と言いながら、銅鐸をつぶして、古墳を守る儀仗兵用でしょうか、やりのお尻(石突き)につける金属部品へと再加工したのでした。


【追記】2013/04/24

奈良新聞に識者コメントあり

筒状銅器はこれまで東海地方を中心に10カ所で出土。山口大学の田中晋作教授(考古学)は「東海系の遺物と認識していたため、まさか奈良盆地から出土するとは」と驚く。

 古墳の副葬品で似た形の「筒形銅器」との関係も注目される。細部の特徴が同じで原形とされる「筒状銅器」がヤマト王権のお膝元で見つかったことで、その後につながる筒形銅器の製作に王権がどう関わったのか、研究課題となりそうだ。

 筒形銅器は出土例が多い朝鮮半島から日本に伝わったとする説もあるが、国内で作られた可能性が高まった。

 田中教授は「奈良盆地東南部エリアで出土した意味は大きい。これまでの考え方を変える必要がある」と話す。

卑弥呼邪馬台国エントリー

参考 坪井・大福遺跡とは(橿原市HPより)

 坪井・大福(つぼい・だいふく)遺跡は橿原市の北東部に位置し、都市化の波が押し寄せてはいるものの、のどかな田園風景が多く残る地域で、奈良盆地東南部、多武峰(とうのみね)の北東から北西に流れる寺川の右岸に立地する標高約65mの水田地帯です。周辺には寺川水系に沿って大福池(だいふくいけ)、東新堂(ひがししんどう)遺跡など縄文時代晩期から弥生時代にかけての遺跡群が分布しています。
 もともとは橿原市北東部に位置する坪井遺跡と、桜井市北西部に位置する大福遺跡の、それぞれ単独の遺跡と考えられていました。かねてから大和における弥生時代の主要遺跡の一つとして考えられてきましたが、本格的な調査は1986・87年(昭和56・57)に奈良県橿原考古学研究所によって耳成高校建設のための事前調査が実施され、これを契機に橿原市教育委員会が数次にわたり調査を実施しました。
 その結果、環濠と思われる大溝や土坑、井戸、墓地群などの遺構が確認されています。
 とくに、1987年(昭和62)に行われた第7次調査においても類例が少ない弥生時代前期末の木棺墓が2基検出され、棺内には良好な状態で人骨が残っていました。また、土器、石器、木製品、獣骨類なども遺物も大量に出土しています。なかでも土器片に人物などが描かれた線刻画土器、有柄式銅剣(ゆうへいしきどうけん)を模してつくられた木製の柄頭(つかがしら)など全国的にも類例を見ない遺物も含まれています。
 このことから坪井遺跡と大福遺跡は弥生時代前期から古墳時代まで継続する一つの大集落跡であることがわかりました。遺構の密度、遺物量などから唐古・鍵遺跡(田原本町)と同様に大和を代表する弥生時代の遺跡です。

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