中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠で出会ったフットサルグラウンドは石敷きだった?足痛そう【飛鳥】
photo by tomosuke214
奈良県明日香村は昨日(2013年1月30日)、中大兄皇子と中臣鎌足と出会ったとされる蹴鞠の場所とされる「飛鳥寺西方」遺跡で、石敷き(7世紀中頃〜後半)が見つかったと発表しました。
石や砂利がびっしりと敷き詰められており、飛鳥時代のフットサルは芝生ではなく石の上でやっていたのかもしれませんね。(上の写真は京都・下賀茂神社)
日本書紀では、この広場を「法興寺(現・飛鳥寺)の槻(つき)の樹の下」としています。
大化の改新(645年)の前年、蘇我氏討伐の計画を打ち明けようと、中大兄皇子に近づくために、鎌足がここで行われた蹴鞠(打鞠)をしているときに、皇子があやまって飛ばした靴をひろったことで知られています。
槻(けやき)という木に大きな意味があって、飛鳥王朝の「聖なる樹」だったという辰巳和弘さんの説(聖樹と古代大和の王宮)もあります。
大化の改新のクーデター成功後には、この槻の下に群臣を集めて、忠誠を誓わせています。
また、中大兄皇子(天智天皇)の死後におきた壬申の乱でも、軍営が置かれるなど、歴史の重要な舞台でありつづけました。
今回の発掘では東西15×南北24メートルを掘って、ほぼ前面に石敷きが確認されましたが、ケヤキの木の根の跡は見つからなかったそうです。
現説は2月2日午前10時〜午後3時です。
=写真は広い範囲で出土した石敷き。中央は、石敷きが欠落し、人為的に掘り込まれたとみられる謎の穴、朝日HP
恒例のコメント集
木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「当時の王権にとって最も重要な広場にふさわしい様子が確認できた。日本書紀の記述通り、近くにケヤキの木の根も埋もれているのではないか」と話している。(読売新聞)
木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「寺の西門前に近い場所で、整然と敷き詰められた石敷きが確認された成果は大きい。槻の木の広場の中枢に近いエリアであることは間違いなく、近くに槻の木もあったとイメージできる」と話している。(産経新聞)
村教委は「これだけ広範囲で確認されたのは初めて」(奈良新聞)
*用途不明の穴も見つかっていて
担当者は「ケヤキが生えていた跡かと思ったが、深さが40センチしかなかった。噴水などを設置した形跡もなく、謎だ」と引き続き調査する方針。(日経)
長谷川透技師は「石敷きが造られた後に掘削されたようだが、何のためだったかは不明」という。(朝日新聞)