【戦国時代速報】明智光秀のマブダチの吉田さんの幻の日記が見つかった【信長様きょうはご機嫌】
戦国時代の根本史料である京都吉田神社の神主・吉田兼見(かねみ)(1535〜1610年)の日記「兼見卿記(かねみきょうき)」のうち、これまで知られていなかった(原本ではなく筆写された)文書69点が、東京大学史料編纂所で「発見」されました。
きょう(2013年1月4日)の読売新聞夕刊が報じています。(まだネットには流れていないようです)
2011年に編纂所の中で「兼見紙背」と書かれた茶封筒を見つかり、中には、原本を写した原稿用紙がたくさん入っていたそうです。編纂所の金子拓助教、遠藤珠紀助教が調べたところ、「兼見卿記」の紙の裏に書かれた文書を写したものとわかりました。
中には、
天正9年(1581)に明智光秀が織田信長に出陣を命じられた鳥取城攻め(同じ年に秀吉が包囲して落城させた城)についてや
天正7年(1579)に京都で鷹狩りをした信長は「一段と機嫌がよかった」と報告した書状など
があるそうです。
吉田兼見は、鎌倉〜南北朝の随筆「徒然草」の吉田兼好の子孫です。
それはともかく、戦国時代においては、吉田兼見は信長・秀吉・光秀と直接をやりとりをした京都政界の重要人物でした。
とくに光秀と仲が良かったのです。
そのため、この「兼見卿記」のポイントは、天正10年(1582)の分が2冊に分かれていることです。1冊目は6月12日で終わっているという。
というのも、1582年6月2日に本能寺の変が起きています。
7日、カネミさんはあろうことか天皇の勅使として、安土城にいた光秀と対面して、たぶん「よくやった」とか言っちゃっているのです。さらに銀50枚もらったりしています。
その後、ご存じの通りの三日天下(11日天下)によって13日に光秀は秀吉に倒されます。
とうぜん、カネミさんは「やばい、やばい、どうしよう」というわけで、日記を分割することに至ったのです。
今回発見されたのは69点で、年月日が分からない記述が多いそうですから、カネミさんが隠そうとした本能寺の変の裏事情なんかが分かると、すごーく面白いんですけどね。
金子拓さんは最近、一般書を含めて、たくさん本を書いていて、意欲的な若手(たぶん)研究者です。これからの戦国史研究のニューリーダーとなると、恵美嘉樹はみています。
↓面白かったです。
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遠藤珠紀さんは、知りませんでした。はい
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