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歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

秀頼は秀吉の子でなかった。暴走した淀殿と怒りを秘めた秀吉が起こした大虐殺(後編)

河原ノ者・非人・秀吉

河原ノ者・非人・秀吉

きのうのエントリー書評の続きです。
前回は秀吉がストリートチルドレンだったということですが、今回は本題の「秀頼は秀吉の実子にあらず」です。

 秀頼の幼名が「拾(ひろい)」という投げやりな名前に、違和感を持っていた人は多いのではないでしょうか?
 恵美嘉樹もそんな一人です。

 
 大切な大切な1粒種なので、立派な名前を付けると、神様から嫉妬されてしまうから、なんて理由付けがされて、「へぇ、そんなもんなんや」と思っていましたが、どうやら、秀吉は非常に冷酷な意味でこの「拾った子」と名付けましたね。ブルブル

 あと、淀君(ちなみに「〜君」というのは遊女に付ける呼び名で、江戸時代につけられた蔑称です)が秀頼を自分のお乳で育てたというエピソードも、「秀頼マザコン」像や「両親の溺愛説」をつくる逸話として、自然に受け入れられていますが、これもすごく変ですよね。


 身分の高い人は、必ず乳母がつくもの。これは日本の鉄則中の鉄則です。
「子がかわいくてしかたないから母乳で育てます!」なんていうのは、やっぱり現代人の感覚。


 超高貴な姫である淀君が母乳で育てるなんて、変なんです。その理由も、わかってしまいました。これもまた秀吉の残忍な、、、ブルブル


 それと、これはこの本の中で服部さんのさらっと触れている説ですが、
関ヶ原の合戦で、いちおう西軍は、毛利が大将でありますが、あくまで象徴としてのトップ(公儀)は秀頼でありましたが、秀吉に近い、武将たちの多くが東軍についたのも、色々と説明されていますが、どうもしっくりこない。


 どう考えても、家康が勝てば秀頼の立場はまずくなることは明々白々でしたから。

 それも、秀頼の出自に、当の秀吉も大いに疑いながら、ぐっと「豊臣家」のためにのみ込んだという事情をしるという秀吉に近いが故に、秀頼への素直になれない思いがでていたという、服部さんの説は、非常に説得力がありますね。

 
 言葉は雑ですが、「大金持ちの亭主が留守の間に、セレブ妻が麻薬パーティを開催して、らりって、トランス状態になって、乱交した結果、生まれた子」という秀頼像は、歴史学的にも、この本によって主流になると思われます。

 が、関ヶ原の合戦の理由にまで一気に進むかは、きっと時間がかかるのでしょうね。

以下、(*なんとかかんとか)は恵美の注釈です。


第十一章 秀頼の父

  • 一 疑い

最初に確認しておきたいが、秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロなのである。

正確な数はともかくとして、秀吉が常人に比すれば、はるかに多くの女性と愛し合うことができたことは間違いない。けれど、こうした環境にもかかわらず、秀吉は一人の子も授からなかった。

この二人(*秀吉と茶々=淀殿)の組み合わせのみに、それほど都合よく子どもができるものなのか。秘密があるとみるべきだろう。


秀吉との間では子ができなかったが、別の男性との間ならば、子を産めた女性が少なくとも3人は確認できる。

(秀頼の父は)
筆者(服部)はこの無名法師が父だという江戸時代の学説に親近感をもった。さまざまな状況がそれなりに合うと思われるからだ。

さて、この分野での近刊書が、福田千鶴淀殿』(ミネルヴァ評伝選、二〇〇七)である。
ここで福田氏は、秀吉は秀吉の子(実子)にまちがいないと断言している。秀吉は残忍なまでに嫉妬深く、淀殿(茶々)は「貞淑」で、「密通」などできるはずがないから、とのことである。
「貞淑」という根拠は不明で、少なくとも同時代人・内藤隆春が伝えた事実とは正反対である。淀殿は秀吉の死後も落飾(*尼さんになること)しなかった。

 二度も不義を働いて秀吉の子をなすことは考えにくい。その点は同感である。ただ視点をかえれば、、、
 秀吉自身がかかわり、秀吉が命令して、生物学的には秀吉の子ではない子を、茶々に産ませた。それならば不義でも密通でもない。断罪もされない。

福田千鶴さんは著名な女性史研究者ですが、最近はちょっと首をひねる内容が多いですね。
下の「江の生涯」とかは、これってもしかしてドラマ?というくらいの内容でついていけなかった思い出があります。

江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)

江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)

    • 受胎日に別の場所にいた夫婦

 鶴松(*第一子、早世)受胎時には、秀吉は京都または大坂周辺にいたから、この点での問題はない。問題は秀頼(拾)誕生の時である。
 実子説に立つなら茶々は秀吉に随行して肥前国名護屋城に滞在していたことになる。
 わたしは茶々が名護屋城にいなかったことを論証する

  • 二 豊臣鶴松の場合

 子ができない夫婦に、どのようにして子ができるのか。民俗事例でいえば参籠(さんろう)がある。
 子宝が授かるように神仏に願掛けをして、通夜参籠(おこもり)をする。
 毎日毎夜の読経三昧で宗教的な陶酔が頂点に達すると、妻が法悦を体験し、やがて子が授かった。
 参籠の場がしばしば男女交情の場になったと指摘している。
 どうしても子に恵まれない夫婦にも、いよいよのときは子が授かる仕組み・可能性が民間につくられていた。

 通夜参籠と同じ装置が設定された。聚楽城または大坂城の城内持仏堂が参籠堂となったか。宗教者が関与したと想定する。
 宗教的陶酔をつくり出すプロは僧侶ないし陰陽師だった。

 (*茶々と性交する男は)人格をもとないこと、それが必須条件だった。人格があれば、豊臣家の将来に禍根を残す。親権者の登場は避けなければならない。
 おそらく現代の非配偶者間受精の考え方と同じだっただろう。

 鶴松の誕生前と拾の誕生後には、不可解な事件が起きて、犠牲者が多数出ている。

 鶴松の誕生は天正17年(1589)5月27日である。その前には聚楽城南鉄門での落書き事件があった。同じ時期に本願寺とのかかわりのある事件もあって、双方あわせ、極刑に処されたものが100人以上出た。

 秀吉はその一方で、貴族や僧侶に金配りを行った。
 秀吉にしてみれば当然予祝(*子ども誕生の前祝い)の意味合いがあった。
 こうした流れがつくられて、誰の子か、不義ではないのか、というような詮索よりも、五十を過ぎた秀吉に男子が授かった奇跡が、喜びとして固定された。

 鶴松誕生時には書き上げきれないほどの祝賀記事が残されている。しかし拾(秀頼)誕生時にはこうした祝賀が、まったくといってよいほど記録されていない。
 鶴松誕生時には大がかりな仕掛けがあって、あきらかに祝賀ムードが作為された。秀頼の時はそれがなかった。

 生母・淀殿(浅井氏)は、鶴松の母(育児権をもつ母)として認められなかった。(*当然、母乳で育てませんよね)
 淀君は小田原参陣を命じられている。
 鶴松はまだ満一歳にもならぬ幼児だった。 
 それにもかかわらず遠く関東までの出陣を命じられた。
 
 母なる人は別にいた。
 母は北の政所(寧、ねね)である。
 秀吉の養子を列挙した。子たちには実の父母がいたが、養子になれば新しい父母ができる。つねに子の父は秀吉で、母は北政所であった。
 鶴松は他の養子と同じように扱われた。

 

 淀君懐妊を知らせる、北政所から名護屋城佐賀県)にいる秀吉の書状がキーとなります。
 有名な書状で、これまでは待望の懐妊に秀吉が素直に喜んでいる、とされてきましたが、実は・・・・


「このところ、ちょっと咳が出ていたもので、お返事おくれてすみません。
茶々が懐妊したこと、うけたまわりました。めでたいことです。
われわれ夫婦は、もう子はいらないと心に思ってきました。
太閤の子は鶴丸のみでしたが死んでしまいました。茶々の子は「仮の子」であります。」(秀吉から北政所あて)


 恵美嘉樹訳なので、間違いもあるかもしれませんが、怖くないですか? これが子どもの誕生に喜ぶ父親の手紙に見えますか?
 そうした視点で見ると、筆まめの秀吉がすぐに返事をしていないということが冒頭からわかるのですが、怒り心頭で、すぐに手紙を出せない精神状況だったことがうかがえます。


 最後の一文は原文では
 「にのまる殿(*茶々)はかりのこにてよく候はんや」(二の丸殿は仮の子にてよく候はんや)

 直訳すると「二の丸殿は仮の子ということでよいということにしましょうか」

 服部訳は「生まれる子は茶々(二の丸殿)一人の子でよい」と、ちょっと抑え気味にしています。
 

 ただ、これは不倫をした、というのではなく、1子の鶴松のときのように、「参籠」によるトランス状態で、宗教者と交わって種をもらったということです。
 問題は、これが秀吉の指示によるものでなく、茶々の子がほしいという暴走の結果なことです。

 こうして秀吉の怒りを秘めたまま、第二子(拾=秀頼)が生まれます。

 秀吉の「復讐」が当然、始まります。

 母子面会のひと月半後からは悲惨なばかりが続く。
 秀吉留守中に起きた不祥事に関して、唱門師(陰陽師)が追放された。
 これがこの先、数年に及ぶ唱門師大弾圧の始まりである。
 唱門師はシャーマンとして心理を操り、トランス状態を招くことができ、霊的処術が可能だった。いかがわしい魔術もあったかもしれない。
 発端は女房不祥事
 女たちは大坂城内の全員ではない。「若公ノ御袋家中女房衆」すなわち淀殿周辺にいる女房らだと明記している。

 唱門師追放の翌日からは淀殿付き女房の処刑が開始された。

 そして、また有名な秀吉の書状がでてきます。今度は淀殿あて。
 これも、秀頼を溺愛する父の愛情にあふれている、とこれまで言われてきたものですが、じつはかなりホラーな展開だったことがわかります。

 「拾(ひろい)には乳をよく飲ませろ。乳が足りないならお前が飯をよく食え。
 お拾ちゃんは健気よのう。そのうち会おう。きちんと糾明したあとでな。私はいまだ腹の中で業火を燃やしているよ」
 結構、あいまいな書き方なのですが、恵美訳ではこんな感じです。
 
 これまでの定説は、冒頭の「赤ちゃんにおっぱいをたくさんあげなさい。でなければご飯をちゃんと食べてねハート」と訳された部分だけで愛情あふれるとされてきました。が、その後には、「糾明」「業腹(ごうはら、腹の中に業火が燃えている、激怒しているという意味)」というただならぬ言葉が並んでいるのです。

このような手紙をもらって茶々がうれしいはずはない。
身近にいた女房たちの大量処刑が宣言される。そうしたなかでの手紙である。
「多数の男女と仏僧」(フロイス)がまもなく処刑された。おそらく拾(秀頼)の生物学的な父親は、このときに殺された。

そして、おいっ子の関白秀次の「反乱」についても新しい説を提示します。

 通説では秀頼という実子が生まれたことにより、秀次の関白という立場が不安定になって、反逆したことになっている。
 しかしちがってくる。
 明らかに実子ではなく、本来なら犯罪行為の結果の子として葬るべき子どもを後継者にした。そのことに、強く反発したのではないだろうか。

さらには関ヶ原の合戦にまで

 関ヶ原合戦にて、秀吉血筋のもの、浅野長政福島正則加藤清正木下勝俊らがみな東軍について、徳川家康政権の樹立に加担した(秀頼補佐役だった小出秀政の家でさえ東・西軍に分かれた。)
 幼少時から北政所に育成され、いったんは秀吉の後継者とされながら小早川家に養子に出された秀秋も同じである。関ヶ原での離反も理解できる。

 あっけなかった豊臣家の瓦解・滅亡も説明できる。

というわけです。

以上が、戦国のタブーを切り開いた本書の核心です。
いかがだったでしょうか。


そもそも、あやしい陰陽師が、大奥に近づくことができたのか?
それには、賤視されながらも、高い特殊技能を持つ人々を優遇しないといけないという支配者の理論があったのでした。

 戦国大名は皮革製作に従事する人々、つまり賤視された人々を、一部の特権を付与しつつ、囲い込んでいた。
 戦国大名や家康と、皮革業者との関係は、現代的にいえば、公共事業による軍需産業保護であった。


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