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【歴史書まとめ】恵美嘉樹が選ぶ今年のベスト歴史書は『河原ノ者・非人・秀吉』。レビュー(上)「秀吉はストリートチルドレンの衝撃」

九州の戦国史研究の第一人者服部英雄・九大名誉教授の大著『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版)は、今年(2012年)刊行された歴史書の中で、まちがいなく一番の話題の本といえるでしょう。

河原ノ者・非人・秀吉

河原ノ者・非人・秀吉

注目されたのは、「ストリートチルドレンだった秀吉」「秀頼は秀吉の実子ではない」ということを、小説的な想像ではなく、歴史学の史料に基づいて証明したことです。

713ページの大著ですが、その一番インパクトのある部分は、それに対応する終盤の10、11章です。
まとめの形で、引用していきます。
今回は第10章を掲載します。11章はあすにでも(たぶん)

この本、そして秀吉の部分はタブーに切り込んだ歴史学の名著となるでしょう。

ただ、秀吉の部分だけをピックアップすると、逆に「差別」を強調する、差別に対する世間の好奇心だけを刺激するという心配もあります。

そこで、最後に筆者の「おわりに」の一部も引用しました。どういう思いで、筆者がこうした研究をしたのかを知ってもらいたいので、情報としては不要かもしれませんが、どうか目を通してください。


第十章 秀吉の出自
 一 賤の環境
  1 針売り

若き日の豊臣秀吉、すなわち木下藤吉郎は賤の環境にあった。石井進の遺書『中世のかたち』は、このことに初めて言及した歴史書である。
若き日の秀吉が針を売っていたこと、そして妻となった「ね」が連雀商人の家の出であったこと
秀吉の周辺には賤視された環境があったという。

  2 賤(あやし)の子・乞食

出自について、同時代、またそれに近い時代の人はどうみていたのか。


*父竹中半兵衛からの聞き取りが反映された竹中重門の『豊鏡』(寛永8年<1631>)では

「あやし」の子とくりかえし強調され

  3 猿まね芸

どこにも頼る人がいなくて、一人の子どもがどうして生活していけるのか。路頭に迷って、ストリートチルドレンになった。
秀吉は生まれつきの賤民ではないが、貧困の流浪生活中に、短期間、乞食村にいたと思われる。
江戸時代の非人(乞食)は足抜けが可能だったが、それはこの時代にも同じであった。大道芸で成功し、蓄財に成功すれば、村から出ること(足抜け)は可能であった。脱賤である。
清洲でも、ほかでも猿を真似た大道芸を見せつつ、針に付加価値を付けて売った。

大道芸といえば、、、油売りだった斎藤道三は、一文銭の穴に油を通す妙技で人を集めた。

 二 フロイスが記した秀吉
  1 古い蓆(むしろ)、茣蓙(ござ) esterias velhas

 「彼は美濃の国に、貧しい百姓の倅として生まれた。彼は今なお、そのことを秘密にしておくことができないで、極貧の際には古い蓆以外に、身を掩うものとては、なかったと述懐している。重立った武将たちと騎行する際には、他の貴族たちがみな馬に乗っているのに、彼だけが馬から降りた」
 
 ムシロを携行する生活、つまり確実に乞食生活を経験している。

  2 フロイス記述の真実性 − 六本指だった秀吉

フロイスの記述には日本史研究者があまり知らない内容が多く含まれる。そんため従来は研究者であっても記述を疑う意見が強かった。例えばフロイスは秀吉には一つの手に六本の指があると書いた。

前田利家の伝記である「国祖遺言」(金沢市図書館、加能越文庫)に、秀吉は六本指であると記述されていた。

織田信長は六本指の秀吉を、「六つ目」と呼んでいたという。秀吉は天正十五年(1587)、五十歳まで六本指だったから、死ぬまで切り落とさなかった。

前田利家の記述も、フロイスの記述も、それぞれが孤立した史料であった間は信憑性を疑われた。しかし同時代人による証言が複数揃った以上、もはや疑ってはならない。

400年後の研究者にはわずかな部分的情報しか与えられていない。それを自覚しよう。

  3 殺された秀吉の「弟」「妹」

「ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。
秀吉は、ただちに若者、そしていっしょに来た人々を捕縛し、秀吉の前に連れてこさせて、首を切った。
その三か月か、四か月あとに、関白は尾張王国にほかに姉妹がいて、貧しい農民であるらしいことを耳にした。
京都へ来るように命じた。
到着するや否や、冷酷で残酷にも首を切られた。」

 三 秀吉の縁者と連雀商人
  1 秀吉は父のない子

『豊鏡』は秀吉の父母の名を知る人はいないとした。秀吉の父は木下弥右衛門だと思いこんでいるわれわれの感覚は、同時代人とはまったく異なるものだ。
父の菩提寺を建立しなかったこと、贈官の追福もしなかったことが根拠である。
寺がないというのは説得的ではないか。

秀吉は母や妻の縁戚者を多く武将に取り上げた。
加藤清正は、その母が秀吉母と従姉妹だった。
大谷吉継も杉原(木下)一統に含まれるかもしれない。
しかし、父の縁戚筋が登場しない。

秀吉縁者が秀吉を頼ってきたことはフロイスがくわしく記述している。父方の伯叔父や従兄弟たちがいたのなら、仕官を希望しないわけはない。不思議だが、父がいなかったから、その係累もいなかったと考えれば当然のこととなる。

  2 秀吉の縁者・その1 れんじゃく商い、清須の七郎左衛門(杉原家次)

「れんじゃく」とは、商品を連尺で背負って売り歩くこと。また、そのあきない、つまり行商をいう。
石井進『中世のかたち』は、連雀商人は差別された存在だと強調している。

  5 周辺の人物像

蜂須賀小六が野伏総帥だったことは『太閤記』のような俗書にしか記述がない。
渡邊説(*『蜂須賀小六正勝』1929)が俗説を否定した最大の根拠は、天正十七年(1598)頃には(*秀吉と小六が橋の上で出会った)矢作川は「渡し」で、慶長五、六年(1600、01)頃になってはじめて架橋されたという点にある。
しかし建武二年(1335)に橋はあった(太平記)。もともと橋は架橋と流失をくりかえす。天正十七年に橋がなかったからといって、その四十年前の天文二十年(1551)当時にも矢作川橋が存在しなかったとは断定もできないし、橋の上でなくても接点をもつことはできた。

おわりに

歴史の仕事について(旧)被差別部落での聞き取りを行ってみると、この時代に結婚差別を受けたものの、克服しえた体験を聞くことができた。
教育者のはずの義父が孫の顔を見に来るまで十年以上もかかったという。
結婚式に出席しなかった新郎伯父は、数年後になって、悪かった、と心から謝ったそうである。
結婚にいたったケースでも、父母は認めたが伯父や叔母が反対したというケースが多かった。父母は本人を知っているから、認める。自分の子を信頼し、子の選択を支持する。
しかし本人を知らない親戚が反対する。破局にいたるまで徹底的に追いつめる。本人を知りさえすれば、差別したことを反省する。理解できれば、逆の立場になって、考える。
悲しいことに、知らない人間だけが差別を続ける。

後編に続く