歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

創刊!週刊歴史ニュースアラカルト。特集は「破壊される遺跡」

ニュースアラカルトは、日刊から早くも週刊ベースになりそうなので、開き直って「週刊化!創刊!」笑

先週(11月末)のヘッドニュースは、やはり
「日本最古級のひらがなが平城京で見つかる」(11月30日)
でしょうか。詳しくは二つのエントリーをどうぞ

  • 今週の特集は「破壊される遺跡、文化財」です。

イタリアの通信社「ANSA」は30日、イタリアの世界遺産ポンペイの壁が崩れたと報道しました。


=写真はANSA
雨が続いたことが原因のようですが、真の原因は「お金」です。

ポンペイはいわずとしれたローマ帝国時代の西暦79年、ベスビオ火山の大噴火によって、火山灰に埋まった都市です。
火山灰で「真空パッケージ」されていたため、今の私たちの目の前に当時の様子そのままで存在するのです。

つまり、火山灰という保護膜がなくなると、壊れます。いま、ローマ時代の町が残っていないのは、人が壊しただけでなく、やはり風化するからです。

柔らかい火山灰なので掘るのは簡単なので、後先考えずにガンガン発掘したはいいけど、掘り出した建物を壊れないように維持するのに、ものすごーくお金がかかります。今では、新たな発掘は資金(保護のほうの)の問題から原則的に認められていないそうです。

ポンペイ遺跡はもちろん入場料有料(たしか2000円くらい?)なわけですが、なかなかあれだけ広いと、まかなうのは難しいようで。

ナショナルジオグラフィック(November 30, 2012)
では、エジプトの岩壁の壁画への「破壊」を嘆いています。

丘陵の中腹にある傾斜した岩壁に、船に乗ったファラオが描かれている。エジプト南部、アスワン北西のナグ・エルハンドゥラブ(Nag el-Hamdulab)で見つかった岩絵は、いずれも不毛な砂漠地帯に隣接している。昔から孤立した険しい場所にも関わらず、破壊の手から免れることはできなかった。故意に削られたり、人の名前と“1960”という年を表す数字が約5000年前の岩絵に彫られていた例もある。

今回再発見された岩絵の今後について、研究者らは懸念の色を隠せない。ナグ・エルハンドゥラブは監視員が2人体制で見張っているが、人口の多いナイル川東岸と西岸を結ぶ橋が建設され、ここ15年ほどで周辺には人が多く出入りするようになった。「岩絵の破壊は非常に残念。数十年前まではほぼ完全な状態で保存されていたのに。重要な遺跡なので、保護・保存する態勢を早急に整える必要がある」と、イェール大学の考古学者マリア・ガット(Maria Gatto)氏は訴える。

Photograph courtesy Hendrickx/Darnell/Gatto, Antiquity

遺跡を守っていくのは、地道なところから。とくに日本では、遺跡発掘=破壊さよなら〜な現状からは、ちゃんと報告書を後世に残す必要がありますよね。

山梨日日(12月1日)

インターネット上で遺跡発掘調査報告書を無料公開する全国的な取り組み「遺跡資料リポジトリ(電子書庫)」に、連携して取り組む県教委と信州大付属図書館が30日、協定を結んだ。専用サイトの本格運用が始まり、遺跡調査の成果がまとめられた70冊が公開されている。

県教委が報告書の電子データを提供し、同図書館がサイトを運営する。連携して開設したサイトには著者や地域、遺跡の種類などの検索機能があり、報告書を無料で読める。

公開件数は県埋蔵文化財センターが2005〜12年に発行した調査報告書70冊からスタート。市町村教委の協力も得ながら、本年度中に140〜150冊の登録を目指す。

30日は県庁で会見があり、同図書館の笹本正治館長(甲斐市出身)は「発行部数が少なく、手に入りにくかった報告書を手軽に読むことが可能になる。多くの県民に利用してもらい、文化の発展につなげたい」と話した。

関連リンク

  • 震災復興の道しるべとして古代の景観をいかす試み@宮城・多賀城

 恵美嘉樹もきっとこうした歴史と景観を守ることが、(遠回りにみえても)復興の近道だと信じています。がんばってほしいですね。

復興&景観:多賀城でフォーラム 新史都づくりを議論 /宮城− 毎日jp(毎日新聞)ソースURL: http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20121123ddlk04040081000c.html

 独自の基準や規制でまちづくりを進められる「景観行政団体」に昨年移行した多賀城市で22日、県と市が主催する「みやぎ景観フォーラム 史都多賀城の復興に向けて」が開かれた。景観形成への市民の関心を高めるのが目的で、震災復興と合わせた新たな史都づくりを熱心に議論した。
 多賀城市は「歴史まちづくり法」に基づく「歴史的風致維持向上計画」とセットで取り組み、国特別史跡多賀城跡や貞山運河の周辺などを重点地区に14年度までに景観計画を定める方針。
 基調講演した石川幹子・東大大学院教授は「復興と景観を同じ土俵に上げてほしい。津波対策の防潮堤や防災林も文化的景観に配慮を」と強調。パネルディスカッションに加わった菊地健次郎市長は「多賀城跡の南門復元やフラワーパーク化を含め、多賀城らしい復興まちづくりを進めたい」と語った。
 市は来年1月末まで、市民を対象に「あなたが撮った大好きな景観」のコンクール写真を募集。景観に関する市民アンケートやワークショップも実施して計画策定に生かす。【渡辺豊】


過去エントリーの続報です。

関連記事「信長」リンク

歴史秘話ヒストリアで紹介されたためでしょうね。愛知県の小牧市小牧山城(信長が初めて築いた石垣が発見された)の現地説明会が過去最高を記録しました。

小牧山城現説に700人
YOMIURI ONLINE(読売新聞)ソースURL: http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20121202-OYT8T00570.htm

 国史跡・小牧山城の第5次発掘調査を行っている愛知県小牧市教育委員会が1日、今年度の発掘の成果を発表する現地説明会を開いた。小牧山城の現地説明会では過去最高の700人が訪れ、説明に聞き入った。
 同市教委によると、近代城郭の原型は織田信長が造った安土城とされてきたが、安土城築城の13年前の永禄6年(1563年)に、信長が美濃攻略の拠点とするために築いた小牧山城から本格的な石垣が発見され、城郭の歴史を塗り替える可能性があるとして注目されている。
 これまでの説明会では、2年前の650人が最高だったが、テレビの歴史番組でも取り上げられたため、過去最高を更新。文化財係職員が、今年度の調査対象となった南東斜面の石垣など約460平方メートルで、野面積みと呼ばれる石垣が見つかったことの意味などを説明した。
(略)

古墳時代

 これ面白いそうですね。埴輪を見えるところに置いたのではなく地中に埋めていたそうです。
 無難なお祭り説から、無粋すぎる「工事中の目印」説なんてでています。
でも、やはり人間が生き埋めされて殉死するかわりになったという神話上の埴輪の起源と結びつけたくなりますよね〜。
 これがでた古墳の「造り出し」という場所は基本的にお祭りをする場所なので、工事の目印はないでしょう。

古墳土中から大量の埴輪片 奈良、祭り説や目印説
日本経済新聞ソースURL: http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2500T_V21C12A1CR8000/
2012/11/25 20:17
 大和王権を支えた有力者の墓とみられ、陵墓参考地として宮内庁が管理する奈良県広陵町の新木山(にきやま)古墳(前方後円墳、5世紀初め)で、築造途中に埋めたとみられる大量の埴輪(はにわ)片が出土していたことが25日、同庁書陵部への取材で分かった。
 埴輪は本来、墳丘上や周囲に立て並べる葬送具で、土中からの発見は異例。用途は謎で、書陵部からは「工事中の祭りに使い、そのまま埋め込んだ」、研究者からは「工事の目印」などの説が出ており、論議を呼びそうだ。
 2010年に書陵部が墳丘外周を調査。くびれ部の左右に張り出した「造り出し」と呼ばれる祭祀(さいし)用土壇の片方から、朝顔形埴輪と貴人にかざす傘をかたどった蓋形埴輪、円筒埴輪の破片約130点が出土した。
 調査した清喜裕二主任研究官は「出土場所はいずれも造り出しの先端近くで、墳丘と外界の境。『結界』を意識する特別な場所だった」と指摘。
 3種の埴輪片はそれぞれ異なる深さに埋まっており、「古墳は少しずつ土を盛り、固めながら築く。ある高さまで仕上がると祭りをし、さらに土を積んだのでは。ここでは3回、祭祀をした可能性が高い」と言う。
 一方、一瀬和夫京都橘大教授(考古学)は「施工の基準として柱を立て、埴輪片を周囲に押し込んで補強したのではないか。完成後に柱を抜き取って埴輪片が残ったか、埴輪片そのものが目印だった可能性がある」と推測している。〔共同〕


【奈良・平安時代
蝦夷の防御性集落か 野田・新館遺跡の発掘調査
ソースURL: http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20121130_8

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 震災復興に伴い、野田村教委が県教委復興班の支援を得て発掘調査を進める野田村野田の新館(しんだて)遺跡から、平安時代の建物跡や堀跡が出土した。立地などの特徴から防御性集落の可能性があり、奥州藤原氏前史の古代蝦夷(えみし)社会を解明する手掛かりとして注目される。
 高台移転のため約3200平方メートルを調査。標高約42メートルの丘陵の頂上部を取り囲むように、直径約40メートル、幅2・5メートル、深さ約1・5メートルの堀が巡っていた。
 頂上部の掘っ立て柱建物跡は南北方向に約8メートル、東西方向に約5メートル。丘陵の下方では竪穴状遺構5棟を確認した。土器片や鉄器片も出土した。
防御性集落は10世紀後半の東北地方北部の特殊な集落跡(略)
【写真=丘陵の頂上部を取り囲むように堀が巡る新館遺跡。防御性集落の可能性がある=野田村野田】
(2012/11/30)