DQNと呼ばれた俺たちが「怒羅慧門」をやめて「ドラえもん」と書くようになった15の夜。最古級の「ひらがな」が大量に見つかる
京都の平安京跡(佛教大のキャンパス建設地)から、9世紀(平安時代前期)で最古級となるひらがなが大量に書かれた土器が発見されました。京都市埋蔵文化財研究所が28日に発表し、各紙が報じています
読める内容としては、
<ひとにくしとお□はれ(人憎しと思われ)>
また、微妙な内容ですね笑
この頃には、ひらがなと似ていて、ちょっと漢字に近い「草仮名(そうがな)」がありますし、今回も漢字当て字の「万葉仮名」と一緒に出ているとのことですので、京都では色々なアーティストたちが、新しい表現方法を「爆発だ!」とばかりに試していて、そんな一人が書いたものだったのでしょうかね。
=写真は展示する京都市考古博物館(30〜12月16日まで)
ひらがなというと、平安時代の国風文化の象徴です。
定説としては、遣唐使の派遣をやめて「鎖国」したので、国風文化が育ったとなっています。しかし、その後も「鎖国」はなかったことがわかってきましたし、インテリ層ではその後もずーっとバリバリ漢文文化でした。
それで、ひらがなのことを侮蔑的(女性差別的に)に「おんな文字」と呼んだりしたのです。
でも、やっぱり日本語の口語を書くのは、ひらがなは便利ですよね。
男の紀貫之も土佐日記をひらがなで書いたりするのですが、「女のふりをして」と言いますが、実際には新しい表現方法を駆使してみたいという「作家的」な発露なんじゃないかなと恵美嘉樹は思います。
- ひらがなができるまで
ひらがなの基は漢字です。
ひらがなができるまでに
万葉仮名 漢字を当て字にしたもの。怒羅慧門(ドラえもん)とかのDQNネームみたいなものですね。、光宙(ピカチュー)は違いますね、はい。
↓
草仮名(そうがな) 万葉仮名を、さささっと書いて崩した(草体化)もの。ほとんどひらがなです。現に、江戸時代はこれもひらがなと呼んでいました。
土佐日記もこの範疇。
小野道風が書いたとされる国宝の「秋萩帖」(東京国立博物館蔵)が有名です。
↓
ひらがな(平仮名) 草仮名をさらに進化(いや、むしろ退化かな)したもの。10世紀くらいに成立したと言われています。
今回の発見は、草仮名ではなく、このカテゴリーに入るものが9世紀後半にまでさかのぼったということです。
ただ、11世紀(1079年)になっても、万葉仮名が使われていました(仏典注釈書の「金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)」ように、一方通行の進化ではなかったのは要注意です。
(追記)実際、12月7日発売の週刊新潮でこの発見についてと、言語史が専門の杉本つとむ・早稲田大学名誉教授が
「当時の人は。女手(おんなで)と呼び、ひら仮名という概念自体がなかったですし、万葉仮名の崩し字。草仮名(そうがな)との境界が暖昧ですから、こ
れを『ひら仮名』と断定するのは慎重であるべき」
「9世紀の仮名文字資料は今まで地方でしか出ていなかった。それが当時の文化の中心の、しかも貴族の邸宅という特別な場所で見つかった、ということに意味があると思います」とコメントしています。
じっさいに読んでみましょう→「最古のひらがなを読んでみよう-恵美と嘉樹の歴史ニュースウォーキング」
毎日新聞2012年11月29日 東京朝刊
右大臣も務めた平安時代前期の有力貴族、藤原良相(よしみ)(813?67)の邸宅跡(京都市中京区)から、最古級の平仮名 が大量に書かれた9世紀後半の土器が見つかった。京都市埋蔵文化財研究所が28日発表した。平仮名はこれまで、9世紀中ごろから古今和歌集が編さんされた頃(905年)に完成したとされてきたが、わずかな資料しかなく、今回の発見は成立過程の空白を埋める画期的なものという。
佛教大キャンパス建設に伴う昨年の調査で、平安京跡にある邸宅の池跡から9世紀後半のものとみられる墨書の土器約90点が見つかり、うち約20点に平仮名 が書かれていた。下層の井戸跡からは、約10点の木簡や檜扇(ひおうぎ)の断片も見つかった。
専門家が解読を試みたところ、土師器(はじき)の皿や高坏(たかつき)から「かつらきへ」「ひとにくしとお(も)はれ」などの文字が読み取れた。「かつらきへ」は神楽歌の一節の可能性があり、「ひとにくし……」は枕草子(11世紀初め)や蜻蛉(かげろう)日記(10世紀後半)にも登場する表現という。
皿1枚に約40文字もあったり、高坏の脚部分に1〜2ミリ角の細かい文字がびっしり書かれたりしていた。筆跡が違う文字もあり、複数の人物が書いたとみられる。墨の保存状態は良く、筆の運びも鮮明に残っていた。だが後世の平仮名 とは崩し方が異なり、ほとんどは解読できなかった。
(略)
以下は、専門家のコメント
各地の土器に書かれた成立かな期の仮名を観察してきた富山大の鈴木景二教授(古代史)は、(略)「いつか都でも見つかると思っていた。六歌仙の(在原*注)業平もこんな字を書いたのか」
今回見つかった土器には草仮名とひらがな、さらにひらがなが崩れた連綿体(続け書き)が併存していた。
「段階的に発展したという説は再検討の必要がある」と西山良平京都大教授(古代史)。
乾善彦・関西大教授(国語学)も「ひらがなの体系は、すでに10世紀より前にできていたのでは」と話す。
(朝日新聞)
調査に関わった京都大の西山良平教授(日本古代・中世史)は「文化に造詣の深い良相の西三条第で平仮名の使用が進んでいたことが分かった。平仮名の形成期がさかのぼることになり、今後の研究で平仮名の歴史を変える可能性もある」と話している。(京都新聞)
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